花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

続 「義経記」   (抄文・抄訳)

2005-08-28 | 鎌倉の四季
 
  ▲前編▲

 [第四巻]

■{頼朝 義経初対面}  於: 浮島ガ原 義経は兵衛佐殿の陣より三町許り引退いて陣を取る。佐殿はこれを見て「白旗・白印の清げなる武者五六十騎にて見えたるは誰なるらん、尋ねて参れ」。使者の問いに「幼名は牛若 奥州に下り居りましたが、ご謀反の由承り馳せ参った者」。
義経が頼朝の陣幕に導き入ると「八幡太郎義家殿、後三年ノ役に苦戦の時、弟君の義光殿が奥州へ駆け下り二百余騎の援軍で奥州を従えたと言う。其の時の義家殿の御心も、今 頼朝がそなたを迎える気持に比べ、如何で勝るであろうか」と涙を流し、義経も涙の袂を絞りました。やがて義経は平家追悼の大将軍となったのです。

■{義経 平家追討に上る} 義経 海道の戦に討ち勝ち寿永三年(1184)上洛して平家を追い落とし、一ノ谷・屋島・壇ノ浦、所々の忠を致し、先を駆け身を砕き、
終に平家を攻め亡ぼして、大将軍前の内大臣宗盛親子を生捕り、三十人具足して上洛す。院内の見参に入り元歴元年(1184)検非違使五位の尉を給わる。
大夫判官は、宗盛親子を具足して腰越に到着。梶原景時は「判官殿は野心をお持ちで、關より西を義経が給わり、その後将軍は二人になると仰せでした」と告げ口をし、更に「判官殿は、鵯越の断崖を小勢で駆下って勝利し、屋島でも五十余騎の小勢で、平家数万騎を追散らした武勇の人、多くの武士たちが心服しております。このような方を何の顧慮もなく、鎌倉に入れても良いものでしょうか」と言いました。そこで頼朝は宗盛父子だけを鎌倉に入れ、義経は腰越に留め置きました。
義経は野心無き事の起請文を提出し、重ねて上申書を差し出しました。

■{腰越の申状}左衛門少尉源義経、恐れ乍ら申上候意趣は、御代官の其一に撰ばれ、勅宣の御使として、朝敵を傾け、累代弓箭の芸を顕はし、会稽の恥辱を雪ぐ。抽賞を被る可きの処、思の外虎口の讒言に依りて、莫大の勲功を黙止せらる。義経犯す無くして咎を蒙る。功有りて誤無しと雖も、御勘気を蒙るの間、空しく紅涙に沈む。倩事の意を案ずるに、良薬口に苦く、忠言耳に逆らうは先言なり。茲に因りて、讒者の実否を糺されず、鎌倉中に入れられざるの間、素意を述ぶる能わず、徒に数日を送る。此時に当りて、永く恩顔を拝し奉らずば、骨肉同胞の儀既に空しきに似たり。宿運の極まる処か、将又先世の業因を感ずるか。悲しい哉、此条、故亡父の尊霊再誕し給わずんば、誰人か愚意の悲歎を申披かん、何の輩か哀憐を垂れんや。事新しき申状、述懐に似たりと雖も、義経、身体髪膚を父母に受け、幾時節を経ずして、故頭殿御他界の間、実無之子と成りて母の懐中に抱かれ、大和国宇多郡竜門牧に赴きて以来、一日片時も安堵の思に住せず、甲斐無きの命許を存らうと雖も、京都の経廻難治の間、諸国に流行せしめ、身を在々所々に隠し、辺土遠国を栖と為して、土民百姓等に服仕せらる。然れども幸慶忽ち純熟して、平家の一族追討の為、上洛せしむるの手合に、木曾義仲を誅戮するの後、平氏を責め傾けんが為、或時は峨々たる巌石に駿馬を策ち敵の為に命を亡ぼすを顧みず、或時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、身を海底に沈め、骸を鯨鯢の鰓に懸くるも痛まず、加之、甲冑を枕と為し、弓箭を業と為す。本意併しながら亡魂の憤を休め奉り、年来の宿望を遂げんと欲するの外他事無し。剰へ義経五位尉に補任の条、当家の面目希代の重職、何事か之に加えんや。然りと雖も、今愁深く、歎切なり。仏神の御助非ざるよりの外は、争か愁訴を達せん。茲に因りて、諸神諸社牛王宝印の裏を以て、全く野心を挿まざるの旨、日本国中大少の神祇冥道を請じ驚かし奉り、数通の起請文を書き進らすと雖も、猶以て御宥免無し。其れ我国は神国なり、神は非礼を禀く可からず。憑む所は他に非ず、偏に貴殿広大の御慈悲を仰ぐ。便宜を伺いて高聞に達せしめ、秘計を廻らされて、誤無きの旨を優ぜられ、芳免に預からば、積善の余慶を家門に及ぼし、永く栄花を子孫に伝へん。仍って年来の愁眉を開き、一期の安寧を得んこと、愚詞を書き尽さず、併しながら省略せしめ候い畢んぬ。賢察を垂れられんと欲す、義経、恐惶謹言。

