花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

鎌倉 龍口寺とその輪番寺を訪ねる

2008-07-25 | 鎌倉の四季
               【ヒョウタンボク:美味しそうだけど毒をもつ】

輪番寺とは、龍口(タツノクチ)刑場跡に建立された龍口寺(リュウコウジ)には、創建(1337年)以来住職を置かず周辺の8つの寺が守護してきました。その内の4寺を今回拝観いたしました(8寺全て山号は龍口山と号します)。明治19年太政官布達により、輪番制は廃止されました。
鎌倉幕府の龍ノ口刑場は、源義経の首実験が行われ、日蓮も斬首されようとした所でもあります。

【龍口刑場跡の石碑】
          
          
湘南江の島駅から大きく弧を描くように一巡しました。

【常立寺】
龍の口刑場で処刑された人々を埋葬し、塚を作って回向供養した所です。
文永11年(1274)の「文永の役」で蒙古の襲撃を受けながら、暴風で引き下りましたが強力な戦力で、我が国は大きな痛手を受けました。
翌年の建治元年(1275)元の国使・杜世忠等五人が来日し、降伏を要求しましたが八代執権北条時宗の命で斬首されました。霊を弔うための五輪の「元使塚」が造られました。
その6年後(1281)再び蒙古軍は襲来しますが、又も台風に襲われて日本は国難を切り抜けることが出来たのです。

そして現在 横綱をはじめモンゴルの力士達が元使塚に詣でているのです。


【本蓮寺】
推古三年(595)に開かれた片瀬最古の寺です。頼朝により再建されましたが、新田義貞の鎌倉攻めでことごとく類焼しました。
慶長の頃 徳川家康が江ノ島に参詣した折、休憩で立ち寄り「御朱印」を賜りました。寺域も広く風格が感じられるお寺ではありました。

 
《多宝塔:仏塔の様式で二重の塔になっています》
          

 《宗尊親王の碑:鎌倉幕府六代将軍職を罷免されて帰洛の折参籠して読んだ一首》          ”帰りきて また見ん事も 固瀬川 にごれる水の すまぬ世なれば”
               
  
 《源義朝の供養塔》
          

 《源頼朝の駒つなぎの松》
                

【法源寺】
本堂には本尊の曼荼羅と日蓮聖人像が祀られています。


【龍口寺】
日蓮聖人入滅ののち、直弟子日法が一堂を建立し、自作の日蓮像と首の座の敷皮石
を安置したのが寺の始まりと言われています。
文永八年九月十三日、日蓮はここで斬首されようとしましたが、首をはねようとした刃に稲妻があたり、刃は折れてしまったのです。「日蓮を切ってはならない」と言うしるしであるとして一命をとり止め、佐渡へ流される事になったのです。

《土牢:日蓮が幽閉され処刑を待つた》
               

佐渡に流刑されて3年で赦免。身延山を寄進され久遠寺を建立。
1282年病をえて61歳で現・池上本門寺で入滅しました。

直弟子だった日法聖人が1337年「寂光山龍口寺」と称して寺を建立 日蓮宗の本山となりました。
《大本堂》


《山門と彫刻》
素晴らしい彫刻の山門 中国の逸話が彫り込んであります。その中の一枚を載せましょう。
 

  

《佛舎利塔》
本堂背後の山上に重厚で長大な塔



鎌倉 谷戸に涼風をもとめて庭園を訪問

2008-07-13 | 鎌倉の四季
                  【八重ドクダミ : 鎌倉に似合う花】


鎌倉幕府滅亡後、京都に室町幕府を開き1338年再び武家政治を始めた足利尊氏は、子の基氏を鎌倉公方(鎌倉御所)として東国10ヶ国を治めさせました。
以来 基氏を祖とする足利一族が代々鎌倉公方となり、足利成氏が下総古河に逃れて古河公方を名乗るまで、鎌倉は東国の中心として栄えました。
鎌倉公方の下で関東管領を務めたのが上杉氏で、浄妙寺東方の公方屋敷を護衛するべく 宅間ヶ谷、犬懸ヶ谷、扇ヶ谷、山ノ内に居館を構えたといわれています。

