花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

ブリジストン美術館展

2015-04-06 | 美術館

ブリジストン美術館はビル新築工事のため、5月18日より数年に渡り休館になります。

とのお知らせを知り、長い間伺わなかったことに思いを馳せて急遽出かけました。

地下鉄銀座線がスイスイと動いた頃と違っていることに気付き、大分慌てましたが、

美術館は実に堂々としていて、これがどのように変わるのか・・感慨深い思いです。

       

     ピカソの新古典主義時代の代表作。

       

     ルノアールの描く愛くるしい笑顔とポーズは、人気の高い作品。

       

          ギュスターヴ・カイユボットの、ピアノを弾く若い男をブリジストン美術館は購入する

     裕福だった彼は友人の作品を買って生活を支えたパトロンとしても知られています。

     これらの作品は、フランス政府に遺贈し現在オルセイ美術館の核になってlます。

     ピアノを引いているのは、仲の良かった弟マルシャルです。

      

    藤田嗣治の猫のいる静物。

      

    安井曾太郎(薔薇)

      

   藤島武二(黒扇)

      

   石橋正二郎

   ブリジストン美術館の創設者(1889-1976)

   久留米市に生まれる。17歳で家業を継いでゴムの製品化に成功し、東京に移転する。

    絵画を収集するきっかけは、郷里の師や若くして夭折した同郷の画家・青木繁の代表

   作を購入、コレクションを形成していきました。

   戦後復興期にあった日本がようやく主権を取り戻した年に、美術館は創設されました。

美しく広大な美術館が、どのように変貌するのでしょう・・・ぜひ見届けたいと思っています。

石橋財団の発行された冊子を参考に絵画や解説を引用させていただきました。

 

 

  


ホイッスラー展

2015-03-04 | 美術館

 入場券を頂いたので・・・あまり知らなかったけど横浜美術館ならと出かけてみました。

画像の入力に不具合が出来て、暫くお休みをしていましたが、先に進みましょう。

19世紀後半の欧米の画壇において、最も影響力のあった画家の一人であるホイッスラーは、

ロンドンとパリを主な拠点として活躍をし、色彩の調和に関して、日本美術からのインスピレーションを得て独自のスタイルを確立したジャポニズムの画家として世界的に、知られています。

目新しい東洋の品々を描き込むことで、繪の装飾性効果を狙うだけでなく、食器及び和服の女性及び扇を持った女性、青い骨壷や、富士山なども。

大きな画材に、トリンスフアリートグラフ紙。微細な繪には、リトグラフ。油絵の細密さ!

文字だけでは限界が有ることを思いますが、暫くはホイッスラーとともに・・・。


チューリヒ美術館展

2014-11-14 | 美術館

       

 国立新美術館で、チュウリッヒ美術館展が行われています。十数年前にスイス征きはしたのですがは山に魅せられていたので、全く思いもしなかたのですが・・・今では居ながらにして鑑賞出来ることに喜びがありました。国立新美術館も久しく伺っていなくて・・・坂道を登りながら美しい外観が見えてきた時、もう十数年も前になるのかと思いつつ感慨深いものがありました。大勢で賑わっていたのも嬉しく、日展のほうが大々的のようでしたが、そちらは割愛いたしました。

クロードモネの睡蓮は幅6mに及ぶ大作でした。色々な睡蓮の記憶がありますが大きな花は全て同じ花が並んでいました・・

          

      

ピエール‥ボナール 上 「庭に憩う家族」 下[犬と一緒にいる女性」 ボナールのお人柄が読み取れる大好きな繪になりました。

      

                 

マルク・シャガール 上「婚礼の光」 下[パリの上で」もっと明るい色彩なのですが。この繪はシャガールにしか描けないもの!「パリの上」ではをよく見るとパリをえがいているのですね~え”。

       

フエリックス‥ブアロットン「訪問 」室内で手を握り合う男女、密やかな逢瀬を描いた一枚。画面隅の黒い影と相まって、どこか不穏な空気を醸し出す。スイスに生まれ活動した画家は男女の秘めた関係を主題とした作品を多く描きました。

