花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

浅間隠山 へ

2008-09-25 | 登山
                      【噴煙たなびく活火山 浅間山】

台風の余韻後の 稀に見る好天に恵まれて「浅間隠山」(1756m)に登頂する事が出来ました。
山の名前は読んでの通り上州側から見ると浅間山を隠してしまうからと言い、山容は美しく山頂からの眺望は一級だと聞いていました。
JR南浦和駅7:20集合 チャーターバス使用 参加15名 関越、上信越自動車道 二度上峠から登山開始です。

緩やかな登り道からの始まりは嬉しい。おしゃべりをしても息苦しくないのが何よりいいですし、細い道ながら足に優しい腐葉土で、樹木も適度の木漏れ日を注ぎつつ適当な明るさもありました。くま笹が丈高く藪漕ぎの様相になる所もあり7・8分目頃に来ると所々眺望が効きだしてワクワクの始まりでした。
標高千7百云々メートルはぐるり周囲の山の中央から360度の眺望を我が物に出来る醍醐味を味わう事ができます。先ず西南の噴煙たなびく浅間山は今日もおだやかです。そして東方の榛名山系は南北に行儀良く連なって全容を見ることが出来ました。そして一昨年の記憶を蘇らせてくれる鼻曲山が南方からグイとこちらに向かって大きく姿を見せてくれました。登っている時は決して己の姿を見せようとはしなかったのに・・あぁ このようにも見えるのですね。
【鼻曲山】
     

そして日本の山にしては、不思議な形をした妙義山が南方遠く見えているのに気付きました。上信越自動車道を通る時妙義山を大きく迂回するために、妙義が見え隠れするのを目で追い続ける事を何時もしてしまいます。
【妙義の見える遠望】
     

【立ち休憩をしている一行】
     

山頂で飽かず山波を眺め、撮って お弁当を広げました。
そして同じ道を下山です。登山口からは朝とは反対の西方に向かい、連休明けの温泉は休日が多くて、今日は特別にホテルを利用です。そしてお好みの飲み物で一時を過ごして、バスからは大きな妙義山を眺め 帰り着いたのは9:30頃でした。

藤沢宿一帯を訪ねて

2008-09-23 | 鎌倉の四季
                   【東海道五十三次 安藤広重】

藤沢は通過こそすれ、駅に降り立つのは初めてでした。此処に住む人たちも鎌倉との境界など意識していないのではないかと思ってしまうほど、電車もバスも相互乗り入れですし・・歴史を辿ってみても京から鎌倉へは通過点だったはずです。
藤沢宿とは現在遺跡のみのものや、道標や、立て札・・・しかし一番は立派な神社や寺院が現存し、多くの信仰を集めている事だと思います。

【江ノ島道標】
杉山檢校(江戸前期の鍼医で、管鍼術を発明しその振興教育に尽しました)は、江ノ島の弁才天を厚く信仰していたので、江ノ島に参詣する人の道しるべに寄進しました。
当初48基立てられたといい、現在13基残っています。
     

【常光寺】
藤沢では最も古い寺院に入ります。境内は広く寺林は8.900平方メートルで旧宿場町の名残を残す天然記念物の樹木が何種類かあるそうです。
         

《野口米次郎の墓》 
 明治8年生まれ。単身渡米新聞記者となり、後英国に渡る。
 日露戦争のため帰国、兄が住職を勤める当寺や鎌倉円覚寺に住まう。
 慶応大学で教鞭をとり、日本の文化・文明を世界に紹介した。昭和22年疎開先 の茨城県で没 す。

子息イサム・ノグチに依って お墓が建立されました。
    

【義経首洗井戸】
平家滅亡に大きな功績をあげた源義経でしたが、兄源頼朝との対立で奥州平泉に逃れました。1189年頼朝の力を恐れた藤原泰衡は、義経を衣川で自刃させます。平泉から鎌倉に送られた義経の首は首実験の後、片瀬の浜に撃ち捨てられ潮にのって境川を遡り、白旗神社付近に漂着します。里人が掬い上げてこの井戸で清めたと伝えられています。
      

【白旗神社】
この神社は古くは寒川神社と呼ばれていました。
1189年閏4月平泉の衣川館(やかた)に於いて自害した義経の首は、奥州より新田冠者高平が使いとして鎌倉に送られました。そこで和田義盛、梶原景時によっって首実検が行われ、頼朝に伝えると白旗神社として祀るよう指示。義経公を御祭神として、白旗神社と呼ばれるようになりました。
     

【藤沢山無量光院清浄光寺】【時宗総本山 游行寺(ゆぎょうじ)】
トウタクサンムリョウコウイン ショウジョウコウジ が公式の寺名ですが、広く一般に游行寺と呼ばれています。

700余年前「一遍上人」は《南無阿弥陀仏》のお札をくばり、踊念仏を始めて日本中を歩いて修行されました。
1325年四代目の「呑海上人」により藤沢の地にお寺を創建します。室町時代になると幕府や鎌倉公方の保護を得るに至りました。
このようにして藤沢は游行寺の門前町として発展しました。 
 

