花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

田谷の密教洞窟

2010-07-24 | 鎌倉の四季
                                                                   《四十九院天井の鮫龍》

暑い夏に涼しい地底伽藍の秘境を探索しました。
湿っぽく冷たい壁に手を当ててみると、800年の昔に吸い込まれて行きそうなそんな洞窟がありました。
『密教』とはその名の通り秘密である事を意味しますが、田谷の洞窟は地底に秘められた仏の世界でした。
JR大船駅を西の急坂を登り北上すると山頂は畑 ここが『長尾砦跡』。しかも横浜市。鎌倉と横浜の境界は大船駅の駅長室を境にしていると言うから楽しい。
横浜市民となって25年余、知らない事が多すぎます。これから向かう田谷も横浜市。『田谷の洞窟』も知らなかった!

【長尾砦跡】
横浜市栄区長尾台町に砦跡はあります。桓武天皇を祖とする関東八平氏「上総、千葉、三浦、梶原、土肥、秩父、大庭、長尾」のうち、長尾景弘が平安末期にこの長尾台の丘陵に空堀、土塁を築いたと言う。治承4年(1180)8月 源頼朝が伊豆で旗揚げをして、石橋山で敗れるも
関東の諸豪族を従えて鎌倉に入ると、平家軍をことごとく蹴散らして長尾砦も落城して一族は散りました。しかし室町時代に至り長尾一族の活躍が見られるので、その後も一族の子孫はこの地に定着していたと思われます。越後の長尾氏から景虎(上杉謙信)が出て、関東管領となり威を揮ったのでした。

【田谷の洞窟】
洞窟は定泉寺境内にあります。古くは古墳時代の横穴住居跡だったものを、鎌倉時代に鶴岡八幡宮の僧らにより真言密教の道場として洞窟を彫り広げたもの。地震などで崩れた洞窟を整備し伽藍工事を進め、総延長が1Kメートルを超える洞窟が曲がりくねりながら續き、数々の彫刻を施して現在の地底伽藍が完成しました。
彫刻が今日まで残ったのは、地下水が豊富で湿度が高く、温度も16~17度に保たれている事に起因していると言われています。

          《境内の修行大師像》
          
          
          《洞窟入り口》
          

        《一筋の光明 洞窟内はおぼろな灯りなので各々ローソクを持ちます》
          

現在公開されている洞窟内は250メートル程ですが、この巨大なトンネルは一枚岩なので地震等での崩れが少ないのだそうです。深い闇の中で鑿を撃ち、その彫刻画は憧憬や精進、歓喜と敬愛、悲愁や後悔など様々な表情が満ち満ちていると感じられます。
又工事奉仕者の家紋、守り動物、物語伝説の絵、仏像、十二支、霊場札所なども彫られています。

     《 昇龍 》
               

          《 降龍 》
          

               《 獅子(阿形)》
               

                    《 獅子(吽形)》
                    

     《 奥の院 土佐の一つ亀 》
      
     
        《 音無川と十人羅漢 》
          

           《 音無川方向を望む 》
               

           【 御霊神社 (田谷)】
             
               立派な両部鳥居

 写真撮影は厳禁なので 吉田 孝 著 「田谷の洞窟」を参考にする                      

三菱一号館美術館

2010-07-18 | 美術館
           【入場券】
                      
《近代絵画の創始者 マネの全貌》 と題して《三菱一号館美術館》で4月から始まり、間もなく終わろうとしています。

【三菱一号館美術館】
 

この美術館は1894年 丸の内の最初のオフィスビルであり、その後煉瓦建ての建物が続々と
建ち並び1900年代末期には一丁倫敦と称される街並みを形成するに至りました。
高度経済成長期の1968年 丸の内の高層化再開発が進む中解体されました。
三菱一号館は復元に当たって外観デザインだけでなく、当初設計図・実測図・内外装写真・保存部材などの資料を基に現在の建築基準に合わせながらも 構造・材質まで可能な限り忠実に再現されています。
上記写真は庭園側からみたもの、3~2階が美術館で1階はエントランス・ミュージアムショップ・カフェ(Cafe 1894)・歴史資料館・三菱センターデジタルギャラリー etc。