☆壮大な美術展でしたが、多分200点位は・・・隈なく拝見しました。その中で上記の絵葉書を再現しただけです。まだ12月の半ばまで開催されています。写真の撮影も構図も長い間お休みが多く、見苦しい物になり申し訳ございませんでした。


うるわしき4月

2014-04-09 | 美術館

「美の季想」 と題して、高階秀爾氏の新聞記事を拝見して[ラファエル前派展」の内容を知るに至りました。六本木のアーツセンターギャラリーで英国のテート美術館所蔵の作品を揃えた大掛かりな展覧会のことは、以前にも気がついてはいたのですが、ずっと以前上野で「オフェーリア」を拝見していたので、割愛するつもりでいたのですが、今回のあーサー・ヒューズの「4月の恋」の画像を見た時、この繪は拝見していないし・・・絶対見つめてみたくなり、あと数日という雨の日に駆け込んで念願を果たすことが出来ました。

いきなり入場するなり 「お!」 とお会いしました。

              

絵葉書からの印刷なのにこんな不出来で非常に不本意ですが、どうしても修正が効かなくてこの一枚のみに致します。ブルーを基調に清楚な佇まい・・・後に結婚したヒューズの愛妻であったと言われています。

J・E・ミレイの「オフィーリア」も華やかな美しさがありました!こうした古典的と言っていいかどうか、私はこうした絵画に惹かれてしまいます。

何時も沢山の写真を挿入するのが好きなのに、気持ちが沈みがちで残念です。

六本木も久々で、高層ビルも少し迷ってしまい心した日々を送りたいと願うばかりです。

 


ボストン美術館

2012-06-01 | 美術館

 

     

 【まぼろしの国宝】が日本に帰ってきた! と何ケ月も前から気掛リでしたが,こんなに遅くなって行ってくることが出来ました。 同じ思いの人達で・・・はやる思いを秘めて高木のユリの花や,今を盛りの五月の花に癒されながら,待つこと一時間・・・

全てを詳細に拝見することは作品の多さや,人の多さから・・・・① 常盤光長描く 「吉備大臣入唐絵巻」 。 ② 平治の乱を描いた 「平治物語絵巻 三条殿夜討絵巻」を。

次に ③ 曽我蕭白の 「雲龍図(部分)」 。 ④ 長谷川等伯描く 「龍虎図屏風」。 は何としてもと。

漸く最前列に並ぶことが出来たので,左隣の人に密着せんばかりに繋がって遅々と進まない中 10メートル いや20メートルを蟹歩きで前・中・上(三段に絵が表示されている)を見続けたかなりの時間でした。

    上 【吉備大臣入唐絵巻】  下 【平治物語絵巻】

      

続き

       

★遣唐使吉備真備の活躍を描いた「吉備大臣入唐絵巻」(部分)と,平治の乱を描いた ドキュメンタリー 絵画「平治物語絵巻 三条殿夜討巻」(部分)は,在外二大絵巻とされています。

  双方共後世になって (平安・鎌倉時代に描かれた長大な絵巻物)

     【曽我蕭白 雲竜図】

     

★曽我蕭白筆 雲竜図 (部分) 江戸時代・宝暦13年(1763)今回の修復により公開が可能になった蕭白幻の代表作。世界に先駆けて日本初公開。

     【長谷川等伯  龍虎図屏風】

     

★長谷川等伯筆 龍虎図屏風 江戸時代・慶長11年(1606)等伯68歳,晩年の作風を伝える代表作。 

 

  ✿時間待ちの行列から,2会場とその中間の売店で息抜きをして,一階の映写室にも入リ 

   それから食事をと思っても,待ち時間が3時間とはあまりにも・・・・。

   入場前の待ち時間で撮ったユリの花と,五月の刈り込みが美しかったので・・・・ 

             

                