   元暦二年(一一八五)五月日   左衛門少尉源義経進上 因幡前司殿

                   (原漢文・『吾妻鏡』より 全文拝借)

■{義経都落} 義経は院御所に上奏「義経追討軍が派遣されました。取りあえず四国・九州に下向したいと存じます」。総勢五百人が大船で四国を目指しますが、
漕ぎ行く内に霰混じりの烈風が吹き、人々は船底にひれ伏して前進出来ない状態になりました。

■{大物の浦 住吉} 大物の浦に押し戻されて、怪しき船影があり大船小船に乗り分けての舟戦になり義経勢の勝ち戦になりました。
明くる日西の風烈しく吹いた為、判官の船は住吉の浦へ打ち上げられ、一行は大和国宇陀郡岸岡へ潜行しましたが、北条時政の軍勢が寄せると聞き、文治元年十二月に吉野山に身を隠しました。

                 (第五巻以降は後日に続きます)

   
    写真:鵯越から一ノ谷を覗き込む義経

     


 

今したいこと?

2005-08-24 | TBの練習

先ずしなければならないことは?
OLYMPUS C-770 Ultra Zoom はもう廃盤になり、安く手に入れたのですが、2ヶ月経ってもまだ使いこなす事が出来ない位沢山の機能がついていて、
自在に撮れる日を目指して頑張らなければなりません。

goo blog のTBに投稿をしました。今回のタイトルで考えていたら「ヤッパリこれかな!」 間もなく唐松岳登山の日が来るし、9月下旬には北海道での撮影会もあるのだから・・・

続 「義経記」   (抄文・抄訳)

2005-08-22 | Weblog
   
   ▲前編▲

 [第三巻]

■{弁慶の父親・誕生} 諸説あり 御伽草子の『橋弁慶』では、実在の第21代熊野別当「湛増」としています。
生年出生地は未詳 『平家物語』では(湛増は、平家・源氏の何れに味方するか迷った末に、熊野権現の神前で赤鶏七羽と白鶏七羽の闘鶏を行い、赤鶏は一羽も勝たず皆逃げ出したので、源氏に味方する事にした)と有ります。

■{義経・弁慶の決闘} 弁慶思うに 「人の重宝は千揃えて持つもの」買ひても持たず夜に入り人の太刀を取り歩く。
六月十七日の夜 弁慶が五条天神を南に下ると妙な笛の音と共に、立派な黄金造りの太刀を帯びた若者に出会います。「太刀をこちらへ差し出して通れ」と言うと、義経は「欲しければ寄って取れ」 弁慶が大太刀で飛び掛りますが、義経は稲妻のように左脇に避け相手の胸を強かに踏みつけたので、太刀を落としてしまいました。
義経は其の太刀を拾い九尺の築地に飛び上がりました。弁慶は義経が土塀から降りるところを、駆け寄り斬りつけますが地に足を下ろさず、空中を引き返して土塀の上にユラリ飛戻り、弁慶は空しく引き返したのでした。

■{弁慶 義経に臣従の誓い} 翌六月十八日 夜更けて清水坂に昨夜の笛の音が聞こえてきます。弁慶は再度襲い掛かりますが失敗します。
其夜 清水寺御堂内に義経を見つけた弁慶は三度目の強請りをします。二人は外に出て斬合いとなり人々は大騒ぎになりました。弁慶が打ち損じた所を、義経は刀の背で強かに打ち据えました。流石に弁慶も降参し臣従を誓うのでした。
その後 義経は東山道から途中「義仲」にも会って奥州に向いました。奥州の義経はやがて二十四歳なりました。

