花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

梅香る 『鎌倉古道』へ 

2009-02-26 | 鎌倉の四季
                               【新林公園】

良いお天気で久々の「鎌倉史跡めぐり」に参加できました。
湘南モノレールを深沢駅で下車します。鎌倉時代に御家人が自らの領地と鎌倉を行き来した「鎌倉古道」や江戸時代に弁天信仰で江ノ島へ至る「旧江ノ島道」を巡りました。

【古舘橋(こだてばし)】
「関東八平氏」と呼ばれた 三浦・梶原・長尾・大庭・畠山・千葉・上総・土肥の八氏の祖 桓武天皇四代の高望王の子である村岡五郎平良文が荘園を開き、この地に住み続けた館跡がありました。

【新林公園(しんばやしこうえん)】
30年前にオープンした広大な公園で、市の鳥カワセミのいるバードサンクチュアリがあり、名主の長屋門と寄棟の茅葺屋根が移築されており、お弁当を頂くのに格好の場所でした。
  《紅白梅》


  《藤棚》


【馬喰橋(うまくらいばし)】
源頼朝が片瀬川に馬の鞍を架けて橋の替わりにしたことから呼ばれる様になりました。

【諏訪神社(上社・下社)】
源平合戦の際 諏訪氏は平家に味方し敗れて源氏の囚人になりますが、頼朝の命で流鏑馬の試練を乗り越えて、北条義時・泰時・時頼に仕えて幕府の有力な御家人になってゆき 諏訪大社の祖となりました。
信濃諏訪大社は他郷へ分霊社として勧請され全国数千社に及んでいます。ここ鎌倉の上・下両社の鎮座は極めてまれなことなのです。
諏訪大社の神紋は「梶の葉」。上・下社の神紋は微妙に違っています。

  《上社 梶の足が4本》 
          

          《下社 梶の足が5本》
                    

【龍口山常立寺(りゅうこうざんじょうりゅうじ)】
鎌倉時代龍口刑場で処刑された人々を埋葬し、塚を築き回向供養した所と言われています。
1275年元の使節が国書を携えて来日し、皇帝フビライへの返書を求めますが執権北条時宗は斬首したのです。今では立派な供養塔が建てられています。
毎年大相撲藤沢場所にあわせて、モンゴル力士が参拝に詣でています。

  《しだれ梅》
       

冬の西沢渓谷 

2009-02-22 | 登山
                   【七ツ釜五段の滝上部 K・M氏撮影】

我「山水会」の番外編を企画していただき、奥秩父の秘境『冬の西沢渓谷』の雪と氷の世界を探訪してくる事が出来ました。
春から秋のシーズンには多くの人で賑わうこの渓谷も、白く凍結した静寂の世界に 我々8名と完全装備の撮影目的のお2人以外には誰一人出合わない、緊張の時間を共有したのでした。

山梨県の北部と、長野県・埼玉県に境を接し奥秩父連峰を源流とする笛吹川の上流を流れ落ちる起伏に富んだ渓谷は、飛沫を凍らせ氷華をつくり我々の行く手を阻むのでした。

「山水会」は2~3000mにも登りますが、危険の伴う冬山は予定の無いことが多いいのです。今回会長はアイゼンを着用すれば行けると踏んで西沢渓谷行きを計画されました。
登山道への導入部は広く美しく整備されています。空は雲無く晴れ渡り落葉松が高々と垂直にのび、川の流れに沿って腐葉土の道が緩やかに上向いていました。

【落葉松林を行く】


次第に泡立つ川になったと思う間もなく滝が現れました。
【三重の滝】


この辺りまで来ると、川は飛沫を上げ急流となり比例して道も急坂になってゆくのでした。道には雪は解けているものの氷の滑り台状態が出現し始めていました。
こうなればアイゼンのお出ましです。何年ぶりかの装着は思うに任せずまどろかしいものでした。しかしなんという優れものでしょう。サクサクと好い音を響かせて一歩たりとも仕損じが無かったのでした。
急流に目を向けると「なんということ!」氷の花が輪舞しているではありませんか!!「なぜ?こんな事が?」色々な条件が重なったからでしょうか。