       ✿数年前ボストン美術館に入場したことがありました。日本美術の収集のことは

        聞いたのですが,そして日本美術専用コーナーの仏像彫刻は,快慶らしいが 

        判明はされていないということでした。今回快慶の弥勒菩薩立像が一体 来日し   

        ていますが違っていましたネ。 

       ✿上記の映像は全てパンフレット等からの引用です。


ユベール・ロベール 展

2012-04-22 | 美術館

     

18世紀はローマやポンペイなど遺跡発掘に沸いていた時代でもあったそうですが,その3世紀後に古代ローマに夢中になってしまった私でしたが,ユベール・ロベールという画家すら知らずにいました。「廃墟のロベール」として名高いフランスの風景画家ユベール・ロベール(1733~1808)が,イタリア留学でその自由な想像力を糧に描きだした風景は,はるかなる時を超えて古代の建築や,彫像が立ちあらわれ庭園のデザインも手掛けて「国王の庭園デザイナー」の称号が与えられるに至ったのです。

                             

 「  マルクス アウレリュウス騎馬像」 「 トライアヌス記念柱」  右手の大きな建物  その屋根に「ユピテルとユノの像」 がのぞいています。 絵のような趣を理想郷としたこの頃 画家として庭園デザイナーとして絶頂期を迎えています がしかし時代は革命期へと向かい始めていました。

                      

凱旋橋。カンピドリオ広場の辻音楽士たちが右手の大きな建物の前で演奏をしています。

           

               《 ユベール ・ ロベール  (1733~1808) 》 

                        

    ✿ 国立西洋美術館にて  5月20日まで。

       地階の美術館のすべてに掲げられた大小の絵画を隈なく拝見するのは,少し疲れ

       るかもしれません。 途中食事などしながら再入場も可能でしたし,常設のロダンの

       彫刻や  世界遺産に申請しているという,国立西洋美術館を改めて見直したりして   

       ゆっくり1日を楽しむことが出来ました。

       素晴らしい絵画を数多く,掲載することはできませんでしたが,絵葉書などから転   

       写 しました。

       尚写真が呆けているのは今だ買い替えたPCを使いこなせぬ情けなさのせいなの

        です。

             

   

                  


故宮博物院 展

2012-01-23 | 美術館

 

  中国美術の最高峰である故宮博物院は、24人の皇帝が住んだ壮大な宮殿「紫禁城」に由来し、中国文明の象徴として180万件超を収蔵しています。
このたび日中国交正常化40周年を記念して来日し約200点が展示されました。

入場門では普通の人数が,平成館の前では60分待ちの行列に・・・こんなことも何度かあることなので慣れて来ているとも言えるし。しかし「清明上河図」の行列には200分待ち!を楽しんでいる顔顔・・・。私にはとても並べない。

長さ5m,縦24㎝の絵巻物。北宋時代(960~1127年)張択端が描いた,清明節のころの都市・開封(かいほう)を丁寧に描いた絵巻物は,世界的にも非常に貴重なものとされています。私はTVを録画して拡大されたもので見た気持ちになっています。 2~3その録画を挿入してみましょう。       

 【北京故宮博物院の一部】

          

 【清明上河図 の一部】

 

   大河に橋脚のない橋,この下を大勢の乗った船は潜り抜けることが出来るでしょうか。

 【高い立派な塔】                                               
                

 塔をラクダが潜り抜けていますね。遠く砂漠の旅人もいたようです。

 【巻物の終焉】

 ここで「清明上河図」は終わりを告げるのです。刻印が沢山押されて・・・解説では謎である・・・と。

時の皇帝「徽宗」(キソウ)。自ら書画に長け音楽にも才能を発揮し,磁器にも莫大な富をつぎ込んで国を破綻させてしまい幽閉されてしまうのです。自らの失政で失ってしまった姿を描かせたとも言われています。

       

