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1ヶ月振りに待ち遠しかった2回目がやってきました。出発地点は前回の終了地点です。
「花の都公園」は前回撮影が出来なくてこの日満を持していました。1ヶ月を過ぎると花檀はかなり変化していましたが行列の先頭から徐々に遅れつつ、何枚か撮る事が出来ました。
✿花の都公園 a b c ✿
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✿山中諏訪神社✿
雨模様の中 富士山は見えずとも足取り軽く進むうちに、山中諏訪神社に到達しました。
天文21年(1552)甲斐国の守護武田晴信が相模国北条との合戦に際し、当神社に御加護を請うため本殿を造営寄進しました。一段低い所に奉納相撲の立派な土俵がありました。
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✿山中湖✿
トップの写真ですが、どんよりと人気なく然し夏の名残を残していました。湖に沿った道には
広い敷地を持つ綺麗なホテルが建ち並んで夏の賑わいを髣髴する事が出来ます。私も何度か訪れてボートで漕ぎ出した事など思い出しました。
✿文学の森公園✿
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園内には 三島由紀夫→徳富蘇峰の文学館を中心に散策路が広がり江戸、明治の民家も移築され四季折々の楽しみ方が出来るようです。
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散策路に添って俳句の館・風生庵、また山中湖にちなんだ句碑・歌碑が点在しています。
与謝野晶子の歌碑 「富士の雲 つねに流れて つかの間も 心おちいぬ 山中湖」
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公園内でお弁当を頂きました。雨はなく秋の風情の公園はしっとりと「文学の森」を感じながら松茸もどきのおかずと御寿司で好評でした。
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✿富士薊二題✿
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朝のご挨拶の中で「今の時期富士薊」を見ることが出来ます。の言葉はかなりのインパクトがありました。箱根の山で撮りそこなっていたのです。
道路から一歩入った処にそれはそれは大きな株が2株もあったのです。
「少しおそいかなぁ~」の趣はありましたが、虫が食っていてもなんのそのです。
✿籠坂峠✿
山中湖畔の道路から山道に入ります。2車線はあるでしょうか しかしクルマは殆ど通りません。難所というか県境であり長距離を覚悟しないといけないらしいのです。前回下りが大変と聞き登山靴にストックを用意したのですが、富士山に登るのではないのでと苦笑いです。
✿藤原光親の墓✿
鎌倉幕府執権北条義時の専横な政治を怒り、後鳥羽上皇は義時追討の院宣をを発令しました。
義時の子泰時は素早く京都に出陣し、上皇方を敗り光親卿など5卿を捕らえ六波羅に護送。
光親卿は甲斐武田信光に預けられる身となり、その途路幕府の命により籠坂矢筈山の山中で処刑されました。
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膝は何の支障もなく須走までを踏破できました。(ホッ)