花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

箱根の山々

2007-11-29 | 登山
                           【駒ケ岳からの富士】

山陽会として始めての山は 箱根山の最高峰「神山」と決まりました。ベテラン・リーダーはこの山を取り巻く山を網羅して「紅葉を探しに参りましょう!」と縦走の計画を立てられました。

箱根湯本から登山電車でスイッチバックを繰り返しながら何十年振りかの楽しさを思い出していました。窓外は紅葉の真只中で強羅駅からケーブルカーに乗り換えて、早雲山駅から登山の第一歩が始まりました。

【登山電車の車窓から】

【早雲山に向かう 木々を透かして昨年登った金時山が見えかくれ・・】


大涌谷・神山と お中道の分岐で前者を選択。大涌谷から硫黄の匂が漂って来て、目をやると蒸気が見えています。火山ガスの影響で通行禁止の時もあるようですが今回は全て通ることが出来ました。
落葉樹林が多くイワカガミの群落が幾つも見られて、花の咲く頃再来しなければと話し合ったりしたのでした。

【イワカガミの群落】


暫くすると冠ヶ岳(1412m)の標識が。仙石原方面から見ると烏帽子のように見えるところから命名されたとあります。急坂を登った頂上はお弁当を頂くのに格好の広さでした。
次を目指しましょう。10分で神山(1438m)の頂上でした。
10名くらいのパーティーが食事中でした。見通しは効かないけれど花木が何本か有って良い雰囲気でした。
標識には「駒ケ岳、二子山などと共に中央火口丘を形成しています。古くから神の山として崇められてきた山岳信仰の霊山です。サンショウバラ、ヤマボウシ、ブナ、が多く見られます」。

【記念撮影を申し出ていただく】


神山と次の駒ケ岳の鞍部が広々とした眺望で、花の季節に又もや思いを馳せたのでした。
【マユミの実が此処では沢山残っていました】

【野イバラの実】


さあ最後の山に挑戦です。大きな岩が立ちはだかり、カラスのテリトリーらしく大声で鳴きながら飛ぶ樣は気持ちの好いものでは有りませんでした。

頂上近くなって富士山が雲の上に鎮座しています。我々を待っていてくれたのかと思ったほど嬉しいことだったのです。(この一年まともな富士山に出会ったことが無かったのですから・・・)

広い駒ケ岳の頂上を歩いて360°の眺望を楽しみました。富士に背を向けると霞の掛かったような伊豆半島 左に相模湾右は駿河湾が光って見えます。
駒ケ岳神社に手を合わせてケーブルカーで降りる事にいたしましょう。

【駒ケ岳を箱根園から見上げる】


早雲山・冠ヶ岳・神山・駒ケ岳と4ツの頂上を踏破して6時間少々。晩秋の箱根の
紅葉・黄葉に包まれた一日を、いで湯に浸かって絞めに致しました。

古都鎌倉史跡めぐり 「秋深き巡礼道を歩く」 

2007-11-22 | 鎌倉の四季
                           【山茶花(報国寺)】 

      ・・・衣張山から名越切通しへ・・・

源頼朝は観音信者でしたので、関東地方の豪族に其の地方の観世音を本尊とする有力寺院を推挙させ、鎌倉を拠点とする坂東三十三ヶ所を設定しました。 

今回は『鎌倉第十番札所報国寺』からの出発でした。
「竹の寺」とも言われ1000本を越える孟宗竹があります。この地が北限で元気のいい竹として武士に好まれました。 開基は足利家時(尊氏の祖父)。 
本堂に釈迦の仏像。庭を経て加葉堂(カショウドウ:釈迦の墓)があります。

【加葉堂を本堂より撮影】


美しい報国寺の庭を散策しました。
【竹林】

     【千両】
     
          【藪椿】
           

巡礼道は かって杉本寺(一番札所)から岩殿寺(二番札所)に通じる観音巡りの道がありましたが、宅地造成のためその道がなくなり現在は浄明寺緑地へ通じる「衣張山ハイキングコース」に変わっています。

