花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

上野動物園

2011-01-26 | 撮影を楽しむ
      <<動物園入場券>>

何年ぶりでしょうか・・上野駅の公園口から直線コースで5分のところ。美術館にはあんなに行っているのだから、生理的に合わなかったような気がするのです。
今回撮影会と聞いて楽しみにしたのですから、写真効果だと喜ぶことにいたしましょう。

正門から順々に~~。
   
  白鳥
   

     プレリードッグA     
     
        プレリードッグB
   
        プレリードッグC             
 
可愛くてたまらなく可愛くて、何枚シャッターを押したことでしょう! しかも初めて見た 手のひらに乗るほどの大きさ。帰り際に又立ち寄ってしまいました。
「危険が迫ると犬に似た鋭い鳴き声からの命名だそうです」

  ワライカワセミ
           
 
網目が写って見づらいのですが、2羽いて翡翠色のカワセミでないところが「いいかな」とあえて載せました。

  ヘビクイワシ(蛇食い鷲)
               

「おお 怖ッ!」。「英名:書記官長と呼ばれ、冠羽が書記用の羽根ペンを連想させることに由来}

  フラミンゴ
      

  
      

  ハシビロコウ
        

金網越しにこの大口で攻めてきて腰が抜けそうになりました。

  カバ
  

  麒麟
      

北条氏の興亡

2011-01-14 | 鎌倉の四季

<<妙本寺 祖師堂>>
 
<<妙本寺 本堂>>

  妙本寺 

 【山号寺号】長興山妙本寺  【宗派】日蓮宗  【開山】日蓮 
 【開基】比企大学能本(能員の末子) 【創建】文応元年(1260)

現在の妙本寺は鎌倉時代に比企一族が討滅された屋敷跡と言われています。
源頼朝が亡くなると、北条氏と比企氏の勢力争いが起こりました。建仁三年(1203)「比企の乱」と言われる事件で、北条時政の謀略により能員が殺害され、頼家は伊豆修善寺に幽閉され、後に殺されるのです。
この乱で二人の幼児が難を逃れました。頼家の娘と能員の子能本です。この娘が後に四代将軍藤原頼経夫人になったことから、京都で学者となっていた能本は許されて鎌倉に戻り日蓮聖人に帰依し、法華堂を建立して日蓮聖人に寄進するのです。そして父母の法名『長興、妙本』を寺の名前としました。
妙本寺に上記二つの本堂がある謂われです。

祖師堂に入場して講話を拝聴し、堂内を拝観しました。
     
     <<日蓮聖人のお厨子>>

敷地は鎌倉一かもしれない・・と言われるくらい奥深く広大でハイキングコースが数本通っていました。今なお紅葉が残っていましたし、紅・白梅が咲き始めていました。国木田独歩、中原中也、小林秀雄等多くの著名人の墓があるそうです。           頼家の子の墓や比企一族の墓もありますが、お骨はなく記念碑的であろうとの説明です。     
     
     <<頼家の子 一幡の袖塚>>
     
     
     <<比企一族の供養塔>>

  畠山重保の墓 

                
一の鳥居の傍らに建つ大きな宝篋印塔は、畠山重保の墓と伝えられています。
三代将軍源実朝の縁談が整ったため、輿入れのお供に若武者が京へ差し向けられました。
重保もその一人でしたが、仲間内の喧嘩から北条方に讒言され畠山親子は討たれることになるのです。ある時由比ガ浜に向った重保は訳の解らぬまま取り囲まれて討ち取られてしまうのです。又父重忠は領地から少数で鎌倉に向かう途中 北条義時の軍に攻められ討死でした。

  光明寺 

 【宗派】浄土宗  【開基】北条経時  【創建】寛元元年(1243)

祖父三代執権泰時の死去に伴い、四代執権となった経時が佐助ヶ谷に蓮華寺を建てます。
この蓮華寺を現在の地に移して光明寺と改めたのが始まりと言われ、代々の執権がこの寺を敬い建物を増築して建長寺や円覚寺に匹敵する大伽藍になりました。
関東における浄土宗発展の本拠地で江戸時代には徳川家康の定めた浄土宗学問所関東十八檀林の首座でした。
当日 開山堂の大広間で「精進料理」を頂く趣向に参加することが出来ました。
    
          

  安養院 

鎌倉幕府滅亡時の戦により政子が建立した頼朝の墓が消失したため、後に足利公方家の援助で北条政子の法名「安養院」として再建されました。しかし再び全焼したため頼朝に仕えた田代信綱が建立した田代寺を移築して、安養院に合祀されました。本堂裏手に宝篋印塔が並んでいますが鎌倉に現存する中で、年代が特定できる最古のものだと言われています。

          
           

  東勝寺跡 

1333年新田義貞の鎌倉攻めにより14代執権高時は、東勝寺に一族を集め堂に火をかけて一族郎党800余名とともに自害しました。140年余続いた鎌倉幕府は終焉を迎えたのです。今尚金網で囲まれた一郭は草地があるのみで、最奥に腹切りやぐらと書かれた浅い洞窟があり新しく書き換えられた卒塔婆が立て掛られて花が添えられていました。

  法華堂跡(二つの法華堂){

★頼朝の法華堂
 頼朝の観音像を安置した持仏堂があり没後はここに葬られ法華堂になりました。
★北條義時の法華堂
 平成17年に発掘調査が行われ、一辺が8.4mの正方形の三間堂があったと推測され、 「頼朝の東側の少し低い処に義時の墓が」・・との記録から玉砂利が敷かれています。


      

<<手前の土地が推測の場所>>
<<後方の鳥居から石段が2本登っていますが、左からは「大江広元」、毛利の祖とな   る「毛利季光」の墓に行き着き。右からは「島津忠久」の墓に着きます。>>
  島津家の祖となる「島津忠久」は頼朝の子と言われています。      

  鶴岡八幡宮 

承久元年(1218)一月二十七日の夜、三代将軍実朝が右大臣拝賀の式を終え、雪の降る中を石段を降り始めようとした時公曉(頼家の嫡男)に斬りつけられ、首を取られる事件が起きました。享年28歳。この時の儀式で太刀持ちを務めることになっていた二代執権義時は体調不良で中原仲章と交替していました。そして仲章も殺されるのです。
知っていたか、運が良かったかと今も取り沙汰されるところですが、北条はかくして様々な危機・障害にも130年の長期政権を有することができたのでしょう。
公曉が隠れたという銀杏の木が倒れヒコバエが生えていますが、根付くためにはまだ数年かかり結果は不明なのです。

     
     

     

謹賀新年

2011-01-01 | Weblog

      <冨士の雄姿 ’10 12 18 撮影>


   新年がお幸せでありますようお祈り申し上げます。

    楽しい一年を祈念して! 2011年 元旦



    本年も宜しくお願い申し上げます。 花水木



 元日の朝に思いを馳せて・・・
 
 太陽の光を浴びて年のはじめを祝いたいものです。
 昨年は我が家にとって 夫が一ヶ月近い入院から快癒したことで健康の有難
 さを噛み締めることが出来ました。
 老境の二人でささやかな楽しみを紡いでゆきたいと思っています。

 本日は離れている家族と一緒に食事などしながら、積もる話に夜遅くまで
 賑わうことでしょう。