【游行寺本堂】


お昼前から大降りの雨になり、撮影も侭成らないほどでした。
立派な冠木門(カブキモン)から入り、素晴らしい建物が沢山あるのですが、広大な地域のため美しい庭園を歩くのがヤットの時もありました。
宝物館には国宝もあり多くの寺宝があります。年中行事も毎週のようにあり、現在秋季開山忌(21~24日)にあたり、踊念仏の日はことに華やかだとか・・。
関東一の広大さ!と聞いて、今まで知らずに居たことを恥じる想いもありました。   

鎌倉 愛称を持った『御仏』たち

2008-09-14 | 鎌倉の四季
                             【鎌倉宮本殿】

鎌倉のお寺にはその御仏にまつわる話から、愛称で呼ばれている神仏像が多くあります。今回は二階堂地区を中心にお像を拝し、謂われを紐解いて頂きました。

【荏柄天神社】
荏柄山天満宮とも称され鎌倉でも古い神社で創建は1104年。
俄にかき曇った天空から天神絵が降ってきて人々は恐れ、その場所に社殿を造営して、絵を納めたと伝えられています。天神とは学問の神様として知られる菅原道真であり、非常に厳しい怒った顔で人々から《怒り天神》と言われて慕われ、敬われてきました。

菅原道真は時の宇多天皇に重用され右大臣にまで昇りましたが、左大臣藤原時平に讒訴され福岡太宰府に左遷されて没します。頻繁に天変が起こるようになり道真の崇りと言われて「天神として」祀られました。後年解体修理した際81㎝の束帯姿の線描の玉眼、彩色の図が出現し重要文化財に指定されました。
(下記図は額縁入りの写真)
     

【正殿】
大宰府・北野天満宮と共に日本三大天神に数えられています。


【覚園寺】
1218年北条義時は私財を投じて大蔵薬師堂を建立しました。 元寇が再び起こらないことを祈って1296年北条貞時は寺に改めました。 奥深い境内は静寂として古都鎌倉の面影を良く残しています。鎌倉最大の茅葺の薬師堂には、本尊の木造薬師三尊坐像や十二神将立像 天井一杯の龍の絵の中ほどに足利尊氏が改修した際に書いた棟札があります。

《鞘阿弥陀》
右手の板戸を僅かに滑らすと 淡い光の中に御仏の坐像が見えてきます。
「理智光寺」のご本尊でしたが廃寺になって此処に安置されました。 
鞘阿弥陀とは胎内にもう一体あることから、この様に呼ばれるようになったそうです。目を仰ぐ位置まで進むと左の目がキラリと光ります。私の大好きな大好きな御仏なのです。
この広大な奥域は写真は禁止です。

10メートルはあろうかと思われる榧の木の実が沢山落ちています。拾ってせめてもの写真にして見ました。そして枝折り戸を出たところの山紫陽花(玉紫陽花)が未だ蕾なのも不思議でした。         
     
               
                         

【鎌倉宮】
後醍醐天皇の皇子 大塔宮護良親王を祭神として、1869年に明治天皇が創建されました。
元弘の変で天皇方と足利尊氏の対立から、大塔宮は捕らえられ鎌倉に下されて幽閉殺害されました。村上義光は親王の腹心であり、良く守り戦い親王の身代わりとなって戦死します。村上義光の像を祀り参拝者自らの病と同じ箇所を撫でることで
好くなると言われ《撫で身代わり村上公》の愛称で親しまれています。
     

本殿でお祓いを御受けし、その後方に大きな獅子頭と紅白の鳥居が見えたので撮って見ました。 
     

【大巧寺】
1532年第五世日棟上人が、難産で死んだ秋山勘解由の妻が霊となり人々を苦しめていたのを鎮め、産女(うぶめ、うぶすめ)霊神として奉りました。以後産女霊神が《おんめさま》の愛称で呼ばれるようになり、今も安産を願う人達から信仰されています。
檀家を持たず安産祈願の寺として”戌の日”には、腹帯を求め、安産祈願に詣でる人が多いい全国でも珍しいお寺です。境内には四季の花が咲き乱れ「花の寺」としても有名です。 天井は立体彫刻画が施されていました。
     

高尾山 へ

2008-09-10 | 登山
                             【大都市の眺望】

この山行きでヒグラシの初鳴きを聞き、待たれる秋の訪れを共感した気分でした。
夏季は登山がないので今月末の山行きには、鈍った体を解きほぐす準備も大切です。今高尾山は大変な人気らしい・・しかも外国からもとか、そういえば何人かにお会いしました。