【輪舞する氷華】


川の流れの右側は肩すれすれにツララが分厚く迫り出しています。
【歩道に突き出した氷柱 M・M氏撮影】


ここまでくれば折り返し地点の、「七ツ釜五段の滝」もまじかです。滝を眺める橋は行き止まりになっていました。雪の頃は危険なのでしょうか。この長大な釜と滝は一度にカメラに収めることは不可能なのです。
トップの写真は上部になります。

同じ道を引き返し温泉に浸かって良い一日でした。写真を使わせていただき有難うございました。

ローマ亡き後の地中海世界 上

2009-02-20 | Weblog
【本誌表紙  ローマ時代の遺跡の向こうに広がる夏の地中海(北アフリカ:リビアのレプティス・マーニャ)】


2007年のこの季節 「ローマ人の物語第XV卷 ローマ世界の終焉」を胸に留めてより2年、塩野七生氏はその後を書き進めてくださいました。あの完膚無きまでに打のめされて・・立ち直るには長い年月が・・それは1000年にも及んだのですから。



その1000年を476年に滅亡した西ローマ帝国を奪還して、ビザンチン帝国の名で定着しつつあった東ローマ帝国が、イタリア半島をゲルマン民族とまだら模様に支配する時代になっていました。

570年にアラビア半島のメッカでマホメッド誕生。布教開始が613年 死は632年 その20年の間にアラビア半島の半ばをイスラム化し、その後継者も「右手に剣、左手にコーラン」と破竹の勢いで7、8世紀には広大なアラブ諸国から北アフリカまでの全てを、そしてジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島までも征服するのです。

イスラム教のジハード(聖戦)とは、他宗教を駆逐するその一言に尽きたのです。
陸路の次には目の前に広がる海から、海賊となって先ずシチリアに目をつけたのです。人の多く集まる教会や修道院を襲うや一度に800人もの人々を拉致して奴隷にしたのです。豊かな穀倉地だった北アフリカを再び実らすよりも、海賊となってキリスト教国を略奪し食料を 金品を そして奴隷を手にする早道を選ぶのです。船の漕ぎ手を増やす事が良い循環を作ってゆくのです。
やがてイタリアの南端から、中腹からと海沿いにフランスの沿岸、地中海の島々とあらゆる所を略奪し尽くそうとしたのです。



イタリア側はこの暴風に手をこまねいていたわけではありません。物見の「サラセンの塔」を築き防戦を試みます。現在も多く残っているその風景を。

【ティレニア海をのぞむチェルチオ】
          

【ナポリ】
          

しかしこの監視塔は敵の来襲を見つけても、隠れる、逃げる以上にはなすすべがなかったのです。
敵族は次第に大胆に奥地に入り込むようになって、遂にバチカンを揺るがすほどになってくるのです。キリスト教の大本山バチカンの法王もキリスト教を守るために戦う気構えを持たざるを得なくなってゆくのです。

800年フランク王国のシャルル王は、バチカンの法王レオ三世の呼びかけに答えてローマに入場します。神聖ローマ帝国皇帝の冠を授けられるためでした。
後年「ヨーロッパの誕生」とされる、中世史上のビッグ・イベントであったのです。

キリスト教とイスラム教の対立は大小はあっても、少しの衰えも無くしかしキリスト側も戦いに挑む姿勢は次第に出来つつありました。
十世紀の初頭南イタリアの山中を、40人のノルマンの若き騎士達が訪れていました。聖地パレスティーナ巡礼の帰り、その山中に大天使ミカエルに捧げられた聖堂があったからでした。この地の有力者から「南伊の支配者」を要請されるのです。ノルマンに帰って仲間を連れて戻ってきたのです。新進気鋭の若者たちは南イタリアを征服し、イスラム化していたシチリアを目指すのです。戦いで250人は10人に減っていたにも拘らず・・この新天地に建国する気概で征服に成功したのです! 勢い付くにつれて本国からの支援やイスラム化されたシチリア内のイタリア人の支援があったのでした。

