花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

田代山 帝釈山へ

2008-06-27 | 登山
                          【姫小百合の丘】

尾瀬国立公園の北東に位置する田代山(タシロヤマ1926m)・帝釈山(タイシャクザン2060m)は栃木県と福島県の県境に位置し、山頂一帯は広大な湿原が広がって無数の高山植物は木道で守られています。

一泊の山行なので余裕があって観光の付録がありました。
東北自動車を西那須野塩原ICから大内宿→塔の岪(ヘツリ)を巡り高清水自然公園の姫小百合の群落地を訪れました。
そして今宵の宿泊 舘岩村の湯ノ花温泉・和風ペンション「山の音」に到着でした。

【大内宿】
大内宿の本陣は会津と奥州街道を結ぶ拠点として江戸時代の初期に建てられ、会津藩主初代保科正之、二代正経の足跡の記録が残されています。
殿様専用の乗り込み(玄関)、上段の間、風呂、雪隠があり 茅葺屋根のどっしりとした風格が当時の面影を色濃く残しています。


広い道の両側に藁葺屋根の民家が軒を連ね、趣向を凝らした手造りのお土産を並べています。お人形を買い求めて庭先の椅子でお弁当を使わせもらう。道の中央に清流があり花々が咲き乱れています・・それが現代風の花なのでチョットつまらない・・・
          
               
          
               

【塔の岪(ヘツリ)】
巨大な石の塔が建ち並んでいる奇岩怪石をヘツリと言います。ヘツリはこちらの方言で川に沿った断崖、急斜面の呼称なのです。
     

【湯野上温泉駅】
会津鉄道にこの地に相応しい駅舎が有りました。


【高清水自然公園 ヒメサユリの里】
285号線を西方にバスは移動して「日本一のヒメサユリの里」へ向かいます。
高度を上げて山道をかなり登ると、7ヘクタールの草原に100万本のヒメサユリが自生しています。この花は種からの繁殖になりますので最低でも4年は掛かり花が咲き誇るまでには7~8年の歳月が必要なのです。
     
 
 
【湯ノ花温泉 ペンション山の音】
明日登る田代山に近く今宵の宿は我ら17名の貸切でした。未だ陽も高く温泉三昧には時間が沢山あるようです。
山に囲まれた温泉宿でまず一風呂 単純泉で透明なお湯に浸かると次はお散歩へ。男性陣はお風呂の梯子をされたようで、岩風呂の混浴がお気に入りだったようです。心地よい風に吹かれて川に向かいました。
           

夕食はテーブル一杯に並んだご馳走に何種類かのお酒も頂いて、早い就寝でした。翌朝は早めに目覚めると霧が深く立ち込めていましたが、朝食もお弁当も用意していただいて予定通りの出立でした。
猿倉登山口までは車幅一杯の道を蛇行しながら高度を上げて40分。イヨイヨです。 
昨日までの雨でぬかるんでいますが前進あるのみです。高山植物が見えていますが撮れる時撮れない時の繰り返しでした。鮮やかなピンクや赤色を見過ごさなければならない時の無念さは、体力の限界をイヤと言うほど味わう時なのです。樹林から僅かに見えた山容が来月の指標「奥白根」と聞いた時は、今撮らなければ次は無いかも知れないと遅れを覚悟で実行しました。
小田代湿原を通り越し樹林が終わるや広大な湿原が・・・アァ! 暫くは水平のこの台地で過ごせる~~。 

【マイズルソウ】【ミヤマシキミ】【ゴゼンタチバナ】 
     
          
               

【奥白根 】
 

【イワカガミ】【タテヤマリンドウ】【チングルマ】
      
          
               

【池塘 雪を冠る会津駒ヶ岳】


【オオカメノキ】【ヒメシャクナゲ】【サンカヨウ】【オサバグサ】

     
          
               

上記の写真を撮影して 帝釈山ではかなりぬかるみましたが、オサバグサの群落を延々眺めてこの花の事は決して忘れる事は無いでしょう。
馬坂峠の下山口でバスに迎えられ、運転手さんに美味しいお茶を入れていただき檜枝岐の「燧の湯」でサッパリとします。そして昨日の道を逆に辿ったのでした。皆様色々有難うございました。

「お庭を飾りたい夏の花は??」

2008-06-16 | トラバ意見版
                          【オリエンタルリリー】

トラバ意見版の第2弾です。夏は大きくて涼しげな花を第一にあげたいですね。
飾りたい花は数々ありますが、我が家の事を答えるのがいいかなと思って・・表紙の花は『東洋的な百合』と言えばそうかもしれませんね。