如何にも風雅な趣が漂っていますネ。                                                       

20年くらい前に,北京から上海までの観光旅行に参加したことがあって,今の中国の隆盛は想像だになく,しかし紫禁城の壮大さに驚嘆したものです。そして この博物院は素通りだったのでしょう。 あの頃の素朴さを懐かしんでいるところがあります。

✿ この展覧会の「清明上河図」。張択端に描かせた徽宗。

✿ 元の時代フビライハーンの野望は景徳鎮で磁器の開発に年月を割いて「青花磁器」が誕生しました。

✿ 清の時代では乾隆帝は100万件の収集をしています。そしてやがてラストエンペラーで終焉を迎えました。

この超大な中国の紫禁城での歴史を,私見デ唯3人の皇帝に焦点を当てました。

正式名「北京故宮博物院」は,世界の博物館として永遠に存続され無ければなりません。

     

 

 

 


法然 と 親鸞

2011-11-20 | 美術館


 「ゆかりの名宝」副題で鎌倉の巨星ふたつ。とあり知っているようで知らないことの多さを感じて 東京国立博物館を訪れました。
天変地異や騒乱が相次いだ平安末期から鎌倉時代にかけて「念仏を唱えれば」誰でも救われる」と説いた法然と、その教えをさらに深めた弟子の親鸞は、人々に希望をもたらしました。
展覧会では、絵伝・書画・国宝の仏像・重要文化財180件のゆかりの名宝が一堂に会した凄さに、鑑賞が遅れがちで、同行の友人との約束した時間に足りなくなり端折らざるを得ませんでした。

居並べる写真は僅かですが(TVの録画から引用)ご想像ください。

 
 【法然上人】

 

                【親鸞上人】
      
                

 【阿弥陀二十五菩薩来迎図】
 
 

                【父と共に戦う幼少の法然の絵図】

                

血を流して戦う父を後ろから弓を放って加勢している法然。
9歳の時、土地争論に関連して父は夜討ちをかけられ殺されてしまうのです。父の遺言により仇討ちを断念し、菩提寺の僧侶観覚(母の弟)のもとに引き取られます。才能に気ずいた観覚は出家のための学問を授け、仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めます。修行して戒律を護持する生活を送り次々と学問を習得して43歳の時には、専修念仏を奉ずる立場に進んで、浄土宗を開き比叡山を下りて念仏の教えを広めるようになっていました。

   【親鸞上人】



法然上人より40年後、父は皇太后宮大進「日野有範」、母は清和源氏八幡太郎義家の孫「吉光女」の長男として誕生。戦乱・飢餓により洛中が荒廃する。
9歳で得度し叡山に上り20年に渡り厳しい修行を積みます。

建久3年源頼朝が、征夷大将軍に任じられ、鎌倉時代に移行します。
29歳の時叡山と決別して下山し、聖徳太子建立の六角堂へ百日参籠を行う。夢中に「救世菩薩」が現れ「修行者ガ前世の因縁によって、女性と一緒になるならば、私が女性になりましょう。そして清らかな生涯を全うし、命が終わる時は導いて極楽に生まれさせよう」と。この夢告に従い、夜明けとともに法然の草庵を訪ねる。百日にわたり法然の元へ通い聴聞する。

法然の専修念仏の教えに触れ入門を決意する。親鸞は研鑽を積み次第に法然に高く評価されるようになる。

妻帯については諸説あり、近年では京都で妻帯したという説が有力視されていて、4男3女を設けています。

親鸞が著した浄土真宗の根本聖典である『強行信証』の冒頭に釈尊の出世本懐の経である 『大無量寿経』が真実の教えであるとし、阿弥陀如来の本願と、本願によって与えられる名号「南無阿弥陀仏」なむあみだぶつ(本願寺派)を浄土門の真実の教え「浄土真宗」であると示しました。
「如来の本願力」(他力)によるもので、我々凡夫のはからい(自力)によるものではないと絶対他力を強調しています。

金沢文庫 『運慶』展

2011-03-03 | 美術館
 
       <<金沢文庫 正面>>

奈良・東大寺の仁王像で知られる鎌倉初期の仏師・運慶の彫刻は確認されているもので、二十数体とされその内の七体が 只今神奈川県立金沢文庫で「運慶展」として、展示されています。
大変な人気だろうと予想して、雨模様の日を選んだのですが駐車待ちを一時間もしました。その割には順序良く拝観を続けることが出来て「大運慶」を私なりに心に刻むことが出来ました!

