花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

東逗子に鎌倉ゆかりの名刹を訪ねる

2012-07-21 | 鎌倉の四季

 逗子は鎌倉郡沼浜郷と呼ばれていた地であり,すでに天平勝宝元年(749)の「調布墨書」に見ることが出来ます。 平安時代より開発領主として勢力を持った三浦氏の支配地でもありました。 三浦氏と密接な関係を持った源義朝の旧宅が沼間にあったことが「吾妻鏡」にあり,義朝の子義平も三浦氏の保護のもとに居住していました。

    【海宝院   創建:天正18年(1590)  本尊:十一面観音】  

   天正18年(1590)江戸に入府した徳川家康は,長谷川長綱を代官頭とし,幕府直轄地の三浦郡を支配させ検地を実施しました 。高い石積みに銅鐘があり北条早雲が三浦氏を攻めた時,陣鐘として使用しました。墓地は広大で有名無名のお墓が林立しています。

なかんずく長谷川長綱とその一族の墓。  船奉行 向井忠勝夫人(長綱の娘)の宝塔。 又都知事石原家の墓地がかなりの広さを占めているのを目にしました。  

      

立派な四脚門を額縁にして,本堂も庭も広大で平安時代のころから神武寺を監視するためにこの寺はあったとも言われています。

    【神武寺   開山・開基 :行基   本尊 :薬師如来 】

奈良時代 神亀元年(724)聖武天皇が霊夢を見て,命を受けた行基がこの地に下向して,十一面観音,釈迦如来,薬師如来の三尊を祀ったのが始まりだと言われています。さらに平安時代 文徳天皇は天安元年(857)慈覚大師に詔して七堂伽藍ヲ整えさせ,天台宗に改宗しました。

時代は下り,源頼朝は平家追討祈願のため 文覚を住持としたと伝えられています。又鎌倉幕府の公的日記「吾妻鏡」の中に,承元3年(1209)3代将軍源実朝が参詣したとあり,記録上最も古い事例です。戦国時代 永正4年(1507)全山消失するも,小田原に入った北条氏の保護を受けて復興を遂げました。

        

                   客殿(来迎院) 大きな宝珠が印象的

                    

                    鐘楼 本堂を見下ろす位置にあり

                

                     薬師堂に向かう途中 六地蔵

                

弥勒やぐら  弥勒石像の後背に「大唐高麗舞師本朝神楽博士従5位行左近衛将監中原朝臣光氏, 行年七十三  西応三年虎9月五日」とあり,俗名の銘が残る唯一の墳墓窟とあります。 

       【東昌寺  宗派:真言宗  本尊:大日如来】
 
寺暦によると鎌倉幕府滅亡の時,北条高時以下一族は,鎌倉葛西ケ谷の東勝寺で自害しますが,この時の住職 信海が本尊を火中より運び出し,池子に逃れて東勝寺を建立したと言われています。
寛永14年(1637)池子村が英勝寺の寺領になった時,「東勝寺」の勝を改め 「東昌寺」となりました。
 
阿弥陀堂には北条政子が実朝供養のため運慶に彫らせたという阿弥陀如来坐像が安置されていましたが,享保12年(1727)東昌寺の火災で阿弥陀堂は焼け,その像は失われました。
現在のものは宝暦6年(1756)鎌倉扇ケ谷の三橋宮内忠之とその子息によって再建されました。
                      
                          
                                               大日如来坐像
 
    ✿大日如来坐像はweb site より拝借

源範頼の伝説の地と金沢八景

2012-07-05 | 鎌倉の四季

範頼は源義朝の6男,源頼朝の異母弟として(1150年?)生まれ,父義朝が平治の乱(1159年)で敗死した後,遠江国蒲御厨(かばのみくりや・・現浜松市)で成長します。このことから,蒲冠者(かばのかじゃ)と呼ばれました。

寿永2年(1183)大将軍として平氏打倒に功績を揚げ,その勲功から三河守となり源家一門として重んじられました。しかし建久4年(1193)5月の「曽我兄弟の仇討」に始まる陰謀事件で,頼朝に対する謀反・反逆の疑いをかけられ伊豆に追放されてしまいます。そして追放後のことが「吾妻鏡」では何も触れられていないため,8月に伊豆修善寺で抹殺されたとする「保暦簡記」に対して,悲運の武将・範頼は死なずに,密かに幽閉されていた伊豆修善寺を逃れ出たという伝説が語られているのです。

時の鎌倉幕府征夷大将軍源頼朝は,その猜疑心から弟範頼を討たんとします。鬱蒼たる樹木に囲まれた深浦湾の洞窟を隠れ家とし,蒲冠者の縁の寺や その従者が蒲谷の姓を名乗り近隣に多々住み現在に至っていると聞きます。この洞窟を昭和47年に岡村製作所が取り壊したことで,不自然な事故が起きるようになったことなどから,「蒲地蔵尊」が建立されました。私達も 一人ずつ心を込めて拝礼しました。

                                   

                            蒲地蔵尊

 【 金沢八景 】

一つの地域に八つの景色を設定し 「八景」 とする考え方は,中国の「繍湘八景」がその始まりとされます。11世紀後半の中国・北宋時代に広まり,鎌倉時代中期,禅宗文化と共に日本にもたらされ次第に普及しました。

金沢八景は,江戸時代の初めごろには,具体的地名を冠した例が見られるようになります。その後中国禅僧の心越禅師が能見堂に立ち寄った折に作った漢詩が評判になり,京極高門の和歌が添えられ今日の金沢八景として定着しました。

    ✿  夕照 瀬戸 (瀬戸のセキショウ)

           

 【伊藤博文 金沢別邸】 

 旧伊藤博文金沢別邸は,初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文公により,明治31年に建てられました。横浜指定有形文化財で 野島公園内の郷土資料館として運営されています。

     

             

            入場して説明を受ける。上記の文字は博文公の筆。

   ✿ 前庭は海に面していて 八景島シーパラダイス が見えています。

        

  【野島公園 展望台】

  野島の中央に聳える山の頂きにある展望台。360度に展開する眺望は雄大です。

     

     

  日産自動車の工場群が見えます。左手先端の小山は伊藤博文達が「明治憲法」を起草した夏島です。当時孤島であった夏島は重大な機密地とされたのです。

 【九覧亭 金龍院】

境内を上り詰めたところの「九覧亭」は,平潟湾に臨み 金沢八景の景観を脚下する名所として知られていました。 今では聖徳太子堂が建てられています。 大きな椿の実が美しい。