■{頼朝謀反} 治承四年(1180)伊豆の兵衛佐殿謀反を起こす。真鶴ヶ崎より舟にて三浦を指すも風激しく安房の国洲ノ崎に上陸。やがて和田義盛・佐原義連の勢三百余人、丸太郎・安西太夫の五百余騎、上総の豪族達一千余騎が参陣、更に上総介
広常や千葉介常胤三千余騎が源氏勢に加わりました。
又 伊豆・常陸・上野・武蔵の豪族、武蔵党の丹・横山・猪股も集まり、市川では
十九万騎を数えました。
隅田川では水嵩が溢れ、対岸で待ち構えた江戸重長の勢に浮橋の組上げを命じ、千葉介常胤の助けを借りて総勢は隅田川を渡り小板橋に着いたのでした。

■{義経奥州を出立} 頼朝のこと奥州にも聞こゆ。秀衡は「兵衛佐殿こそ平家を攻めて都に上る御方。御曹司追着き奉りて一方の大将軍をも望まばやと存じ候」とて三百余騎をつけ、武蔵坊・常陸坊・伊勢義盛・佐藤継信・忠信兄弟が従い全速力で出立いたしました。

             (第四巻以降は後日に續きます)
   
  
 写真:源氏の家紋は笹竜胆。オヤマリンドウが相応しい・・(中澤久氏 撮影)





 

続 「義経記」  (抄文・抄訳)

2005-08-21 | Weblog
   
   ▲前編▲

 [第二巻]

■{強盗退治} 奥州下向の途中鏡宿で強盗に狙われる。吉次は六波羅の追手と錯覚
して逃げ出すが、遮那王は強盗と見当をつけ 太刀を抜いて盗賊の中に切り込み、
打首にして晒しました。
以後吉次は遮那王を益々丁寧に扱いました。やがて尾張の国熱田神宮に到着。

■{遮那王元服} 熱田の大宮司は義朝の舅。一行は懇ろなもてなしを受けます。
遮那王は「熱田大明神の御前にて元服す」と。「祖父は為義 父は義朝 長兄は義平で自分は義経と名乗ろう」 自ら烏帽子を被り《源九郎義経》と名乗りました。

■{藤原秀衡・息子} 秀衡には泰衡・国衡・忠衡・高衡・通衡・頼衡の6人の男子
が有ります(本によっては多少の混乱が見られます。)
秀衡は源氏の訪れを「嬉しけれ」とし、家の内も庭も整え 衣冠を正して勢三百五十余騎にて栗原寺へ馳せ参り御曹司の見参に入りました。
秀衡は吉次に唐櫃の蓋一杯の砂金を与え、泰衡達からも贈り物があり、吉次は満足して京に上ってゆきました。
義経は何の不自由もなく過ごしていましたが、無為の生活に倦んで又京に向いました。

         (第三巻以降は後日に續きます)
 
 
  写真:緋縅の甲冑から花なら赤色・・「鶏頭と御曹司」無理ならば御容赦を。



30年前を髣髴するような

2005-08-15 | Weblog

郷里から小学生と中学生の男の子と、そのお母さんがやって来ました。
6ヶ月前はそのお父さんもいて、数時間だけだったので風のように駆け抜けて行きましたが 今回は2泊しました。

あちらの要望も聞いていたので、丸一日使えるなかびを「MM21~中華街へのコース」の幾通りかを温めていたのですが「お買い物が大好き!」が解って、其のお付き合いがたいへんだったので~す。

 (ランドマークタワーは初めてと言うことで360°楽しそうでした。
  眼下↑のコースからと決まる) 

お母さんはファッションや鞄・子供たちは靴や本やetc・・・
夫はその都度ベンチでお待ちを、私は3者を何時も視野に入れておく羽目に。

三菱みなとみらい技術館やシーバスは立ち消えになって、ワールドポーターズや
赤レンガ倉庫・山下公園から元町商店街と渡り歩いて(チョットはタクシーにも)中華街でお食事が終わった時は、9時に近くヨコハマスタジアムの側で大歓声を聞いたのです。(それは ウレシイ逆転劇!! 疲れも飛んでゆきました)

