花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

十二所梅林に春を訪ねて

2011-02-24 | 鎌倉の四季
      
 <<十二所果樹園>>

鎌倉の代表的な梅林として、十二所(ジュウニソ)果樹園があります。
古道である朝比奈街道沿いの古刹を巡りながら、太刀洗川に沿って今ではハイキングコースになっている朝比奈切通しを途中右折して登ってゆくと、そこは広大な梅林が広がっていました。

 光触寺


 
【山号寺号】 岩蔵山光触寺(がんぞうざんこうそくじ) 【宗派】時宗
 【開基】一遍上人  【本尊】阿弥陀三尊(國重文)

鎌倉時代真言宗として開創されましたが、1282年一遍上人が遊行の途次、時宗に改め念仏道場として栄えました。
阿弥陀三尊は運慶、快慶、湛慶の作と伝えられ 泥棒に焼き鏝で仕置をしたが、阿弥陀三尊像の頬にその後が残ったと言う話が伝わっています。「頬焼阿弥陀」として。
こう言った伝説がもう一つ。
お地蔵様に塩を供えるといつの間にか無くなっているので「塩嘗地蔵」。



  
<<梅香る本堂>> 

光触寺は以前本堂を拝観したとき、金の天井飾りや、柱にも彩色が施されていて印象的だった事を思いだしていました。
昨年従兄弟から「妹が亡くなり」光触寺にお墓を作った旨を聞き、私より10歳は年下の従姉妹の事、その儚さ そして光触寺のこと・・「鎌倉史跡巡り」での巡りあわせを思い、感慨深いものがありました。
お墓が簡単に見つかるとは思わなかったのですが、新しいお墓に目をやりつつ出口に近づいた時、苗字が目に入ってきたのです。○○家之墓では確信は持てなかったのですが、
横から卒塔婆の文字が見えて生前の名前の一文字が入っていたので「あぁ 良かった!」と嬉しく思いました。3月に入れば彼と会えるので・・。

  太刀洗川

  
   

滑川に注ぐ太刀洗川を左手に見ながら登っていると、対岸の石の祠辺りから竹の筧を伝って水が流れています。細い水流ですがこれが鎌倉五名水の一つだと言います。
ここで梶原景時は血刀を洗い、相手は上総介平広常だという伝説です。

 十二所果樹園(鎌倉市十二所字七曲)

総面積50.350m2で梅と栗が主。横浜市から鎌倉市、三浦市に連なる三浦丘陵地帯の一角をなしています。無償のボランティアで運営、維持されています。

     
      

明王院(五大堂)

鎌倉幕府の四代将軍藤原頼経が寛喜三年(1231)に発願し、場所の設定や鎌倉中の大火災などで時間を要し4年後に創建をみたお寺です。建立地は政所から見て鬼門にあたり、鬼門除けの祈願寺として五大明王(不動・降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜叉)を祀りました。それぞれの明王に大きな堂があったことから、古くから五大堂と呼ばれて来ました。
寛永年間の火災で不動明王をを残して他の四体は消失しました。その後再建されましたが
江戸時代には再び火災により消失。その後再び再建されます。
将軍の発案によって建立された、鎌倉に現存する唯一の寺院なのです。

このお寺は一切の撮影は不可です。唯一お堂はパンフレットからの転写です。

          

 鎌足稲荷

大化二年(646)藤原釜足が鹿島神宮に参詣する折、由比の里に泊まり夢の中で白髪の老人から受け取った鎌槍を、白狐の案内で浄妙寺の裏山に埋めお堂を建てて祈ります。
「不思議な剣が埋められた。これから鎌倉の郡は五穀が実り人々は安楽になる」と神のお告げがあり、天皇に申し上げると「以後鎌倉の郡と唱えよ」と言われ、鎌倉の名前はここから来ていると伝えられています。
          

 浄妙寺

   

  【宗派】臨済宗建長寺派 【本尊】釈迦如来   【創建】文治四年 
  【開基】足利義兼    【中興開基】足利貞氏 
              
鎌倉五山の四位までが北条氏に関わるお寺で、五位のみが足利氏のお寺です。
中興開基は足利尊氏の父貞氏で、元弘元年(1331)に亡くなり、このお寺に葬られました。裏山の墓地に立派なお墓があります。
この寺が最も栄えたのは文和二年(1353)以降で、その頃鎌倉五山に列したと思われます。 

 浄妙寺に咲いた梅

          
 
 【鎌倉にゆかりの歌】

出ていなば主なき宿となりぬとも 軒端の梅よ春な忘れそ 源実朝

鎌倉に井あり梅あり星月夜    正岡子規

鎌倉の梅の中より鐘起こる 春の夕となりにけるかも 与謝野晶子 

山内荘に武家興隆の源を探る

2011-02-11 | 鎌倉の四季
 
   
   <<證菩提寺>>

武家興隆の源となった山内の荘園地帯に牧草地や水田や山砦を歩き、領主となった首藤一族が開発しその後を継いだ源氏、北条氏、足利氏に思いを馳せながら山里の風景を楽しんで来ました。