収蔵作品にロートレック作 リトグラフ、ポスター計200数十点を所蔵し、2011年秋に公開予定。

【マネ と モダンパリ】

以下は104点の展示の中からパンフレットの絵を転載したものです。

  《すみれの花束をつけたベルト・モリゾ  1872年  パリ、オルセー美術館》
   

  《 エミール・ゾラ   1868年   パリ、オルセー美術館》     
        

   《街の歌い手     1862年   パリ、オルセー美術館》 
               
   
   《メリー・ローランの肖像   1881年   ナンシー美術館》
          
   
   《黒い帽子のマルタン夫人   1881年   愛知、メナード美術館》
     

《死せる闘牛士(死せる男) 1863~1864年/1865年(切断と改変)  ワシントン・ナショナルギャラリー》
     
     
上記6点は全て エドゥアール・マネ(1832~1883)の描いた作品です。全104点の中には同時代作家の80点も展示されていて マネが生きたパリの芸術的な背景を見ることが出来ます。然し代表作の「草上の昼食」や「オランピア」「バルコニー」が出展されていないのは寂しいものでした。かってオルセー美術館で展示された絵画を、好きなだけ写真に撮った事が思い出されてやるせなくなって仕舞ました。

マネが関心を寄せていた日本趣味を、エミール・ゾラの背後に多色刷り浮世絵や屏風絵を配しているところが見逃せない所でしょう。

又 ベルト・モリゾをモデルに何枚か描いています。女流画家でもあった彼女を愛していたのでしょうか・・・実弟と結婚してからは一度も描いていないのです。

鶴ヶ峰に『畠山重忠』滅亡の跡を巡る

2010-07-07 | 鎌倉の四季
【帷子川】



源頼朝の信頼厚き鎌倉武将「畠山重忠」が頼朝の死後、北条時政の謀略で無念の最後を遂げた「二俣川合戦」の史蹟を巡りました。

 【二俣川合戦】

1205年6月19日 従兄弟の稲毛重成に「鎌倉に騒乱、至急鎌倉出仕」を要請され畠山重忠は側近134名を従えて武蔵国・菅谷館を出発します。
北条時政は「重忠謀反 大軍で攻め来る」と義時に出陣を命令。6月22日「万騎ケ原」に大軍で待ち伏せした義時は重忠主従を包囲します。鎌倉にいる我子重保謀殺を知る事になる重忠は時政の罠にはまったことを悟るのです。「疑いを晴らすため」清く戦う事数時間 鶴ヶ峰で遂に倒れ134騎主従は自害。
帰還した義時は謀略をなじり稲毛兄弟を誅殺。父時政を伊豆に追放して ここに北条義時は執権となりました。

畠山重忠没後 足利義純(1176~1210)が重忠旧領を付与され、重忠未亡人を妻として畠山姓を継ぎ、その子孫は足利幕府管領として歴史上に名をなして行くのです。

「重忠戦死」を聞いた内室(菊の前)は駕籠で駆けつけその場で自害します。駕籠のまま土葬されました。

 《重忠首塚  七重多層塔 重忠地蔵》

     

 《重忠の墓  薬王寺》

     
 
 《駕籠塚》

     

薬王寺は重忠主従の供養寺。この寺には六つ塚と言う重忠の郎従134騎を葬った塚があります。
その隣地に駕籠塚はありました。

 【白根神社】【白根公園】

八幡太郎義家は兜の不動明王を納めて「前九年の役」に出陣して勝利します。
1063年 鎌倉権五郎景政が不動堂を創建し義家の不動明王を祀ります。1333年新田義貞の鎌倉攻めで焼失し、現社殿は大正の建築。崖下の深いところに綺麗な流れが出来ています。
「白糸の滝」や「一条の滝」でうねる様にながれて帷子川は徐々に川幅を広げて行きます。   
     
     《一条の滝》

          

          《帷子川の上流》

                

川幅は次第に広くなってやがて森の中に入ってゆきました。「帷子川親水緑道」と書かれていて別世界の中を歩いている気分です。赤い蕾があります そう「ガマズミ」でしょう。晩秋まで咲き続けて実は太く葉も赤く素敵な風情を醸しだす植物です。