花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

ローマ世界の終焉 

2007-02-14 | Weblog
            【ローマ人の物語XV】       

 
昨年の今頃 前巻までについて書いていますのでその続きとして書くことに致しました。

塩野七生氏は最後の一年をこの著書に注ぎ込んで、遂に古代ローマの衰亡を完成されました。私の愛してやまない古代ローマはいかにして終わるのか・・・この一年 折にふれて思っていたことでしたが・・・やはり蛮族に依ってだったのです。
それは1200余年の古代ローマ史の中でも、何度も繰り返された綱引きではあったのですが・・・。

皇帝の弱体化は読み進む毎に、胸の潰れる思い 息苦しくなるばかりの連続でした。蛮族は次々と波状攻撃を仕掛けて、5世紀ともなればあの鉄壁のライン河とドナウ河を結んだ防衛線(リメス)を越えて、ゲルマン系の各々の部族毎に略奪を欲しいままにして居座るようになっていたのです。

ローマ帝国の弱体化が何時からか? その兆しは何時の時代にもあったと言えるでしょう。
しかしテオドシウスの死後二人の息子が、帝国を東西に分割して統治するようになったことは非常に大きな要因ではなかったかと思うのです。
皇子が若年であったこと 付き従う軍総司令官を蛮族のスティリコに託さなければならない程の状況にあったことです(傭兵でありながらその功績を前皇帝に認められている者として)。

【皇帝テオドシウス(在位:379~395)・東ローマ帝国皇帝アルカディウス(395~408)・西ローマ帝国皇帝ホノリウス(395~423)】
     


この辺りからリメスを越えたばかりの蛮族をも勢い付かせることになり、ガリアからもヒスパニアからも北アフリカからもと、四方からイタリア・ローマは劫掠されてゆくのです。
塩野氏はこの悲痛な状況を少しも手を緩めずに克明に史実を列挙しながら、無理のない推測を交えて書き進んでゆきました。東西両帝国の内 西ローマ帝国を常に表舞台にしながら東は接点のある時にと言う方法で。

西ローマ帝国の皇帝ホノリウスは在位は長い。しかしローマを持ち堪えるための働きをしたでしょうか 否でしょう。10歳で帝位について38歳の自然死でした(423年)。
西ローマ帝国の滅亡は476年とされています。その53年間に10人の皇帝が帝位に付きますが1年も満たなかった皇帝や、皇宮にさえも入らない皇帝もいたほどでした。
他民族の侵入 蛮族の跋扈 それでも皇帝だけは擁立されていたのです。
しかし蛮族の長オドアケルは最後の皇帝を廃位させます。激しい攻防戦も壮絶な死もなく、誰一人気付かないうちに西ローマ帝国は消え失せたのです。

その頃東ローマ帝国は存続していました。しかし塩野七生氏は言います。
「ローマと言う都市なくしてローマ帝国はありえない。首都がコンスタンティノポリスでは、それはもうローマ帝国ではないのである」 と。

ローマ帝国の東方は、西方から分離して後も一千年以上も続いたと言われています。
そして1453年5月29日 コンスタンティノーブルはオスマントルコの攻撃により陥落。
東ローマ帝国の滅亡。

全15巻を完結した塩野七生氏は
「西ローマ帝国滅亡のあと、キリスト教が支配する中世が千年近く続いたあとにルネサンスがおきた。今ヨーロッパは、自信をなくして不安になっているところが、ローマ帝国の最後あたりと似ている。新たな中世が始まる予感もします」
ひとつの文明の運命をどうよむか。読者の自由にまかせたい、と言う。


 




 

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1 コメント

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Unknown (花水木)
2007-02-18 13:41:11
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