花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

三溪園

2009-11-30 | 撮影を楽しむ
                                                         【もみじ もみじ】

三溪園は 生糸貿易の実業家原三溪の邸宅に、鎌倉や京都から歴史的価値のある建築物を移築して、明治39年に「三溪園」として一般に公開されました。広大な園内に四季折々の景観の中、巧みに古建築物が配されています。
この季節に合わせてライトアップが行われるので、我写真クラブから撮影の呼びかけを頂き夜景撮影に参加して参りました。
明るい時から次第に夕闇の時への変化に、指示を仰ぐばかりで一朝一夕には難しい事ばかりでしたが・・・

【トップの真紅の紅葉に比して、深まる秋色のグラデーションです】
     

【聴秋閣 三代将軍徳川家光が上洛に際し佐久間将監に命じて京都二条城内につくらせ、後に春日局に賜り三溪園には大正11年に移築されました】
     

【三重塔 明治39年の開園に合わせて、京都・燈明寺から移築されました。】
①明るさのある晩秋の三重塔→ ②暮れなん空 塔に点灯→ ③夕闇に輝く
① 

②         

③     

逗子 流鏑馬

2009-11-24 | 鎌倉の四季

                         【流鏑馬のお披露目】

「吾妻鏡」は鎌倉幕府の行事記録ですが、正治2年(1199)二代将軍源頼家が、逗子小坪の海岸で弓馬の達人を集めて「笠懸」を射させたという記録があります。
笠懸とは「流鏑馬」同様、疾走する馬上から弓を射るという関東武士の当時最高の武技であったのです。
尚武の気風に富む頼家は、好んでしばしば行った事が記録に残されています。

「流鏑馬」は起源が古く、六世紀の半ば神事として始まり平安朝では、宮廷の公事として年々催されておりました。
源頼朝が鎌倉に幕府を開き全国統一を果たした事で、天下泰平を祈願するため文治3年(1187)8月15日鎌倉八幡宮で「流鏑馬」を催し、以来源家三代を経て文永3年(1267)まで毎年行われました。

時経て昭和20年の終戦後米国進駐軍に、武田流司家が流鏑馬騎射を披露したところ、この日本伝統武芸に魅せられて「流鏑馬の練習」に励んだとあります。
昭和23~24年には逗子の人々も観覧に加わり 日米親善流鏑馬騎射会が盛大に行われて地元の人々に大きな慰めと希望を与える事になりました。

今年私は初参加でしたが早めに最前列に陣取ることが出来て幸いでした。アメリカの人たちもいて多勢の人が海岸を埋め尽くしていました。
儀式に則って粛々と進められますが、最初のところは場所的に拝見が叶わずこれは来年に持ち越しと致しました。
馬場には3つの「式乃的(しきのまと)」が立てられ、馬上の射手は馬を全速力で走らせながら腰の鏑矢を抜いて重藤(しげとう)の弓につがえ、一の的から次々に三の的まで馬場を駆け抜けます。私はこの式乃的を拝見出来て満足でした。

鎌倉鶴岡八幡宮の流鏑馬は参道を十字に横切って、両側の人垣の間を馬は疾走しますが、逗子海岸では大海原を背に駆け抜ける様を味合わうことが出来たのでした。

【これぞ流鏑馬→ 的を定め→ 矢は放たれる→ 尚も疾走 】

       
     

東から西に向かって3つの的を狙った後はその馬場を歩いて出発地点に戻ります。6人の射手はこれを3回繰り返すのです。

     

逗子の海も賑わっているようでした。
  

デジカメ 「百人展」

2009-11-17 | 撮影を楽しむ
     
          【JCIIクラブ25】(パンフレットから引用)

「JCIIクラブ25」は東京メトロ半蔵門駅から程近い 写真・映像文化向上を目的とした「展示用貸しギャラリー」です。
表題の如く一週間借り切って、私たち「デジカメボランティア会」の写真展示が成されました。
展示会場では 自らA4に印刷した会心作は額縁に収まって堂々と立派です。

コンパクトデジカメで撮影したのが申し訳なかったのですが、会場の様子を貼付してみましょう。

【私の一押し作品】
     
     
     
     

           

一人2枚提出でしたので、単純には200枚ですがもう少し多かったやに伺っています。發色が悪く申し訳なく思います。もう少し落ち着いた色目をご想像いただければ幸いです。    