もう少しすると【シャンデリアリリー】が咲きます。小ぶりで真っ白い花が幹の先に集まって咲きます。
そして盛夏には【鹿の子ユリ】が女王様のように咲き誇ります。
そして種が飛んできた【高砂ユリ】がもう何年も咲き続けています。此花は平凡かもしれませんが通りの家々の何処かに定着して可愛がられているようです。

箱根ハイキング

2008-06-12 | 山陽会
                               【山椒薔薇】

昨年山陽会が発足して紅葉の早雲山から駒ケ岳を縦走した時、イワカガミの群落に出会い「花の頃に再訪しましょう」が実現する事になりました!
今年も同じコースながら山水会から男性が一人参加されました。箱根湯本に7:16に集合。登山電車でスイッチバックをしながら・・登り始めこそ紫陽花は咲いていましたが、チョット早かったようです。そしてアァ~ イワカガミは咲き終わっていたのです。(日にちの合わせ方が難しいので・・)

或る分岐でポツリと雨が来て雷が鳴るではありませんか。ここは思案のしどころです。
そこで大涌谷に向かう事になりました。そこは一大観光地 多国籍民族の出会いの場でした。
【分岐点 T・M 氏撮影】 



【登るはずだった冠ヶ岳を仰ぐ この奥に神山が】
 


【大涌谷は空中からの工事中】

          

硫黄の匂いに煙られながら黒玉子を食べて さて次は? k・M リーダーは次なるコースを用意してくださっていました。
【大湧谷自然探勝路を行く】



【昼なお暗き杉の並木 羊腸の小径は苔滑らか 一夫関に当たるや万夫も 開くなし】



この道は私たちにピッタリの快適さでした。雨もアレきりだったし雷とは自衛隊の演習の音と聞き間違っていたらしい・・草ッ原に椅子とテーブルを見つけてお弁当にして お腹が満たされると辺りはお花畑だったことに気付くのでした。
お花撮りに夢中になってクロアゲハやアサギマダラと一緒に飛び回ったのでした。

表紙のサンショウバラの大木やウマノアシガタ・ヒメジオン・庭セキショウ・ハンショウズルとこの3倍の種類は咲いていたでしょうか。
          
          【ウマノアシガタ】
          
               【ヒメジオン】
               
          【庭セキショウ】
          
               【ハンショウズル】
               

桃源台まで歩く予定です。まだまだ昼なお暗き木立の道を花木を眺めながら歩いていると手造りの「ガーデンカフェ」に目が留まりました。鬱蒼とした森の小径に誘われるように入って行ったのですが、中々奥深く宮沢賢治の「注文の多い料理店」を思い出して少し背筋が寒くなっていたのですが、なにやら建物らしきものが見えてきてそこの鐘を鳴らすよう書いてあり・・・トラックで工事中のおじいさんが応対するではありませんか。
妖精が棲んでいるような庭・建物に招き入れられてコーヒー@300円を注文したのです。好奇心に満ちた私たち5人に一気にお喋りを始めた男性の「聞くも語るも」に引き込まれてゆきました。
コーヒーはとても美味しかったですよ。

【ガーデンカフェ 屋外2題 (ガーデンステージ:T・M 氏撮影)】




【ガーデンカフェ 屋内】
 


【ガーデンカフェの主 山口鷹 氏】
山口氏の話を要約します。
出生は横浜 中学生の時空襲で孤児となるが早その頃洋画の才能を認められていて
4人もの画商と契約してパリで修行をして絶頂にあったらしい。
バブルの崩壊と病で お金をかき集めて、ここ箱根で売り出されていた旅館を購入。
美術館を開くつもりだったそうですが、思うに任せず全て手造りのガーデンカフェ&アートミュージアムを作るべく努力をされている所だと言うことでした。
広大な敷地で バーベキュウやキャンプも出来るようです。  

  (携帯NO 0903-1000-780 水・木定休日)

     
        
【作品を拝見 リトグラフ2題】
大きさは50号くらい(?) ガラスに景色が反射して本来の絵ではありませんが
素晴らしい精密画だと思いました。

                 
     

一時間位いたでしょうか。奥深い森の かっての旅館で大きなダルメシアンと夢を失わずに暮らしている人 これからも思い出すこともあることでしょう。
桃源郷からバスで箱根湯本まで出て、弥次喜多の湯でゆっくりして好い一日に感謝しながら箱根を後に致しました。