首藤山内屋敷跡

遠く藤原釜足の流れをくむ秀郷→資清(主馬首・・シュメノオビト・・)は、主馬の長に任じられ、以後首藤氏と称されるようになったのです。12世紀前半の首藤義通・俊通親子辺りと言われています。
その屋敷跡は鎌倉街道から明月院に入ってゆく右側と考えられています。
現在では円覚寺と建長寺の間を北東に広がる谷戸が「明月ヶ谷」と呼ばれています。
明月院の前身の明月庵は首藤俊通を弔うために、息子の經俊が建立しました。

明月ヶ谷の急坂を登ると今泉台の住宅地が拡がっています。北方向に進み横浜の本郷台駅へと歩きました。

散在ヶ池森林公園(別称:鎌倉湖)

          

江戸時代に大船と岩瀬の水争い解決のために造られた人造湖で、湖岸線延長772m、最大水深7.6m、広さ13ヘクタール。
1000種近い動植物が生息しています。鬱蒼と茂る樹木に囲まれ、森林公園として整備されていて楽しみなところになっています。
写真は管理棟に面した湖面に鯉が集まっていました。

せせらぎの小径

     

 矢沢堀小川アメニティ

     

アメニティには散策木道があり、水車がゆっくり回っていて その下流は生物の種類が豊富で量も多いと聞きます。

證菩提寺

       

【開基】源頼朝 【本尊】阿弥陀如来坐像 【創建】建久8年(1197)

トップの写真は山門越しに本堂を撮っています。上記は側面から源氏の家紋を入れて撮ったものです。
1180年8月石橋山の合戦で戦死した佐那田義忠の霊を弔うために源頼朝が開いたお寺。
佐那田義忠の父は岡崎義実といい三浦義明の弟。法名を證菩提と号したので当寺の名前もそれにちなむと言われています。

北東の高い尾根が武蔵の国との境になっており鎌倉の関門になっています。鬼門でもあり更に食料補給地であり武器の製造地でもあり、鎌倉の武家の興隆に大いに寄与した地域と考えられています。

本堂の隣に収蔵庫があり國重文の阿弥陀三尊像を拝観いたしました。(映像はwebサイトより)
        
          

いたち川散策路

     
          

鎌倉の北部にあって横浜と入り組んだところに、長くうねりながら自然の川の姿をとどめながら、下流で柏尾川と合流し尚藤沢で境川と合流して江ノ島付近で駿河湾に注ぎます。
「いたち川」とは鎌倉時代に出立のセレモニーをしたところで「いざ出で立ちぬ~」が、訛ったものだと言われています。
この川の周辺一帯はお米が一番取れる地帯として奈良・平安時代からの中心地であり、鎌倉時代は幕府の食料生産地でありました。

春日神社
  
      

 【創建】山内首藤氏  【創建年】平安時代  【祭神】春日大明神

平安時代 この地は山内荘といい、柏尾川流域を経営した秀郷流藤原氏の名族、山内首藤
の荘園でありました。
春日神社は山内首藤により荘園の中に創建されたと考えらますし、祖先神の奈良の春日大社より勧請したと考えられます。

源頼朝は石橋山の戦いで平家方についた首藤經俊を許さずこの土地を土肥実平に預けます。後に和田の乱以降は北條義時の所領になり、鎌倉幕府が滅ぶと次第に衰退して戦国時代には小田原北条氏が再建したと伝えられています。

現在の本殿は「中宮」と言われ、江戸末期頃の春日曼荼羅彫刻が四面に飾られていて見ることが出来ます。神社の神主は常住せず時折奈良からお見えになります。

          

氷柱と蝋梅の世界

2011-02-03 | 撮影を楽しむ
二週続いて撮影会に参加しました。
私の属している『デジカメボランティア会』の全体集会が1ヶ月置きにあり、決定事項や、予定や、毎回テーマを決めて写真に関する講義がなされます。

そして撮りためた写真を発表する楽しみな時間でもあります。テーマに沿った写真と、自由題材の2点を提出して、名前を伏して展示し全員で投票して、得点を競います。数の多さで1位~3位までを決め、ポイントを貯める趣向になっています。
その後 会の役員でもある『日本写真協会会員』 『デジカメボランティア会指導講師』に、一枚一枚全てを丁寧に講評して頂く、実に貴重な時間になっています。

 三十槌の氷柱(ミソツチのツララ)

     

 巨大氷壁 

      

 川面にスケートリンク?



 氷室のような

      

 氷のオブジェ

        


                 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★


  武甲山に連なる山々

  

  蝋梅が咲く

    

  蝋梅の香り       
       

  蝋梅の咲く小道
          
             
横浜からバスで環八→ 関越→ 花園インターから埼玉県に入り、国道140号線を秩父方面に向かい荒川に沿って山奥へと登り続けていると やがて川底に沢山の人達が見えてきました。大きな石ころの河川敷を氷壁に向かって歩くことになるのですが、重いカメラに三脚をもって凍った大石を歩くのはかなり危険でもありました。しかし少しずつ慣れて5~10mの川幅の先の氷壁を撮ろうというのですから、皆んな勇敢だったなぁと感じ入っております。数枚の写真からもご想像いただけたでしょうか。

さて氷のあとはお花撮りです。宝登山はロープウェイを利用して山上は緩やかな斜面に花木が配されていて季節毎の花が咲くのでしょう。
今は梅やマンサクもあり、福寿草も可愛いげに。しかし何と言っても蝋梅はすごい数でした。そして遠くに山々が眺められたことが一番嬉しかった気がしています。
帰り道では渋滞もなく予定より一時間早く帰ることが出来ました。