象の鼻 パーク

2009-11-08 | 撮影を楽しむ

                          【象の鼻の見える風景】

桜木町に所用があって、かねてから見ておきたいと思っていた「象の鼻」を遠くから、近くからと見てくることが出来ました。

☆安政6年(1859)の横浜開港に伴い、幕府は開港場の中央部に波止場を建設し、その中心地点に税関を設置しました。2本の突堤が岸から真っ直ぐに海に向かって突き出した簡素なもので、東側の突堤は外国貨物の、西側の突堤は国内貨物の積み下ろしに使用されました。慶応2年(1866)の横浜大火により被害を受けた税関施設の復興と共に、慶応3年幕府は東側の突堤を延長して象の鼻のように弓なりになった防波堤を築造します。この防波堤に依って荷役作業は一気に効果があがりました。
現在 日本大通りと象の鼻パークを分断するように、高架の鉄軌道が「山下臨港線プロムナード」として利用されています。象の鼻の全貌がよく見える「象の鼻テラス」でトップの写真を撮ることが出来ました。

【日本大通り】


【象の鼻を囲む風景】
現在象の鼻に囲まれた湾内は船溜になっていて、美しく飾られた船なども見られます。
    

【寄港船】
大桟橋には外国航路の客船が停泊していました。
          

【ランドマークタワー】
大岡川の河口近くから撮る
          

【カモメの整列】

          
桜木町の駅までは見飽きない風景が連なって、ゆっくり散策が楽しめました。          

いたち川沿いに、鎌倉ゆかりの古刹を訪ねる

2009-11-01 | 鎌倉の四季

                               【いたち川】

「いたち川」は「出で立ち川」が変わったものだと言われています。
鎌倉街道宿として交通上・軍事上の要衝の地であったことから、安全を祈る儀式に由来し古くからの慣例が有ったようです。
鎌倉駅北口から環状4号線で光明寺までバスを利用。本日の行程は殆どが鎌倉と背中合わせの横浜の地であったようです。「いたち川」も長い歴史を経るうちに、「出で立ち」は「鼬」に変化して行ったのでしょう。此の川を付かず離れず歩きましたが橋の欄干や標識はもう「鼬」「鼬」でした。
海にたどり着くまでには、3度も名前が変わっているのです。「いたち川」→「柏尾川」→「境川」と。

【光明寺】
○宗派 浄土真宗
○本尊 阿弥陀如来
縁起は古く開創は聖徳太子の寵臣秦河勝。時経て元弘3年(1333)、新田義貞の鎌倉攻めで北条氏の寺だとして焼き討ちに遭い全焼。戦国時代には小田原北条氏綱の浄土真宗弾圧で苦しめられます。そして江戸時代になり鎌倉北条氏ゆかりの寺として、三代将軍家光からご朱印地13石を安堵されました。

          

【證菩提寺】
○宗派 古儀真言宗
○開基 源頼朝
治承4年(1180)伊豆で挙兵した頼朝(三百騎)は、平家方の大庭景親、俣野景久(三千騎)軍と石橋山で合戦敗走します。この時三浦義明の弟で岡崎義実の嫡男で25歳の若武者 左奈田与一義忠が頼朝をかばって戦死するのです。後に幕府の安泰を得た頼朝は、与一の忠義に報いるため鎌倉の鬼門である山内庄本郷に寺を建立し追善供養と幕府鎮護を祈願しました。
広大な境内に七堂伽藍の大寺でしたが、頼朝・政子の死後荒廃しました。

《現在 屋根には源氏の紋が》     《境内の高台からは富士山の遠望》
     
                            

三代執権北条泰時の娘が嘉禎2年(1236)「本郷新阿弥陀堂」を建立したと伝えられています。この阿弥陀三尊像は、藤原時代最末期の仏像彫刻として貴重であり、現在「国の重要文化財」として宝蔵庫に祀られていて拝観させていただきました。

《新阿弥陀堂の阿弥陀三尊像》 ( web より拝借)
          

【本郷ふじやま公園】
昔から「ふじやま」と呼ばれ、山頂には富士講の記念碑があり富士信仰の山であったようです。
なだらかな起伏があり、江戸時代末期の古民家が移築復元されています。
小高い所でお弁当を頂きましたが、晴れやかで「ふるさとの山の景観」と、唄われているように、懐かしい思いに駆られながら一時が過ぎて行きました。
  
      

【長慶寺】
○宗派 浄土真宗
○本尊 阿弥陀如来像  
鎌倉時代 八幡宮の一切経校合で鎌倉に来た「親鸞」に、時の住持超世が帰依して浄土真宗に改宗したと伝わっています。
親鸞は七体の聖徳太子像を刻み、弟子たちと超世に一体ずつを与えました。
後に石山本願寺と織田信長の合戦の折、時の住持はこの太子像を背負い戦ったと言います。その後寺は小田原北条氏に破壊されてこの地に移ることになりました。
時経て家康が訪れ水を所望「うまい水」が縁で、本堂再建の資金を寄進します。三代将軍家光は寺領13石の朱印状を与え代々保護しました。

《庭園の仏像彫刻》
       

大いたち橋→小いたち橋を通りJR本郷台駅で解散でした。