花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

銀座 絵更紗展へ

2005-09-29 | Weblog

長年絵更紗を手がけている従姉妹からの誘いで、銀座清月堂画廊での展覧会に出かけて来ました。
更紗とは染物の意。インド ジャバァ ペルシャ等が有名ですが、絵更紗とは大正時代 元井三門里氏の創案による染色工芸を言います。
赤・青・黄の三原色の染料から色を作り出して、身近な小物類・額・軸・屏風・帯・着物等の大作まで、大変手の込んだ 時間を掛けて生み出された芸術性が感じられるものでした。

日展に油絵を出展したほどの従姉妹ですが、今では絵更紗が楽しいそうです。


 

   《 「香嵐渓 三州足助屋敷の炭焼き」の回想 》 


 

   《 「飛騨高山の朝市」の印象 》


 

   《 展覧会場の一角 》


 久しぶりの銀座は刺激的で楽しかったです。

道東への旅

2005-09-25 | Weblog
この時期寒暖の心配もなく、大好きな北海道での撮影会に参加してきました。

新しくなった羽田空港から釧路空港まで1時間半。
根室半島→野付・風蓮自然公園→羅臼→知床峠→網走→美幌峠 を回っての3日間でした。


一日目

晴天の中大型バスは二人掛けに独り占めして、右手に海岸線を眺めながらスタートいたしました。

 
 

   《さざ波の煌き》


 

   《ナナカマドはまず実から色付き始めるのですね》


 

   《風蓮湖 白鳥の飛来する頃に再訪したいなぁ~》


 二日目

昨夕 日の出撮影のための下調べをしました。
集合3:50 そこから1時間の最東端にあたる納沙布岬で、手元もまだ暗く三脚の位置やアングルを確かめて満を持したのです。
こんな早い集合を今まで一度だってしたことがあったでしょうか! そしてこの時だけは寒さ対策も。




  《日本一早い 日の出》 




  《トドワラ 野付半島には海水の浸食と潮風の影響で、立ち枯れたトドマツが
   倒れて荒涼とした奇観を見せていました》




  《ハマナスの花 バスを降りてトドワラまで20分を歩くのですが、原生花園   が両側にあり少し時期が遅かったかなぁ・・の中で見つけました》




   《ハマナスの実 ナスは梨の訛った意、食べられるそうですが、プチトマト    位の大きさでその気にはなれませんでした》


 三日目

一番期待したサンゴ草に逢える日が来ました。網走には荒涼とした印象がありますが、網走湖 能取湖 サロマ湖 そしてオホーツクが・・・以前天都山からこの全てを視野に入れる事ができた時は感動しました。稀なことのようですから・・・そして再びの・・・サンゴ草は中でもノトロ湖が特筆されるようです。

塩分の多い湿地に生えるサンゴ草は、季節 気候 土壌など様々な条件を満たしたこの場所に大群落を呈したものでしょう。




  《サンゴ草 白い千鳥とも映えあって》




  《サンゴ草を愛でて》




  《美幌牧場 霧立ちぬ》




   《積雪標識 かなりの高さ(3m位)で主要道路は100m間隔で道路の片    側あるいは両側に立ち並んでいました》


 『世界自然遺産』に登録された知床半島。 峠は霧雨になってしまいましたが、
 根室半島辺りから水平線上に、いくつも島々が横たわって長くなったり 短くな ったりと遠くに有ったものが、知床峠で突然山の間に大きく長々と横たわって現 れたでは有りませんか! ぜ~んぶが国後島だとは大いなる驚きでした。

 二度の夕食は毛蟹やタラバ蟹一匹が付き、バス弁も常にカニがあって、カニ尽  くしだったなぁと。 写真は進歩無しに終わりましたが・・・。

鎌倉 宝戒寺の萩

2005-09-19 | 鎌倉の四季

流鏑馬の後 鎌倉八幡の大鳥居を出て左に曲がって歩き出すと、最初の突き当たりに宝戒寺は有ります。

北条義時以来北条一族の館がありましたが、滅亡後其の霊を慰める為 後醍醐天皇が足利尊氏に命じて建立されたお寺です。

萩の寺として知られていますが殆どが白花でした。色のある萩を探して広い境内を散策いたしました。




  《数少ない 紅色》




 《初々しい 薄紅色》




  《珍しく 紅白に!》


 多勢の人が足を運んでいましたが、皆静かに花を愛でていて とても良い雰囲気
 に長居をしてしまいました。








  


鎌倉 鶴岡八幡宮流鏑馬

2005-09-17 | 鎌倉の四季

鶴岡八幡宮の例大祭は9月14日の 『浜降り祭』『宵宮祭』。 翌日の『神幸祭』。 9月16日の『流鏑馬』の3日間に亘り年に一度の厳粛な神事です。

八幡宮の『流鏑馬』は800年以上前の1187年に源頼朝に依って始められ、絶えることなく今日まで続いて参りました。このような歴史の流れの中に身を置くことが出来て、思い出の一日になりました。

大鳥居から続く参道の中程に十字に交差して東西に延びる馬場は255m。ここを疾走する馬上から3つの的を次々と射落として行く勇壮なものです。




 《お披露目 1》




 《お披露目 2》




 《お披露目 3》


写真はほんの一例です。馬上凛々しい疾走の場面は撮影が未熟で・・・何時かキット。

鎌倉 大巧寺の花

2005-09-12 | 鎌倉の四季

鎌倉駅を若宮大路に向って突き当たりに、大巧寺があります。
門を入ると庭があり自由に通り抜け出来る道があって、四季折々の花を見る事が出来ます。




 《牡丹臭木》



 《ホトトギス》




 《ヤナギハナガサ》


   そこはかとなく秋の気配が漂っていました。



ギュスタブ・モロー展

2005-09-10 | 美術館

ギュスタブ・モローは私にとって不可思議な印象があり、その謎解きもしてみたく展覧会に行ってきました。
初期から晩年に至までの油彩、水彩、素描など279作品が私を包んでくれました。
象徴派の巨匠と言われ「ギリシャ神話」や「聖書の物語」を題材にした、私の最も好きな印象派とは対極をなす 神秘的な瞑想の世界が繰り広げられていました。
特に代表作と言われるものの中から3点を表示いたしましょう。