勿論寫眞を撮るなど出来ませんので、webで調べてみましたので、そちらから拝借したものを添付してみましょう。

 【国宝 大日如来坐像 (奈良)円成寺 】
 
       
           【重文 不動明王立像 (神奈川)浄楽寺 】
           

 【重文 毘沙門天立像 (神奈川)浄楽寺】               

           【重文 帝釈天立像 (愛知)滝山寺 】
           

 【重文 厨子入大日如来坐像 (栃木)光得寺 】
 

            重文 大日如来坐像 (東京)真如苑 】
            

  【重文 大威徳明王坐像 (神奈川) 光明院 】
  

七体の内三体が大日如来像ですが、これは一貫して密教尊像を造り続けた「仏師」としての運慶の姿を伝える意図が主催者側にあったと言われています。
運慶は奈良に本拠を置いた「奈良仏師」ですが、鎌倉幕府や東国武士と縁が深かったことが展示からも見てとれますし、運慶が加わった東大寺の復興にも「鎌倉幕府の後押し」が歴史的にも残されています。

台座や厨子入の仏像が、今回厨子や台座からお出になって別々に拝観出来るようになっていて、このような試みは初めてお目にかかりました。如来様を背後から見ることで頭髪の彫り方が皆んな同じことに気ずいて面白いと感じました。

最後尾の大威徳明王坐像は、ほんの数年前に金沢文庫の解明されていない彫刻群の中から
世間を「アッ」と驚かせた世紀の発掘でしたが、こうして肩を並べて素晴らしいですね。

金沢文庫から山を繰り抜いた所に称名寺があります。小雨の中を散策してみたくなりました。浄土式庭園の阿字ヶ池には美しい平橋と反り橋が架かっていますが、今日は鮮やかな朱色が違って見えます(?)。見方によればこの色もなかなか風情があるような・・・。
  
  

上野界隈そぞろ歩き

2010-09-23 | 美術館
            【上野 寛永寺辺り】

上野は東京では一番良く行くところでしょうか。仲良し三人組で先ず美術館へ。
       
        ✿上野の森美術館
        

絵の上手な友人の師 作山先生の「新構造展」』 に誘われていたのです。

        作山隆一先生「誰が袖」 
        

次に知らない方だけど好きな絵を2点ご紹介させて頂きましょう。
        
        竹内知巳氏「祭り」
        
        
        青木和江氏 「ファラオは何処へ」
        

 上野の森美術館は多くの鑑賞者で賑わっていました。次に櫻の長く延びた枝の下をゆっくり歩いて韻松亭でお食事をすることに。込んでいましたがほんの少し待って3階に。見た目もお味も結構で梅酒にも合って美味しかったです。
        

 食後は不忍池を通り、今TVドラマで話題の岩崎邸を訪問してみることにしました。
道すがらの風景2題です。

        《 花園稲荷神社 》
         

《 不忍池 》

        
✿旧岩崎邸 

不忍池から大通りを越えると、街並みの奥に森が見えその坂道を登ると広大な敷地に洋館が建っています。
三菱創設者 岩崎家本家として明治29年(1896)英国人ジョサイア・コンドルによって設計されたものです。 
         

正面玄関から入場し、赤い絨毯を踏んで拝見します。撮影が出来ないのでパンフレットの映像を。        

        《 邸内 》
        

        《洋館の南庭から 》
        
他に和館(洋館と結合して建てられた純和風建築)。撞球室(ビリヤード場 スイスの山小屋
風 の造り)。庭園(越後高田藩 榊原氏の屋敷跡に建てられた庭園は、大名庭園の形式を一部
踏襲すると言われています。その後埋め立てられた池部分に芝が張られ、庭石、灯籠、築山が設けられました。「芝庭」を持つ近代の和洋折衷庭園の初期の形と言われています。 