私も同じ年齢差の子供を連れて帰省していたんだった な~んて思い出したりしたのでした。

鎌倉八幡   雪洞祭

2005-08-09 | 鎌倉の四季

ゆかりの文化人の書画を雪洞にしたてて、夕刻から灯りが入り境内のあらゆる広場や道という道 池のほとりまで幻想的な情景が広がり、一時を過ごすことが出来ました。



 
  灯りがともり始めました。





  この地に相応しい絵に逢いました。

雪洞祭は高浜虚子、里見ら鎌倉在住の文化人が観光客を境内に誘致する為に始められました。 全部見るのは大変ですが知っている方として・・
石原慎太郎の書。扇千景夫妻の書。内橋克人の書。 みのもんたの書。などなど。最後の(入り口の)竹中直人の自画像は良く表現されていたと思いました。
 
 (複数の写真の掲載と三脚ナシの夜景は色々無理がありました・・)

遣唐使 「井 真成」の墓誌

2005-08-06 | 美術館

始めてのニュースに接した時「何と言う清々しさだろう」と思いました。
現在の日中関係を思う時、文化の粋を惜しみなく注ぎ 又優秀だと認められれば
唐にとどまって高官にまで栄進させる懐の深さがありました。

井真成は帰国直前に死亡しますが「墓誌」が出土して誰であろうかと・・・難破船
では何も残らず、そのような留学生も数知れなかったはずです。

計らずも千数百年を経て当時の歴史が再現されたわけです。真実は一つ 歴史を
書き換えるとよく言いますが、以前のものが偽りであったことになることも。

真成の墓誌は 縦40・3cm 横39・2cm で黒曜石に楷書で書かれていました。

「尚衣奉御を追贈された井公の墓誌の文 序と并せる
 公は姓は井 通称は真成。国は日本といい、才は生まれながらに優れていた。
それで命を受けて遠国へ派遣され、中国に馬を走らせて訪れた。中国の礼儀教養
を身につけ、中国の風俗に同化した。正装して朝廷に立ったなら、並ぶものは
なかったに違いない。だから誰が予想しただろう、よく勉学し、まだそれを成し
遂げないのに、思いもかけず突然死ぬとは。開源二十二年(734)正月❑日に官舎
で亡くなった。年齢は三十六だった。皇帝(玄宗)はこれを痛み、しきたりに
則って栄誉を称え、詔勅によって尚衣奉御の官職を贈り、葬儀は官でとり行わせ
た。其の年二月四日に万年縣の滻河の東の原に葬った。礼に基ずいてである。
ああ、夜明けに柩をのせた素木の車を引いてゆき、葬列は赤いのぼりを立てて
哀悼の意を表した。真成は、遠い国にいることをなげきながら、夕暮れに倒れ、
人気のない郊外におもむいて、墓で悲しんでいる。
 その言葉にいうには、「死ぬ事は天の常道だが、哀しいのは遠方である事だ。
身体はもう異国に埋められたが、魂は故郷に帰ることを願っている」と。

(原文・読み下し・現代語訳はすべて、展覧会ゲストキュレーターの東野治之・
奈良大学教授による) 


  写真:入場券

続 白い花

2005-08-02 | Weblog
★シロツメグサ

先月の登山は早池峰山でした 高山植物の宝庫なのです。一番逢いたかったのは
山名を戴く「ハヤチネウスユキソウ」 白い綿毛に包まれて神々しいほどでした。

それと同じくらい「シロツメグサ」にも楽しい出来事があったのです。
我会長が一面のクローバー畑の中から《四葉のクローバー》を探し出されたのです。
子供の頃から見つけるのが得意だったとか。

胸に翳し満面の笑みの一枚を撮らして戴きました。本当にいいお顔でした!
 


白い花

2005-08-02 | Weblog
白丁花
夏は涼やかな花を・・私は子供の頃ホタルグサと言っていました。キット姉や兄の真似をしていたのだと思うけど、本当に蛍の宿だったのかしら? あの頃はホタルが沢山いたなぁ~「こっちの水は甘いぞ」と呼び寄せて、手のひらにソットのせて蚊帳の中に放したりして、その小さな宇宙は楽しく 思うだに胸がキュンとする程の懐かしい思い出です。