鎌倉 園覚寺塔頭めぐり

2008-06-09 | 鎌倉の四季
           【園覚寺山門 (龍陰庵より撮影)】

古都鎌倉史跡めぐりの特別企画『禅の心』を、雲頂庵の殿谷住職の法話から「禅の心」には、人生について深く省み その不安に目覚め究極の拠り所を求めて根本的な安心を得ようとする、一つのきっかけになるようなお話が聞けるのではないか・・主催者の趣旨が解説されています。

園覚寺は鎌倉五山第二位 臨済宗園覚寺派の大本山です。今から約725年前の弘安5年(1282)鎌倉幕府第八代執権・北条時宗が、宋の禅僧・無学祖元を開山に招いて建立したお寺です。
文永・弘安(1274・1281年)の二度に亘る元との戦いで死亡した兵士たちの菩提を弔うため、敵味方の区別無く 又北条一族の安穏と繁栄を祈願して建てられました。

【塔頭(たっちゅう)】とは、境内にある小寺を指しています。「禅宗」に於いて
祖師または高僧が亡くなった後、その弟子が師の徳を慕って塔の頭(ほとり)に構えた房舎を指します。
時代が進むにつれ各門派を中心とする動きが強くなり、勢力維持のための塔頭が乱立するようになって、室町時代に入り規制 禁止へと向かいました。
最盛期には七堂伽藍の整った塔頭が50ヶ所もあったそうですが、現在は17ヶ所になっています。

今回の塔頭めぐりは 雲頂庵→ 龍陰庵→ 松嶺院 の三ヶ寺でした。

【雲頂庵】
もと関東十刹の一つ長勝寺の塔頭でしたが、永享の乱で廃寺となりその後関東管領の上杉家の家臣 長尾忠景に依って再興され江戸時代になって園覚寺の塔頭になり、時経て現在は殿谷家が2代住職をされています(世襲は初めて)。
殿谷氏の法話を拝聴いたしました。



『現在は何でも金銭に計ってしまう。市場経済が行き着くとこうなる。信仰性・誠心性が失われて「私は無宗教」だと平気で言うようになる。
「バレなければ 見えなければ良い」しかしこの事は「神仏が見ている」と思う心が誠心性であり、そこに留意出来なくなった時代と言うべきでしょう。

寺院とは先ず仏様を祀る 金属で鋳造したもの・木を彫ったもの・紙や布で作ったもの、それらに魂を注ぎ込んだものの心は容易には見えない・言葉では語りつくせないが、心の展開図として何かを求めて今日 皆さんは此処に来たのではないかと推測しました。

今は社会的に祈りが失われている。働くと祈りは同じ重みがあります。
私達は自分以外の命を自分の命に代えて生きている。不殺生は不可能なので、何も捨てず全てを生かして食べて感謝の言葉を忘れないでいたい。

神仏に何か願う時 その分だけ他人にして差し上げる事を忘れてはならない。希望を叶える近道は、その前に人にしてあげる事で巡り巡って自分に帰ってくる。
真摯に根気良く祈り続ける事で何処かで気付く事が有る。その気付きの積み重ねが自信になるのです。宿命でも運命でもなく逃れようの無い定めなのです。』

60分の法話を私なりに要約しました。
私は信仰心の厚い母に言われていた事を思い出していました。「悪の囁き」を耳にしたとき「誰が見ていなくても神仏はお見通し」は今も生きているかな・・と思って見ました。

【龍陰庵】
園覚寺境内を見渡せる高台にあり、奥にヤグラが数穴残っています。


          

【松嶺院】
本堂は白木の香る広く新しい佇まいでした。



現住職により手入れされた花園が、本堂に沿って作られています。
美しいクレマチスを撮りました。
          
          
          

墓地には、有名人の墓所が多くあり代表的なところでは 開高健、中山義秀、田中絹代、佐田啓二、清水昆、坂本弁護士一家が葬られています。

又有島武郎が「或る女」の後編を書くために大正8年3~4月に掛けて当院2階に部屋を借りて執筆したと言われています。          

古都鎌倉史跡めぐり 大船

2008-06-01 | 鎌倉の四季
                    【ヤマボウシ(鎌倉中央公園にて)】

《粟船の古刹から新緑あふれる台峰・山崎へ》が今回のテーマです。 源頼朝が鎌倉幕府を開いた頃は、鎌倉の外であった北西地域の大船を訪ねました。

《大船》は古くは粟船(ぞくせん)と称し「吾妻鏡」にも記述がありますが、江戸時代に大船村、昭和になって大船町となって、松竹キネマ大船撮影所の開設を機に開発が進み、現在鎌倉で一番活気のあるところになっています。