《一角獣》
上記のチケットを飾っています。
「一角獣は気性激しく人に慣れる事はなく、純潔な乙女の膝元で安らぎ、角は触れたもの全てを浄化する力を持つ」 独自の耽美世界を構築した珠玉の作品。





 《エウロペの誘拐》
「ユピテル(ゼウス)は人面半獣に姿を変えて美しいエウロペを誘拐し3人の息子が生まれました」 愛と憎しみの相克、卓越した想像力で宝石のような絵画を創作。






 《出現》
「ユダヤの支配者ヘロデ王は誕生日の宴席で、後妻ヘロデアの娘サロメの踊りを所望し、望みのものを取らすと言う。サロメの望んだものはヨハネの生首であった。
中空にヨハネの首が出現したのだ」 これはモローの独創性の表れで、文学・音楽に多大な影響を与えた。


 モローは生前から住宅兼アトリエを美術館として公開しようと考えていました。
 経済的に恵まれ、両親の愛を一身に受けて自己確立し 名声を博し長寿を全うし たのです。
 没後 作品と邸宅をフランス国家に遺贈し、初代館長には教え子であった ルオ ーが就任しました。
 沢山の事を知り得て、そしてギュスタブ・モローに近付けて良い一日でした。

よく使うwebサービスは何ですか?

2005-09-09 | TBの練習

タイトルは今週のTBの練習ですが、PCは必ず毎日開いています。お気に入りが20コ以上あって毎回10コは開きます。

★goo blog: 自分のは勿論人様のも拝見します。
★メール: 主にyahooを。gooはblogやショッピング用に。
★花の掲示板&Botanical Garden
★検索:まずyahoo! それで満足いかないとgoogle
★asahi.com: 株価検索
★プロ野球速報


続 「義経記」   (抄文・抄訳)

2005-09-02 | 鎌倉の四季
  
   ▲前編▲

 [第五巻]

■{判官 吉野山に入る} 『大物の浦・天王寺・吉野山・多武峰・遠津河(十津川)・伊勢・南都・京都・南都・伊賀・伊勢・美濃経由で奥州に向いました』

道中 精進潔斎の場所まで静を伴った事に、義経は「神慮の程が恐ろしい 此処から都へ引き返せ」と。静は泣き伏して「六波羅に捉えられて憂き目を見るより この場で殺して欲しい」と掻き口説きますが、義経は「只々、都へ帰り給え」と言うのみでした。悲しむ静に財宝を与え五人の供を着けて二つに分かれたのでした。
途中、供の者は「此処で暫く休養を。尋ねたき人の所に行って来ますから」と姿を消しました。

■{静 吉野山に捨てられる}   静は日暮るるまで待つも、判官に賜びたる財宝を賺し取られて、泣く泣く一晩中彷徨い歩き蔵王権現の燈火に導かれて 蔵王堂にたどり着きました。美しい女性に老僧は「芸あるものならば、権現様に奉納を」と言い 静も「私は白拍子だから」と素晴らしい舞を奉納しました。人々は「あれは静御前よ」「判官の行方を知っている筈だ」と尋問し、静は全てを白状しました。宗徒たちは静を労わり、馬に乗せ護衛をつけて北白川へ送り届けました。

■{忠信 吉野に止まる} 判官 静と別れし後南大門辺りで、大衆達が騒ぎ立て
老僧達は「判官殿を寄せて討ち取り、鎌倉殿の見参に入れ候はん」と申す。先祖を尋ぬれば鎌足内大臣の御末、信夫の佐藤庄司が次男、佐藤四郎兵衛藤原忠信と言う侍あり。義経の前に進み出て「殿はお心易くお落ちください。忠信が踏みとどまって防戦をいたします」と申しますが、「兄の継信が屋島にて我が為に命を棄てた。
そなたも我も生きて秀衡に会い、信夫の妻子とも会うがよい」忠信は「陸奥を出る時に秀衡公から、ご主君に命を差し上げよと言われ、母から生きて戻って来いとは言われた事がありません」と。弁慶も「武士たるものは言い出したことを翻す事はありますまい」と口添えしたので、義経は「是非もない。心の侭にせよ」と言い宝剣と鎧を授けました。そして若党三、四人と吉野に踏み止まったのでした。

■{忠信 吉野山の合戦}  緋縅の鎧に白星の兜の緒を締めて『つららい』と言う太刀を帯、判官より賜りたる黄金作りの太刀を帯副にする。大衆三百人ばかりが押し寄せてきました。其の中で身の丈六尺ばかりの「覚範」と打ち合い首を掻き切り「義経 覚範を討ち取ったり」と言うと、我らが敵う相手ではないと逃げてゆきました。その後忠信は再び京都に入りました。

■時節は十二月に入り、雪降り埋み氷凍て 一方ならぬ山路で難儀を極めました。
義経達は人里近くで鎧・腹巻を脱ぎ捨て「来年始め奥州へ下向するので、一条今出川付近で落ち合おう」と約して夫々身を隠し、義経は奈良の勧修坊得業を頼ってゆきました。

       (前編 五巻までが終了しました。 後編は改めて編集します)


     写真:白拍子姿の静御前