【ノルマンに依る征服前のヨーロッパ】
     
【ノルマンに依る征服後のヨーロッパ】
     

十一世紀に入る頃には、イタリア側からの「聖地奪還」に紆余曲折しながらも十字軍を結成して二世紀の間、地中海を東へと進みイェルサレム攻略に成功するのです。そしてシリア・パレスティーナでの通商基地が次々に築かれていったのです。
イスラム側が後退したかに見えますが、武力よりも通商に向かう、つまりお金での解決が多くなってゆきました。キリスト側は大量に拉致され奴隷になっている人達を解放すると言う大きな目的を持っていました。病院を設立し医師を送り込む、そしてなんと司祭まで常駐する約束ができたのですから。

中世を西ローマ帝国の滅亡からコロンブスのアメリカ大陸発見までとするならば、
この上巻は滅亡の淵からの長い長い苦難の1000年であり、目を覆いたくなる苦難の中のキリスト教の復活を読みとくうちに、信仰の力の偉大さを感じずには書き進む事はできませんでした。

(写真は全て本書からの引用)

写真 講評会

2009-02-14 | 撮影を楽しむ
【薔薇の木に薔薇の花咲く】

デジカメボランティア協会に入会して半年が経ちました。撮影会の後には講評会がメール通信で呼びかけられますが、まだ一度も出席した事がなかったのですが、相前後して入会した方に誘われて出席してみました。
「甲州の里」と「掛川花鳥園」が中一日置いて2日間ありました。
最初の日はA4にして2枚、次の時は2Lで数枚を持参でした。小さく貼ります。

【ころ柿】と【御殿場イルミネーション】
          
               

【冠鶴】と【オオハシと先生】と【メンフクロウ】
          
               


第1日目は出席者30余名の写真を数字の入ったマグネットでパネルに貼り付けて、これぞと思う2点の数字を投票する方法でした。
そして全ての写真を2分して、お二人の先生が一枚ずつ丁寧に講評されてゆかれます。それが終わると皆んなで投票した点数の発表が行われるのです。
驚いたことに私は、同点3人に入っていて2位だったのです(ころ柿)。講評は色々直されました。こうゆう風なお勉強もあるのですね。

2日目は机に写真を並べて、皆んなが輪になって先生の講評を聞きながら、各々で感想を言い合う方法でしたが、少人数なのでこれはこれで納得できました。
私の作品はピントや、余計なものが入っていると言う指摘がありました。唸ってしまうほど好い写真に出会いました。フイルム写真の人もいて素晴らしい色を表現されて、多分これからもデジカメには行かない方なのでしょう。             

絹谷幸二 展

2009-02-05 | 美術館
                 【入場券 「情熱の色・歓喜のまなざし」】

現代洋画壇の重鎮 絹谷幸二展を横浜高島屋から入場券を戴き、待ちわびて初日に伺ってまいりました。
1998年の長野冬季オリンピックのポスターには驚嘆しましたが、この入場券を見るにつけても代表作の一つに数えられているのでしょうか。

1966年東京芸大油絵科卒。1968年大学院壁画科卒。1970年イタリア留学アフレスコ古典画法 などを研究。1993年東京芸大教授 現在に至る。

「踊り」や「祭り」「賛歌」「大自然」「仏」「愛」等と生命力に溢れた色彩豊かな大作ばかりで圧倒され尽くし、一日経ってもあの赤色の筆使いが頭を掠め尽している状態でいます。

芸大々学院で壁画を、イタリア留学でアフレスコ古典画を学ばれた事が、あぁここにと思い至るところが随所にあり、また言葉を差し挟んであるところが、今まで余り目にしない描写方法だと思ったことでした。
以前 東京芸術劇場のエントラスホールの天井画は絹谷氏の壁画とも知らずに見ていて、今も印象に残っています。

生地が奈良と聞いて、沢山描かれていることに納得しています。
「天空の華」は素晴らしい! 吉野の千本桜の上空に大仏が浮かんでいます。

【炎炎・東大寺修二会】


          【銀嶺の女神】