【衣張山】
この山名は、源頼朝が政子のために夏の暑い日 この山を白絹で覆わせて、雪の降りかかる冬景色に見立てて涼をとった伝説に由来しています。
標高120.1m 手前の山 遠く稲村ガ崎 尚遠く右上に富士も見えます。


浄明寺緑地は「子供自然ふれあいの森」とも呼ばれ広々とした明るい森が広がり、海に向かった見晴台でお弁当でした。
紅葉には少し早かったようですが、櫨の木が沢山ありましたので蝋を採っていたのでしょうか。

【12月に入れば紅葉の見頃だと言う事でした】

【櫨(雄株)】

          【櫨(雌株)】
          

頼朝の死後、北条氏は源氏の有力御家人を次々と亡ぼしましたが、三浦半島を本拠地とする三浦氏には手を出せず、名越の山を城郭構造に築きました。道は険しく切岸の迫った所や、天然の地形に人工の防備の跡が残されています。
【名越切通し 細く急坂】

【名越切通し 障害物を置く】

【切岸 10mくらいの垂直の岸】


明治16年名越ずい道が開通するまで、この坂道は利用されました。
今はハイキングで楽しんでいます。
最後に晩秋の植物を・・・
【山茶花】

     【ツワブキ】
     
          【ススキ】
                      

奥久慈 男体山へ

2007-11-16 | 登山
                    【ハウチワカエデのグラデーション】

我が登山会の一年の計画は年度初めに発表されます。したがってお天気が気懸りですが、そして今年はかなり雨具の出番がありましたが、この度は雲一つない快晴に恵まれました。
奥久慈は茨城県の北部にあたります。男体山(654m)は日光の山と同姓同名ですがどこかに関連があるのでしょうか(?)北西に日光連山があり、幾重にも重なる山波が対峙しているのであれば面白い話ですが、本当のところは知らないのです。

登山口にバスが近付くうちに、紅葉を纏って聳える山波が迫ってきました。
前回3千m級に登っていますので、6百余mは低山には違いありませんが、なにやら大変そうな予感がしてきました。
登山道の花が終わって、紅葉・黄葉が目立ち始めたと思う間もなく左手の視界が開けて、夢中でシャッターを押し続けました。

【何色あるのでしょうか・・・】



【山波は幾重にも重なって 日光の方角かな~】


男体山の山頂には小さい祠があり、一段下がった所でお弁当になりました。
少し遅れているとかで30分の休憩でした。まだまだ元気です。
花が無いなら低木の葉が色よく並んでいるではありませんか。

【サルトリイバラ】


     【ウリハダカエデ】
     

          【蔦カエデ】
          

【ウリカエデ】


     【壇香梅】
     

          【マルバカエデ】
          

尾根道を進んでいます。アップ・ダウンを何度繰り返したでしょうか 何処までもモミジの風景は左右に眺める事が出来ています。鎖場も何度かありましたしピークに立っても表示が何もされていないのです。登りは手を使わなければならないほどの急登の連続で、ライトが必要なほど釣瓶落としになって総勢14人声を掛け合って暗い石段を降り、袋田の滝の手前でバスに乗る事になってしまいました。
滝を見られなかったのは残念でしたが、皆無事だった事は何よりでした。足が遅かったかな~の反省が残りました。2万5千歩の山歩きでした。(何時もより1万歩多いい)

こんな漢字、読めるよという難しい漢字を教えてください

2007-11-11 | TBの練習
                            【ホトトギスの花】

今週のTBからの質問は漢字のお尋ねです。
難しい漢字の中から特筆したい二つの事を書いてみたいと思います。

⑴正倉院御物の名前
 紺牙撥鏤棊子
 紅牙撥鏤棊子
 木画紫檀棊局

⑵花の名前
 黒唐飛廉
 唐種招霊
 杜若
 浜払子

では読み方です。
⑴ コンゲバチルノキシ・・・碁石(紺色に花食い鳥の彩色絵)
  コウゲバチルノキシ・・・碁石(紅色に花食い鳥の彩色絵)
  モクガシタンノキキョク・・・碁盤(碁石を入れる引き出しがあります)