東京国立博物館 その二

2010-08-29 | 美術館
その二 『誕生! 中国文明』 

        【 入場券 】

この展覧会は、中国の河南省で出土した数々の名品に焦点をあて、中国文明の誕生と発展のあとが紹介されています。
中国大陸を西から東に流れる黄河の中流域に位置する中国王朝発祥の地なのです。
中国最初の王朝と言われる「夏(か)」の中心地は、河南省にあったと考えられます。
その後「商(殷)」の安陽、後漢・魏(三国時代)・北魏(南北朝時代)の洛陽、北宋の
開封など、歴代の王朝の都が河南省に置かれました。
夏が始った紀元前2000年頃から北宋が滅亡した12世紀頃まで、中国の政治、経済、文化の中心地として栄えた中で大きく「王朝の誕生」「技の誕生」「美の誕生」のテーマで中国を知る事が出来る良い機会でした。

【王朝の誕生】
青銅器や玉器など王者の権威を示す作品。
          《動物紋飾板》
           
 青銅・トルコ石 長辺6.5cm 孔のあいたつまみは衣服に縫い付けるため。お墓から 発掘 被葬者の胸で見つかっています。
 
           《方か》
            
 商時代の青銅器 内側に王妃の名「婦好」の文字が鋳込まれていて、表面に眼、口、角 のある動物が左右対称に描かれています。

           《金縷玉衣》
            
 2008枚の玉の札を金の糸でつずった衣。修復には銅の糸を使用。

【技の誕生】
古代の人々の暮らしの様子。
            
            《金製耳飾》
              
 花と蝶のデザイン 表面には極小の金の粒があしらわれています。                     
             《双龍耳瓶》
             
 盒・器皿など実用性が高くお洒落な器などもありました。

【美の誕生】
今日まで続く中国の伝統美に出会う。
             
            《三彩駱駝》
              
 唐時代 高さ81cm
            《神獣》
             
 体の表面にトルコ石を嵌めこんで龍、鳳凰、虎などの細かい文様を表しています。
            《羽人》
             
 背中にある羽は不老不死の仙人の印 腕や膝にも羽毛が表現されています。
            《武人俑》
             
 白磁72cm お墓の入り口に置かれたもの。
            《三彩仏舎利容器》
             

展示品は147点と膨大で、王朝、工芸技術、文字(漢字)など中国文明を特徴ずける様々な要素がこの河南省で生まれ、ダイナミックに発展していくさまを辿る事ができました。日本が中国のあらゆるもの なかんずく文化を吸収していった過程、中国の寛大さ日本の吸収する力・努力に思いを馳せずにはいられませんでした。

 ☆美しい絵(写真)は全てパンフレットからの引用です。 

東京国立博物館 その一

2010-08-27 | 美術館
その一&その二 二部構成になりました。

その一
東京国立博物館生涯学習ボランティア による解説。
「日本美術の流れ」では時代にそって展示されていて、各時代の特色あるテーマに沿って
多様な日本文化とそこから生まれた日本美術の多彩な展開、そして日本人の美意識の変遷を
見ることが出来るようになっています。

『国宝室』に於ける 《餓鬼草子》は餓鬼道にうごめく餓鬼たちを絵師の優れた技量で描き出されています。
『茶の美術』室町時代に生まれ、安土桃山時代に千利休が大成して現代まで続く茶の湯は、日本が世界に誇る伝統文化です。
『屏風と襖絵』建物の壁や襖に描かれた絵を障壁画と呼び、これに屏風の絵を加えて障屏画といいます。時代によりテーマや表現が異なるし、構図などには流派に依る違いを見ることが出来ます。

