花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

葛西臨海公園

2010-09-29 | 撮影を楽しむ

 
暑さが一転 秋モードになって撮影会は上手く行ったでしょうか・・雨は何とかやり過ごせたのですが、風に翻弄されて可憐なコスモスは大きく揺れてちょっと大変でした。
大観覧車の下はコスモスで覆い尽されていて、好い構図に成るはずなのですが・・先輩に助けられての展示です。

✿コスモスと観覧車
          
     ✿海辺のオブジェ
          

          ✿夕日に染まったコスモス
                 
                 
✿金盞花
                    

上野界隈そぞろ歩き

2010-09-23 | 美術館
            【上野 寛永寺辺り】

上野は東京では一番良く行くところでしょうか。仲良し三人組で先ず美術館へ。
       
        ✿上野の森美術館
        

絵の上手な友人の師 作山先生の「新構造展」』 に誘われていたのです。

        作山隆一先生「誰が袖」 
        

次に知らない方だけど好きな絵を2点ご紹介させて頂きましょう。
        
        竹内知巳氏「祭り」
        
        
        青木和江氏 「ファラオは何処へ」
        

 上野の森美術館は多くの鑑賞者で賑わっていました。次に櫻の長く延びた枝の下をゆっくり歩いて韻松亭でお食事をすることに。込んでいましたがほんの少し待って3階に。見た目もお味も結構で梅酒にも合って美味しかったです。
        

 食後は不忍池を通り、今TVドラマで話題の岩崎邸を訪問してみることにしました。
道すがらの風景2題です。

        《 花園稲荷神社 》
         

《 不忍池 》

        
✿旧岩崎邸 

不忍池から大通りを越えると、街並みの奥に森が見えその坂道を登ると広大な敷地に洋館が建っています。
三菱創設者 岩崎家本家として明治29年(1896)英国人ジョサイア・コンドルによって設計されたものです。 
         

正面玄関から入場し、赤い絨毯を踏んで拝見します。撮影が出来ないのでパンフレットの映像を。        

        《 邸内 》
        

        《洋館の南庭から 》
        
他に和館(洋館と結合して建てられた純和風建築)。撞球室(ビリヤード場 スイスの山小屋
風 の造り)。庭園(越後高田藩 榊原氏の屋敷跡に建てられた庭園は、大名庭園の形式を一部
踏襲すると言われています。その後埋め立てられた池部分に芝が張られ、庭石、灯籠、築山が設けられました。「芝庭」を持つ近代の和洋折衷庭園の初期の形と言われています。 



第一回 富士山麓ぐるり一周

2010-09-19 | 里山 森林行

 【富士山麓はススキを纏い始めていました】     
 
 『日本一の山「富士山」。その裾野には日本一の自然が溢れています。湖面に富士を映す富士五湖、絹糸のような優美な白糸の滝、迷宮の深い森、青木ヶ原樹海など 個性豊かな大自然が富士山麓を取り巻いています。歩きながらこの自然を満喫してみませんか』

そう呼びかけられて参加することに致しました。日帰りで月1回、一年をかけて一周するのです。

【北口本宮富士浅間神社】
 東名高速から富士吉田に出て「北口本宮富士浅間神社」からスタートです。
富士の山開きや山じまいなど、富士山と深いつながりのある神社なのです。
富士山の噴火を鎮めるために延暦7年(788)頃に創建されたと伝わっています。
桃山様式の本殿と永禄4年に武田信玄が再建したと伝わる東本宮殿、室町末期造営の西本宮殿は国の重要文化財に指定されています。
大鳥居から真っ直ぐに伸びる敷石を踏みしめて、全員で安全祈願をして出立です。        
     ✿北口本宮富士浅間神社
           

✿本殿内部 
     

近くに東海道自然歩道があり、すぐ傍を1m巾くらいの側溝が延びて急流に逆らうように歩き出し始めました。晴天なのに暑くもなく右手の彼方に富士山が見え隠れし、田圃には黄金色をした稲穂が靡き期待は大きく膨らむばかりです。
大きな建物があって休憩時間です。綺麗な庭でお弁当を頂き、民族博物館・富士山レーダードーム館・古民家・道の駅etc。 写真や特産物、お土産などで思い思いに過ごしました。 

✿富士山レーダー (富士山頂で不要に・・)

     
     ✿忍野八海

次に目指すは忍野八海です。平日なのに多勢の人達だなぁ~と思っていると、韓国語や中国語が随分飛び交っています。
富士山に降った雨や雪が、富士山の地層で80年以上の歳月をかけて濾過された水が沸くと言われています。水温は年間を通じて12~13.5度と安定しています。湧水池が8ヶ所散在している事から命名されたと言われています。
     

     ✿花の都公園

花の都とは・・想像を掻き立てる命名です。大平原のその先にススキを纏った富士山が少しの雲をたなびかせて、悠然とその雄姿を現し長時間見つめ続けて歩く事になったのです。(トップの富士山の写真からご想像ください)
ああ なんと言う仕合せ!