《台》は柏尾川の支流で戸部川の左岸一帯に広がる低い丘陵地で、戦国時代には小田原北条氏の所領。 江戸時代に幕府領となり昭和になって大船町になりました。

《山崎》は天神山の南東に位置する狭隘の要衝の地でした。新田義貞鎌倉攻めの洲崎古戦場に含まれ、山崎天神を祀る天神山は砦であったと考えられています。
江戸時代に山崎村となり、昭和23年大船町と共に鎌倉市に合併されました。

【常楽寺山門 三代執権・北条泰時は60歳で他界し戒名の常楽院殿を冠した山号寺号は《粟船山常楽寺》 宗派は《臨済宗建長寺派》 】


【多門院 山之内瓜ケ谷にあった観蓮寺が前身で、永享の乱で消失した寺を上杉氏に仕えた土豪の甘糟氏が熊野神社を勧請し、多聞院としてこの地に移したと伝えられています。院内をご案内いただきましたが、弘法大師坐像をはじめとして 数多くの仏像が安置され、金蒔絵の天井画や 金色に輝く天井からの飾り金具は華麗で美しく静謐なたたずまいに感動しました。】


【甘糟家長屋門 「多聞院」移築に名を残している甘糟家は室町時代には上杉管領に仕え、戦国時代には玉縄北条氏に仕えました。江戸時代後期には大船村の名主としてこの一帯を持つ資産家でもありました。
この建物は保永5年(1708)築と言われ昭和60年に改築されたものです。】
          

【廬山人窯跡 《北大路廬山人の「星岡窯(せいこうよう)」跡》 陶芸家、料理家として名をなした廬山人は大正15年(1926)山崎に土地を借り、九谷焼窯元の須田青華の窯より陶工を呼んで登り窯を作りました。
母屋は厚木近郊から民家を移築。晩年には迎賓館「慶雲閣」を建て、なじみの客を呼び料理を作り自作の器でもてなしました。昭和34年12月76歳で亡くなるまで、ここ「其中山房(ごちゅうさんぼう)」に住みました。】


★北大路魯山人(本名 北大路房次郎 1883~1959)
京都上賀茂神社の社家の次男として誕生。生後まもなく木版師の養子になり苦難の道を歩む。書道の才があり書家岡本可亭の弟子となり22歳で上京書道教授となる。27歳の時朝鮮に行き印刷局の役人になり、古美術を勉強したといわれる。帰国後近江長浜で絵画を、金沢の山代温泉で料理や陶芸を習い、大正8年東京で大雅堂芸術店を開店。手料理を客に出して好評を得る。38歳の時同人組織「美食倶楽部」を発足し、翌年北大路廬山人と名乗る。大正14年赤坂に「星岡茶寮」を開く。以降陶芸家として国内外で活躍。昭和30年人間国宝に推挙されるも固辞。昭和34年12月21日肝硬変で76歳の生涯を終えた。

【魯山人の屋敷 現在は一方を山 三方は生垣で「其中山房」と思われる屋根が一軒見えますが、広い庭は樹木が比較的整然とあるように見受けられました。】
          

【中央公園 鎌倉市のほぼ中央に位置する面積23.7ヘクタールの豊かな自然に恵まれた風致公園です。自然との触れ合いや、農作業体験も出来るところ。又都市緑化植物園や、池や湿地 川などと全てを拝見する事は出来ませんでしたが、雨模様の一日でしたので、休憩舎を利用してお弁当を頂きました。冒頭のヤマボウシが美しい風情を醸し出していました。】

【北野神社(山崎天神) 《祭神 菅原道真》 南北朝時代夢想国師が京都北野天満宮を勧請したと伝えられています。創建は暦応年間(1338~42)とされていますが、次第に衰えて江戸時代には村の鎮守になっていました。
ところが明治35年3月25日、菅原道真没後1000年祭には神殿を修理し盛大な式典が行われたと言われています。正殿があり本殿があって奥行きがありますし、鳥居も厳島神社と同じ両部鳥居で立派でした。非常に長い石段を登らなければ成らない事は、ここを新田義貞が砦にしたことも頷ける事でしょう。】


鎌倉シルバー・ボランティアガイド協会のご案内で、古都鎌倉を探訪していますが
未だ重複した事がなく歴史の深さ・広域さを感じています。ガイドさんも70余名とか、日々研鑽されて受講者を惹きつけていらっしゃいます。受講日も一つのテーマに2日~4日を掛けて、都合が付けられる配慮がなされておりますし、多いときは1日で100名を越えることも多いいと聞きました。20名ずつの班に分けて先着順に出発する仕組みです。