花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

花しょうぶ撮影会 and  我家の花も

2010-06-25 | 撮影を楽しむ
【横須賀 花菖蒲園】

 

大降りの雨の日の撮影会になりましたが、雨支度万全の諸氏は笑顔々々です。あ~私は上手く行くかしら・・・横須賀は海岸も山合も街路も整備されていて豊かな印象をもっています。
私鉄の汐入駅からバスで15分の所に広大な菖蒲園は広がっていました。

《紫しょうぶ》
     
                  《黄しょうぶ》
                      
                      《紫陽花の七変化》
                         
             《水車小屋のある風景》
                

 【我家の植物】

梅雨の季節は植物が大きく成長するようです。徒長したものを切っても切っても茂ってきます。花木も花々も次々と生育して楽しくそして忙しい時でもあります。

 《シャンデリアリリー》        
  
      《カーラー》                       
      
           《クーベリアスマリー》
           
                 《胡蝶蘭 毎年咲き続けて4年目 そして一年に2度咲きます》
                 
                          《ブッドレア》
                          
          
 野菜も実りました。
            《トマト》       
              
                      《ピーマン》
                         


しょうぶ
               

木々の緑が深まる北鎌倉の古刹を訪ねる

2010-06-16 | 鎌倉の四季
【円覚寺】

 《仏殿 天井画》
  

関東大震災で壊れた後、1964年落成供養で再建されました。鉄筋コンクリート造りですが以前の図面をもとに、通し窓や扉に禅宗様式の意匠が配されています。
五山級の大寺は間口が七間堂も定型通りであり、ご本尊は木造宝冠釈迦如来像が美しい。
天井には前田青邨の監修で日本画の守屋多々志作 『雲龍図』 が画かれています。

《舎利殿》

         

正面から見ると三間重層の入母屋造りになっています。鎌倉最古の唐様建築で国宝に指定されています。入り母屋造りの杮葺きで、上部の屋根は下方で大きくそりあがっています。
北条幕府滅亡後、夢想国師が円覚寺十五世住職になった時に、後醍醐天皇の勅命として建長寺にあったものをここ円覚寺に移させた物です。

          《紫陽花》
          
                   《岩たばこ》               
                    

【東慶寺】

山号寺号 松岡山東慶総持禅寺(しょうこうざんとうけいそうじぜんじ)

宗派   臨済宗園覚寺派

創建   1285年(弘安8)

開山   覚山志道尼

開基   北条貞時

本尊   釈迦如来

時宗の菩提を弔うため夫人(覚山尼)の開基。ご夫妻は禅への信仰が厚く一緒に出家しました。尼寺として1902年(明治35)まで續きますが、以降は男の僧の寺となりました。 
代々名門出身者が住職を努め寺格が高く 5世用堂尼(後醍醐天皇の皇女) 17世旭山尼(足利義明の娘) 20世天秀尼(豊臣秀頼の娘)が住しました。

《松ヶ岡文庫》

1941年 鈴木大拙は東慶寺境内に文庫を設立しました。死後住職の井上禅定の尽力により大拙が残した膨大な書籍を管理して現在に至っています。
「松ヶ岡文庫」 それは20世紀日本が世界へ送った最大の学者・文化人・宗教家「鈴木大拙」が凝縮された形で残されています。
長年アメリカに住み、アメリカの女性と結婚して共に「禅」を研究し、英語で「禅について」演説して世界に日本を普及したのです。

遺品が生前のままに、 例えば 机・座椅子・文房具が置かれ、南北朝時代の「観音菩薩半跏像」が身近に置かれていたことを知る事が出来ます。

            
    
 《墓 文学者・文化人の多くが集まっている一廓》

              

             《柏葉紫陽花》
             
                   《岩たばこの群落》                                  

【浄智寺】

 《山門 二階に花頭窓のある唐様の鍾楼門》

           
            《托鉢僧》
            
 鎌倉を歩いていても、なかなか托鉢僧にお目に掛かる事はありませんが、この日は多勢の 方たちをお見かけしました。

  【天柱峰】
          

葛原岡ハイキングコースを登り始めると大岩の頂きに碑があります。朝比奈宗源書の天柱峰の碑です。中国僧住職の竺仙梵僊の供養塔で、英人サンソム氏が建てたものです。
(天柱とは、天が落ちないように支える柱。転じて社会を成り立たせる根本となる道義)

道すがらに咲いていた花二題。
         《紫陽花》
         

               《岩がらみ》
               




  【源氏山公園】

          

壽福寺背後の山。後三年の役で八幡太郎義家が奥羽に向かう際、戦勝祈願にこの山に白旗を立て以来の源氏ゆかりの山とされました。
昭和56年に源頼朝の銅像が安置され、木陰を求めて三々五々お弁当を頂くのに最適です。

 【薬王寺】

山号寺号 大乗山薬王寺

宗派   日蓮宗

創建   1293年(永仁1)

開山   日像上人 (中興開山・日達上人)

もとは真言宗に属していましたが、1292年日像上人が住職と宗教論議の末説伏して、日蓮宗に改宗しました。その後日達上人が江戸時代に薬王寺と改めて再興しました。
只今本堂には 『日蓮上人像』 と日像上人像が並んで安置されていますが、江戸時代に変遷があり池上本門寺より移祀されました。