以上本館(国宝館)に於ける30分限定の解説を移動しながら聴講しました。
平成館に入ると縄文時代~弥生時代~古墳時代における夥しい土器や埴輪が建ち並びフラッシュ無しの撮影が許されることを知りました。

『縄文時代の土器』

【埴輪の望遠】
          

          【火焔土器・・あたかも燃えさかる焔を象ったかのような】 
          

                         【乙女の埴輪】
                         

【埴輪】


          【銅鐸】
          

【縄文土器・・縄文中期は縄文文化が最も隆盛をきわめた大型で豪華絢爛たる装飾の土器が多く見られます】
 

博物館入場前の印象深い風景がありました。

【庭園の噴水にかすかに虹が】


【本館と平成館の間からスカイツリーが・・】


【本館の休憩場所から姿勢を低くして見た池】

三菱一号館美術館

2010-07-18 | 美術館
           【入場券】
                      
《近代絵画の創始者 マネの全貌》 と題して《三菱一号館美術館》で4月から始まり、間もなく終わろうとしています。

【三菱一号館美術館】
 

この美術館は1894年 丸の内の最初のオフィスビルであり、その後煉瓦建ての建物が続々と
建ち並び1900年代末期には一丁倫敦と称される街並みを形成するに至りました。
高度経済成長期の1968年 丸の内の高層化再開発が進む中解体されました。
三菱一号館は復元に当たって外観デザインだけでなく、当初設計図・実測図・内外装写真・保存部材などの資料を基に現在の建築基準に合わせながらも 構造・材質まで可能な限り忠実に再現されています。
上記写真は庭園側からみたもの、3~2階が美術館で1階はエントランス・ミュージアムショップ・カフェ(Cafe 1894)・歴史資料館・三菱センターデジタルギャラリー etc。

収蔵作品にロートレック作 リトグラフ、ポスター計200数十点を所蔵し、2011年秋に公開予定。

【マネ と モダンパリ】

以下は104点の展示の中からパンフレットの絵を転載したものです。

  《すみれの花束をつけたベルト・モリゾ  1872年  パリ、オルセー美術館》
   

  《 エミール・ゾラ   1868年   パリ、オルセー美術館》     
        

   《街の歌い手     1862年   パリ、オルセー美術館》 
               
   
   《メリー・ローランの肖像   1881年   ナンシー美術館》
          
   
   《黒い帽子のマルタン夫人   1881年   愛知、メナード美術館》
     

《死せる闘牛士(死せる男) 1863~1864年/1865年(切断と改変)  ワシントン・ナショナルギャラリー》
     
     
上記6点は全て エドゥアール・マネ(1832~1883)の描いた作品です。全104点の中には同時代作家の80点も展示されていて マネが生きたパリの芸術的な背景を見ることが出来ます。然し代表作の「草上の昼食」や「オランピア」「バルコニー」が出展されていないのは寂しいものでした。かってオルセー美術館で展示された絵画を、好きなだけ写真に撮った事が思い出されてやるせなくなって仕舞ました。

マネが関心を寄せていた日本趣味を、エミール・ゾラの背後に多色刷り浮世絵や屏風絵を配しているところが見逃せない所でしょう。

又 ベルト・モリゾをモデルに何枚か描いています。女流画家でもあった彼女を愛していたのでしょうか・・・実弟と結婚してからは一度も描いていないのです。

『アトリエ・ポルト』 展

2010-05-10 | 美術館
    

今年も待ち望んでいた恒例の絵画展のご案内を頂き、山の仲間数名で行くことにしたのです。
人物画が実にお上手だと思っているのですが、「光源氏」を水の滴る美男に仕上げられたので、拡大して額に入れようかと思っているところです。

「アトリエ・ポルト」は熟年の男女が週一回、絵を描く絵画塾で今回も会員方の素晴らしい絵画を拝見する事が出来ました。
聞けば30号(これは彼女の場合)の絵を2面 いつも3ヶ月位で仕上げられているようです。

【源氏物語 「春雷」】

          

【源氏物語 「おぼろ月夜に」】



【画廊での展示 】

  