⑵ クロトウヒレン
  カラタネオガタマ
  カキツバタ
  ハマホッス


「 文豪 夏目漱石 」 特別展へ

2007-11-06 | 美術館
      【 夏目漱石肖像 1912年(大正元) 神奈川近代文学館蔵 】

東北大学創立100周年記念 朝日新聞入社100年 江戸東京博物館開館15周年記念 と非常に区切り良く『特別展』は今年を於いて他に無いと言う年の巡り合わせでもありました。
なぜ東北大学(?)・・漱石のコレクションは、太平洋戦争の最中漱石の弟子であり、当時旧東北帝国大学付属図書館 館長であった小宮豊隆の尽力で、新宿にあった漱石最期の住居「漱石山房」から移動させて奇跡的に残った蔵書3000冊を中心に、その後も拡充されていったものです。

漱石展の膨大な資料をを拝見していて「語学」「文学」「英文学」「美術」「哲学」「書画」「漢詩」「俳句」「謡い」「宗教論」・・・興味を持ちさえすれば全て我が物にされた多才振りは驚嘆です。

生い立ちとしては不幸であったかもしれません。 1867年 江戸・牛込馬場下に名主の子として生を受け、多くの兄・姉の末弟故に里子に出されました。
学校も幾つも転校したようですし、私が痛々しく思う事は病を経験して進級試験を受けられず、此処で発奮して以後主席を通したとありますが、生涯幾つもの病に冒され大吐血にも見舞われて50歳の若さで一生を終えねばならなかったことは、如何ばかり無念だったことでしょう。しかしこの一生で日本語の基礎を作り、日本語のあり方に大きく影響を与えました。

1900年英語研究のため文部省から英国への留学を命じられました。 9月8日横浜港を出て10月8日にはロンドンに着いています。其の前にマルセーユからは陸路でパリに一週間滞在し3回もパリ博に行っています。エッフェル塔のエレベーターでの驚き、日本と西洋の違い、日本の将来、孤独の悩み等を滞英日記に書き記しています。
ロンドンでは転々と下宿先を変えていました。居心地の問題でしょうか。
シェイクスピア作品の講読。 展覧会のカタログ(バーンジョーンズ・ワッツ・ホルマンハント・レイトン・Eミレー)五人の世紀末画家を取り上げています。 演劇のパンフレット。 美術月刊誌。 ナショナルギャラリーの展示カタログ(バーンジョーンズ・ロセッテイ・ワッツ・コンスタブル)の風景画集など。
夥しい本を購入。

1903年(35年)発狂の噂で急遽帰国命令が降りました。

帰国後は東京帝国大学で教鞭をとることになりました。ここで神経衰弱を病みます。
高浜虚子の進言で気分転換のため「創作」を始めました。落語の手法でユーモアを取り入れ『我輩は猫である』を執筆。高く評価され『坊ちゃん』『草枕』『二百十日』『野分』と続々発表 作家として歩みはじめました。
『文学評論』を日本文と英文と交互に書きました。

          

明治40年朝日新聞社より専属作家として招聘の話が舞い込みます。
ほぼ漱石の望む条件が整えられ40歳にして新聞社と言う新しい分野に踏み込みました。小説を書く他にも同時代の文学や美術に批評を加える評論家として、紙上で大いに活躍し 明治という時代を精確に捉えた「文芸批評」を展開しました。

【漱石八態 岡本一平画 朝日新聞社初期時代】
          

早稲田南町 「漱石山房」に転居。
木曜の午後3時 面会日とした「木曜会」は、人間性と学識に惹かれた門下生が集まりました。芥川龍之介もいました。
一人一人と対話し的確な助言をして門下生の才能を開花させると共に、心の交流を深めました。
その日以外は大部分を執筆に費やし、他の時間は子供たちと散歩に出かけ大好物のアイスクリームを食べて、趣味の謡の稽古をし、漢詩や書画の制作に没頭し 様々なことに興味を持ち充実した日を過ごしました。

明治44年博士号授与→博士号辞退
『只の夏目なにがしかで暮らしたい したがって私は学位を頂きたくないのであります』