しかしいつの間にか赤松林の中を通り抜けたと思ったら、反対側の山頂に白く輝くものが見えてきました。そして山裾一面が100万坪はあろうかと言う花の都公園が展開されていたのです。
      
       《コスモスの群落》
     
          《ホテル マウント富士》
 

花の都公園では温泉入浴をしない者は、自由散策出来ると言うことで一眼レフを背負って行っていたので後でと思っていたら変更になり一枚もないので、「上記コスモスの群落」はパンフレットから借用しました。

来月はここ「花の都公園 」から第2回目がはじまります。

日蓮聖人法難の聖跡を歩く

2010-09-10 | 鎌倉の四季
    【日蓮の肖像画】
    
     

     作者:藤原親安
     出所:日蓮宗

 1250年代の日本は諸国に飢餓・災害が頻発していました。1253年(建長5)安房の国より鎌倉に入った日蓮は小町大路に立ち民衆に向かって法華経を説きました。
1260年(文応元)7月には、前執権北条時頼に「立正安国論」を提示し、翌月松葉ヵ谷の草庵が襲われますが窮地を脱しました。
しかし布教には多くの苦難が待ち受けていました。1261年(弘長元)には伊豆へ、1271年(文永8)には龍ノ口での処刑は免れますが、佐度に配流されました。1274年(文永11)救免され鎌倉に帰った後、甲斐国身延山に入りました。
今回『古都鎌倉史蹟めぐり』NPO法人 鎌倉ガイド協会に、鎌倉周辺での日蓮の布教活動の足跡をご案内していただきました。
猛暑が台風に変貌し濡れ鼠になった一日でもありました。

【猿畠山 法性寺】
       

 1260年(文応元)松葉ヶ谷の草庵を焼き討ちされた日連が、この山の洞穴に身を隠した所三匹の白猿が現れて食物を供したと言います。これを山王権現の導きと考えた日蓮は、弟子の日朗に寺の建立を命じますが、これを果たせず日朗は没しました。
日朗の弟子朗慶がその志を継ぎ堂宇を建立します。境内の左側に日蓮が難を逃れ籠居した洞穴、右側の堂内には日朗の墓があります。
寺裏の墓地と地續きには大切岸があり、素晴らしい眺望があると聞きましたが豪雨のため断念せざるを得ませんでした。何時の日か・・・

 【石井山 長勝寺】

 開山:日蓮聖人
 開基:石井長勝

1263年(弘長3)伊豆流罪を許され鎌倉に戻った日蓮に、この地の領主石井長勝が庵を建てて寄進しました。はじめ本勝寺と称しますが、四世日静が京都に移し廃寺になっていました。南北朝時代になってこの地に復興し 寺号を開基である石井長勝の名にちなんで現在の寺名になりました。
境内には、高村光雲作の日蓮聖人像が高く聳え四天王が周りを囲んだ立派な光景です。
祖師堂は室町時代初期の建築ですが、鎌倉時代特有の五間堂の様式が用いられています。





 【 妙法華経山 安国論寺】

 開山:日蓮上人
 創建:1253年(建長5)

安房国より鎌倉に入った日蓮は約20年間をこの地で過ごし、その聖域となりました。山門に入ると左側には、増上寺から移されたと言う石灯籠が並んでいます。
参道の正面には祖師堂(本堂)があります。
          

本堂の向かいには「御法窟」があり、この御岩屋で『立正安国論』が書かれました。前執権北条時頼に建白されます。そのために大難は四度、小難は数々と言われた緒法難の内、最初 松葉ヶ谷焼打の法難にあっています。今も裏山に一時避難された南面窟が残っています。
    

 【妙厳山 本覚寺】

鎌倉時代幕府の裏鬼門に当たるため、守護神として夷堂がおかれました。1274年流罪を許され佐渡から鎌倉に戻った日蓮はこの夷堂に身を置いて布教を続けましたが、やがて身延山に庵を結びます。
1436年天台宗系の夷堂は、日出により日蓮宗に改め本覚寺としました。