花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

大船観音から古刹を訪ね、玉縄桜の里へ

2010-03-28 | Weblog
【大船観音寺】



鎌倉駅を西に向かって通過する時、右手に巨大な白亜の像が見えてきます。『頼朝』は観音様への信仰が厚かったと聞きますが、今日はその洞内にも入場出来て戦争を挿み長い年月をかけて完成したことを知りました。
現在桜の蕾は固く、花に包まれたお姿が似つかわしいと思い以前に撮った写真を貼付することに致しました。

【玉縄桜】



玉縄桜は『ソメイヨシノと大寒サクラ』が自然交配した品種で、新種として大船駅周辺の地名『玉縄』を冠して名付けられました。
2月はじめから3月上旬が見ごろの早咲きなので、大船フラワーセンターで3月の下旬に貴重な花びらに出会えて嬉しい限りです。

【敬翁桜】

     

広い植物園で玉縄桜を探しながら沢山の植物を紹介をしていただき、温室の暖かさにホット
出来たり、バナナの大房やその先の固い大花には歓声が上がりました。桜の花は上記の2種類でしたが、咲き終わった木 これから咲く木がまだまだ多くあり2月・3月・4月と咲き続けることでしょう。

陽射しがありベンチも沢山あり、芝生での一団もありましたが私達は休憩室を拝借してのランチタイムでした。
午後はフラワーセンター前の道を藤沢に向けて歩く事になりました。

【貞宗寺】
      

《宗派》浄土宗 《創建》慶長十六年(1611) 《開基》貞宗院 

貞宗尼隠栖の地に 没後2年貞宗尼が深く帰依していた、岩瀬大長寺住職源栄上人が寺を創建しました。
貞宗尼は二代将軍徳川秀忠を生んだ家康の側室「お愛の局」の生母で、江戸城に召され御年寄役を務めた後この地に隠居しました。徳川家ゆかりの寺宝が多く残されています。
将軍2代~14代の立派なお位牌を拝見する事が出来ます。
         
【久成寺】

     

《宗派》日蓮宗 《創建》永正十七年(1520) 《開基》梅田尾張守秀長

日蓮宗を篤く信仰した梅田秀長が屋敷を寄進しました。
境内には長尾城跡から移された、長尾景弘、定景、景茂の供養塔があります。
三代将軍実朝を暗殺した公暁を討ったとされる『長尾定景』は長尾景虎 後の「上杉謙信」の祖先にあたります。

ここで「古都鎌倉史蹟めぐり」は終わりでしたが、大船フラワーセンターに再度入場して花達と名残を惜しみました。

【野の花たち】 

ニリンソウ
  
      ウグイスカグラ
                         
           シャクナゲ
            
                ムスカリ                   
                 
 バイモ(編み笠百合)
    
      木蓮
        
             菜の花
              

 【花壇】
 その一
  
 
 その二
  

  

長谷川等伯 展

2010-03-19 | 美術館
【没後400年 特別展入場券】
   

【展覧会場の一廓】


「長谷川等伯展」に気付いたのが遅く出かけて80分待ちでしたが、しかしそれは来た甲斐があったと言うものでした。平成館の左右の広い会場を等伯唯一人、独り占めされていたのですから・・・

NHK「日曜美術館」では特筆すべき10点を解説されていましたし あの膨大さは尋常な数ではないでしょう。しかも31歳で一人上京(京都)し、狩野派全盛のなかで少しずつ しかし確実に力を発揮します。戦国の世であり、美の世界にも熾烈な鬩ぎ合いがありましたが、溢れる才能と非凡な才覚を見つめ続ける処となったのでした。

新潟で武士の子として生まれますが、長子でなかった為染色屋の養子となり、「能登の絵仏師・長谷川信春」と知られる存在になっておりました。

【日蓮聖人像 上京前】
     
     
     
     真近での法衣は凹凸のある織物に見えます。

【上京 等伯像】

     

     京都・本法寺の「日通上人」と信仰を通して上京を決意。

【山水図襖】

  

  京都・圓徳院を訪れて住職に止められていたにも拘らず、桐絵の襖に絵を描きます。
  帰宅した住職は余りの素晴らしさにこれを赦しました。降りしきる雪景色。

【大徳寺三門壁画 天井画:迦陵頻伽像(カリョウヒンカゾウ)】
  
     

応仁の乱で焼失したものを宗長が再建します。そのあと利休が2階部分を増築寄進します。「利休の木像」が置かれた事から、秀吉の逆鱗に触れ死に追いやられるのです。利休の黒い帽子と黒い衣の よく見られる肖像画は等伯の筆に依るものです。

【楓図壁貼付】

    

智積院は秀吉の子鶴松を弔うために建立された臨済宗のお寺ですが、この頃等伯は秀吉の後ろ盾を得ていました。弔いのため「色ずく前の緑と紅葉が混じる絵」を画いたのでした。 

【仏涅槃図】

        

等伯は本法寺の大檀越(ダイダンオツ)となり、単なる絵師ではなく、町衆として京都に於ける有力者となっていました。

本法寺住職に「仏涅槃図」を寄進します。
縦:792.8cm 横:521.7cm (nhkの映像では十人がかりで運んでいました)
東福寺 明兆作&大徳寺 狩野松栄作&三大涅槃像といわれています。

この涅槃屏風は寄進の前に、京都御所に掲げられて話題になりました。
秀吉亡き後 このようなパフォーマンスをしておく才能の持ち主でもあったのです。

【等伯画説】

本法寺住職に依る 等伯との対話など97条の文章を記したものです。
足利義政の東山文化を理想とし、堺商人による茶の湯文化を通した中国絵画鑑賞の世界が語られています。
「墨の魔術師」の表現があります。

次第に終章に近ずくにつれて、墨絵の世界が展開されてゆきました。
可愛い猿の親子【枯木猿猴図】は一部分ですが墨絵の領域になるのでしょう。
     
     


【国宝 松林図屏風】



 6曲1双を左右を拡大して見てみましょう。

【左】
   

     【右】
        

「松林図の世界」
画かずに表す
深い霧の中で仄かに浮かび上がる松林
手前はハッキリ 奥に行くほど霧に遮られる
季節は晩秋か 初冬か それとも早春か
松林を包み込むこの濃密な霧を表現したかった・・・
でも 霧そのものは実際には描きこまれてはいない
「描かずにあらわす」と言う魔術のような技法が駆使された「松林図屏風」
単に等伯の代表作と言うのみならず
わが国水墨画の最高とまで評されるゆえんである。
    
  ・・・美術館に於ける解説・・・

  映像はNHK日曜美術館より
  

     



 青梅市  「梅の公園」

2010-03-05 | 撮影を楽しむ
 【観梅の人】
                                     

青梅と地名に「梅」があるくらい梅ずくしの町へ、撮影会で行ってきました。
「吉野梅郷」と呼ばれる古くからの梅の里と、山の斜面を利用したS47年に出来た4ヘクタールの「梅の公園」と呼ばれている所が関東一の梅の里でした。
「吉野梅郷」には御岳山に登った時立ち寄ったことがあったので、初めての「梅の公園」に行けるとあって、楽しみにしていました。手前の山から谷を越えた対岸一帯が紅白やその中間色で埋め尽くされている様は、例えようもない程の美しさでした。

【谷間の梅】
 

 【白梅】
 

     【白梅 その2】
     
          
          【白梅 その3】
          

              【アネモネ】
            

                    【三椏】