 《日蓮上人像》
       

 《供養塔》1633年徳川忠長(家光の弟)が高崎で自刃。妻の松孝院が墓を建立。
  徳川家ゆかりの寺として三つ葉葵が用いられています。

【淨光明寺】

    《客殿》
     

5月中旬にもここを訪ねて、頼朝に挙兵を勧めた文覚上人の話を聞きましたが、一ヵ月後に再び訪れて季節の移ろいを感じた所です。

       《菩提樹 釈迦はこの木の下で悟りを開いたと言われています》
       
             《泰山木》
              
 
  《重要文化財》
本尊の阿弥陀三尊像は1299年の銘のある仏像で、国の重要文化財になっています。衣に施された大型の土紋や長く伸ばした爪、写実的な衣の襞、高く結い上げた髣などに宗朝美術の強い影響を受けた特徴を現しています。

   《冷泉為相 の墓》
           

背後の山を登ると宝篋印塔があります。為相は藤原定家の孫で父為家の死後、遺領存続の訴訟のために関東へ下向した母・阿仏尼を追って鎌倉に下り、鎌倉歌壇の指導者として活躍しました。
               《定家カズラ》
                

『お能「定家」』 式子内親王を愛した定家が、死後も彼女を慕って、遂に葛に生まれ変わったと言う伝説を思ってしまいます。崖に「定家カズラ」が咲いていました。 

  
「観音菩薩半跏像」はweb site より拝借 

                

渡良瀬遊水地

2010-06-02 | 撮影を楽しむ
【渡良瀬遊水池】



渡良瀬遊水地は 栃木、群馬、埼玉、茨城の4県にまたがる、日本最大の遊水地で、渡良瀬川、思川、巴波川の流入を調節して治水上の重要な役割を果たしています。例えるなら山手線内の半分の面積に相当しているのだそうです。
日本一の大河 利根川との関係や日光線を利用した割には、眼にする事が無かったこと等・・沢山の事が解かって、楽しさプラスアルファでキット思い出に残る事でしょう。

【渡良瀬遊水池 渡良瀬貯水池 谷中湖 と色々な名称があります 】

     

渡良瀬遊水池はハート型をしています。中央に真っ直ぐな道と途中から左手にもう一本延びていますが、入り口でこのハートの全貌を見ることは出来ません。それほどに巨大なのです。
左手に分岐した路を進みますと、護岸に20~30cmの魚が何匹も打ち上げられていましたし、釣を楽しんでいる人達も見受けました。

【渡良瀬遊水地 】
           

やがて湖が終わり広大な草原が開けてきました。「大きな楡の木の下で」輪になってお弁当を広げている人達がいます。私たちも休憩をとることにしました。(地図上ではオレンジ色のゾーン)

【クローバーの原っぱ】

    

《チョウジソウ》

       《ユウゲショウ》
       
              《ヘラオオバコ》
              
                     《ヘビイチゴ》
                     

実はこのゾーンこそが、洪水常襲地帯であり洪水がもたらす肥沃な土壌環境に恵まれ、沼地や湿地が広がり農業や漁業も盛んで、自然に恵まれた穀類豊穣な農村として繁栄していました。
しかし明治18年頃より足尾銅山から流出する鉱毒が渡良瀬川を汚染し、谷中村一帯を毒害するに及び悲惨な死の沼と化したのです。爾来30年に亘り衆議院議員田中正造を先頭に村民は鉱毒との闘いを続けました。
明治37年栃木県議会は堤防修築と言う名の許に谷中村買収を強行議決しました。
明治40年堤内に残留する16戸を強制破壊し、大正6年谷中村は名実共に滅亡しました。

【首都圏の水がめ】
利根川から取水される水道用水の水源は、上流にある多くのダムに依っていますが平野部に出来た我が国初の多目的貯水池として、生活用水の補給を状況に応じた素早い対応で可能にしています。地図上の目算では谷中湖から利根川まで5Kmくらいでしょうか。

【ウオッチングタワー】

     

この塔に登ると360度見渡すことが出来ます。晴天なのに東方の筑波山が薄く薄く見えたような・・・見えなかったような。
眼下にヨシ原が広がっています。貯水池の水を遊水地内に自生しているヨシ原に通して、窒素やリン、植物プランクトン等を吸着、沈殿、吸収などにより取り除いて、水質の自然浄化を図り、貯水池の水質を保全しています。

     

朝は東武日光線を利用して浅草から柳生で下車。帰りは古河からJRにしました。
早朝から夜中まで15時間を要する旅でした。大宮で降りて食事をしたり、歩き疲れしゃべり疲れて横浜駅寸前まで居眠りをしてしまいました。
渡良瀬渓谷や、足尾銅山、足利市の中心を長大な川が貫通している様は、足を運んで見たことはあったのですが、そしてこの遊水地の事は漠然とは知っていたのですが、この地を歩き見つめて この100有余年の人々に思いを馳せたのでした。 
そして沖縄のこれからを胸に刻むことになるのでしょう・・・


遊水池・遊水地の2葉はパンフレットより借用