登山のベテランと二人連れで、「沢登り」を計画して貰い 始めての体験でワクワクしていました。ところが先日来の大雨で土砂崩れがあり通行禁止になっているではありませんか。
標高599mを海抜201mの清滝駅からスタートとすれば、ケーブルカー&リフト&歩いて3コース。途中分岐していて7コースと言う数え方も出来ます。
仕方が無いので稲荷コースを登ることになりました。大木が繁りながらも時折木漏れ日もあり涼風に吹かて、花撮りをしながら登るので、後からの人に追い越されっぱなしでした。 そうしていてもガッシリしたアズマヤ風の休憩所で追い越された人達にも再び逢ったりして、何時しか頂上に到達でした。
平日なのに程よい人・人で皆楽しそうです。ここでお弁当を広げました。

昭和42年に、明治100年を記念して『明治の森・高尾国定公園』となり、大阪の『箕面・国定公園』と結ぶ東海道自然歩道の東京側起点となりました。

ここより下りコースになり暫く進むと、朱塗りの立派な建築群に出会い圧倒されます。

【奥の院不動堂】
江戸初期 寛永年間の建造にて、当時の風格をよく今日に伝えています。S.28年東京都重宝に指定されました。
     

【薬王院飯縄(いずな)権現堂】
木造炭層、入母屋造り、銅版葺き。堂の周りに縁をつけ、組物・彫刻は彩色塗りを施し享保14年(1729)の建立。S・20年重要美術品に認定されました。
     

【四天王門】
門内には増頂天、持国天、多聞天、広目天の四天王が安置されています。

【仁王門】
本堂の前にある紅殼彩色の門。門の両側に阿形と吽形の仁王像。裏側に大天狗、小天狗の像が安置されいます。

【本堂】
薬王院の中心となる建物。薬師如来と飯縄(いずな)大権現が安置されています。

【大師堂】
お堂の周りに、八十八大師が祀られています。

【浄心門】
薬王院の表参道を登って最初に潜る門。
私達は山頂から下って最後に門を潜って退出しました。
     

稲荷山コースの登山道で高尾山ならではの植物を撮りました。茸が目立ちました。

【コウヤボウキ】
     

         【茸 蜘蛛に占領される】
          

               【蔓リンドウ】
                

     【ガンクビソウ】
     

          【ヤマホトトギス】
          

               【シラヤマギク】
               

今まで「リフト」が有るのを知らずに居ましたので乗って見ることに。他にも発見があり又行くことになりそうです。

ジョン・エヴァレット・ミレイ展

2008-09-04 | 美術館
                  
                  【オフィーリアよ永遠に。TICKET】


サーの称号を持つ ジョン・エヴァレット・ミレイ展が始りました。10年前にテート・ギャラリー展が東京都美術館で開催されて、ミレイは《オフィーリア》只一点のみ展示されました。その忘れ難い強烈な印象を胸に本日 Bunkamura ザ・ミュージアムに行って来ました。
ミレイ(1829-1896年)は19世紀イギリスにおいて「ラファエル前派兄弟団」を創設し、この時代最も重要な画家であり、ロイヤル・アカデミーの会長に選ばれたばかりでなく、永世貴族の称号をも得たのです。

ハムレットの悲劇のヒロインを描いたミレイの代表作《オフィーリア》が、ロンドン留学中の夏目漱石に感銘を与え、後年「草枕」のなかで語られる事になるのです。
     

ビデオ解説コーナーがあって・・・オフィーリアの溺れ死ぬ様子を描く為にその川をホッグズミル川と決め何ヶ月も掛けて描きました。その後同胞の画家ロセッティの妻シダルをモデルにしてバスタブに浮かべ、スケッチをして絵を完成させました。
上記の絵は小さいので解かりずらいのですが、植物(花言葉)が散りばめられていてそれぞれに意味が込められています。オフィーリアの人格や運命を象徴しているのです。植物学的な正確さに固執する事で場面の現実性を高めようとしています。 

スミレ(右手:誠実、貞師、純潔、若い死) ケシ(右手:死) ヒナギク(右手:無邪気) ナデシコ(腹部:悲しみ) パンジー(腹部:物思い、かなわぬ愛) バラ(服の裾:愛) キンポウゲ(手前水中:子供らしさ) ノバラ(岸辺:喜びと苦悩) ミソハギ(右手上:純真な愛情、愛の悲しみ) 柳(ノバラの左:愛の悲しみ) 

テート美術館をはじめ、英国内外の主要コレクションからの唯美的作品、子供を主題にした作品、肖像画、風景画など、新たな技法を探求しながら幅広いジャンルの作品を手掛け、当時のヨーロッパで大人気画家の地位を獲得しました。
家庭にあっては、人妻と恋に落ちて結婚をするのです。そして8人の子供をなして
その絵を幾つも見ることが出来ます。

【ジョン・エヴァレット・ミレイ】
     

【「初めての説教」:長女】
          

【「姉妹」:長女 次女 三女】
         

妻の「エフィー・ミレイ」、二人の息子「ローリーの少年時代」、次男「ジョージ・グレイ・ミレイ」等は写真が入手できませんでした。
絵はがきやパンフレットから引用した絵を少し貼ってみましょう。

【「両親の家のキリスト」(大工の仕事場)】


【「マリアナ」】


【「ハートは切り札」】