鑑賞後は関内をぶらりしながら早目の夕食を、中華料理と紹興酒で長くなり遠くからの方は遅くなられた事だったでしょう。






長谷川等伯 展

2010-03-19 | 美術館
【没後400年 特別展入場券】
   

【展覧会場の一廓】


「長谷川等伯展」に気付いたのが遅く出かけて80分待ちでしたが、しかしそれは来た甲斐があったと言うものでした。平成館の左右の広い会場を等伯唯一人、独り占めされていたのですから・・・

NHK「日曜美術館」では特筆すべき10点を解説されていましたし あの膨大さは尋常な数ではないでしょう。しかも31歳で一人上京(京都)し、狩野派全盛のなかで少しずつ しかし確実に力を発揮します。戦国の世であり、美の世界にも熾烈な鬩ぎ合いがありましたが、溢れる才能と非凡な才覚を見つめ続ける処となったのでした。

新潟で武士の子として生まれますが、長子でなかった為染色屋の養子となり、「能登の絵仏師・長谷川信春」と知られる存在になっておりました。

【日蓮聖人像 上京前】
     
     
     
     真近での法衣は凹凸のある織物に見えます。

【上京 等伯像】

     

     京都・本法寺の「日通上人」と信仰を通して上京を決意。

【山水図襖】

  

  京都・圓徳院を訪れて住職に止められていたにも拘らず、桐絵の襖に絵を描きます。
  帰宅した住職は余りの素晴らしさにこれを赦しました。降りしきる雪景色。

【大徳寺三門壁画 天井画:迦陵頻伽像(カリョウヒンカゾウ)】
  
     

応仁の乱で焼失したものを宗長が再建します。そのあと利休が2階部分を増築寄進します。「利休の木像」が置かれた事から、秀吉の逆鱗に触れ死に追いやられるのです。利休の黒い帽子と黒い衣の よく見られる肖像画は等伯の筆に依るものです。

【楓図壁貼付】

    

智積院は秀吉の子鶴松を弔うために建立された臨済宗のお寺ですが、この頃等伯は秀吉の後ろ盾を得ていました。弔いのため「色ずく前の緑と紅葉が混じる絵」を画いたのでした。 

【仏涅槃図】

        

等伯は本法寺の大檀越(ダイダンオツ)となり、単なる絵師ではなく、町衆として京都に於ける有力者となっていました。

本法寺住職に「仏涅槃図」を寄進します。
縦:792.8cm 横:521.7cm (nhkの映像では十人がかりで運んでいました)
東福寺 明兆作&大徳寺 狩野松栄作&三大涅槃像といわれています。

この涅槃屏風は寄進の前に、京都御所に掲げられて話題になりました。
秀吉亡き後 このようなパフォーマンスをしておく才能の持ち主でもあったのです。

【等伯画説】

本法寺住職に依る 等伯との対話など97条の文章を記したものです。
足利義政の東山文化を理想とし、堺商人による茶の湯文化を通した中国絵画鑑賞の世界が語られています。
「墨の魔術師」の表現があります。

次第に終章に近ずくにつれて、墨絵の世界が展開されてゆきました。
可愛い猿の親子【枯木猿猴図】は一部分ですが墨絵の領域になるのでしょう。
     
     


【国宝 松林図屏風】



 6曲1双を左右を拡大して見てみましょう。

【左】
   

     【右】
        

「松林図の世界」
画かずに表す
深い霧の中で仄かに浮かび上がる松林
手前はハッキリ 奥に行くほど霧に遮られる
季節は晩秋か 初冬か それとも早春か
松林を包み込むこの濃密な霧を表現したかった・・・
でも 霧そのものは実際には描きこまれてはいない
「描かずにあらわす」と言う魔術のような技法が駆使された「松林図屏風」
単に等伯の代表作と言うのみならず
わが国水墨画の最高とまで評されるゆえんである。
    
  ・・・美術館に於ける解説・・・

  映像はNHK日曜美術館より