今回は足利ゆかりの「竹の寺・報国寺」、「鎌倉五山・浄妙寺」辺りを、又昭和初期建築の「旧華頂宮邸」の洋風庭園を鑑賞しました。その前に谷戸の旧跡も訪れました。

【勝長寿院跡】
源頼朝は鎌倉に三大寺院を建立しました。「鎌倉八幡宮寺」「永福寺跡」とこの「勝長壽院跡」です。1184年父義朝の菩提を弔うために立派な寺院を、荘厳な伽藍が建ち並んだとされていますが、火災後再建されましたが再び消失して廃寺となりました。今は巨大な石碑を見るのみです。



【釈迦堂口切通】
三代執権北条泰時が、父義時の追善供養に釈迦堂を建てたことに因んでいます。
犬懸ヶ谷を進んだ所に巨大な切通はあります。この辺りに館があったらしい・・・
がしかし(?)・・・涼風が心地よく吹いていました。



【報国寺】
竹の寺で知られていますが、足利尊氏の祖父家時の建立と伝えられています。(一方、開基は上杉重兼であるという説もあります)
その家時には有名な言い伝えが残っています。足利家に伝わる八幡太郎義家の「置文」が自分の代で実現出来なかったことを悔い、「我命をつづめて三代の内にて天下をとらしめ給へ」と祈って子孫に「置文」を残して自害しました。三代とは尊氏に当たります。



永享11年(1439)京都の幕府勢との戦いに敗れた鎌倉公方持氏と嫡男義久は自害し、四代九十年にわたり勢威を揮った関東足利終焉の地でもあったのです。

【旧華頂宮邸】
華頂侯爵の邸宅として長谷寺の境内に建てられましたが、関東大震災で津波の被害に遭った為1929年現在の地が選ばれました。敷地はおよそ1400坪 前面は芝を敷き詰めたイギリス中世の様式を取り入れています。所有者は度々変りましたが平成8年鎌倉市が取得しました。



【浄妙寺】
鎌倉五山五位のこの寺は、1188年頼朝の重臣足利義兼の建立。中興の開基は尊氏の父貞氏で多数の塔頭を持つ大寺院でした。
総門の前に下馬塔(五山の印)が大きくあります。
               

参道の両脇にお茶が低く垣根として刈り込まれています。(壽福寺の栄西にまつわるのでしょうか)
寺域の東に鎌倉の地名の由来にもなったと言う「鎌足稲荷神社」があります。今春木更津市鎌足桜保存会から寄贈されたと言う幼木がありましたが、その「鎌足サクラ」は、ソメイヨシノの後に咲き 薄白から濃いピンクになる八重桜なのだそうです。
               
        
少し急な坂を登り詰めたところに、イングリッシュガーデンが広がって洋館があります。お寺との間は沢山の樹木で隔絶されていて見学も終わりましたので、ここでお食事を頂きました。
石窯ガーデンテラス( site:www.ishigama.info ) の石窯で焼くパンは本当に美味しい。

             

カボチャが実った!

2008-07-08 | Weblog
                 【ラントネッティ : みみずくの贈り物】

新聞の「カボチャを植えましょう」を読んで、出来るかもしれない・・と試みる事にしました。花の種は良く蒔くけれど、野菜はパセリをプランターで育てるくらいなので、しっかり読んで始めました。

第一植える場所が無いので、プランターで育てた苗を一本ずつ5つの鉢に植え替えて日当たりの良いところに、そう それは芝生の上がいいかもという事になりました。
毎日の水遣りとタップリの愛を注ぐとグングン伸びて蔓を支え木に誘引すると、間もなく花が咲いたのです。(この辺になると新聞の記事通りではなく自己流で)



最初に雌花が咲いても受粉のお相手がいないのです。2つもそんな事があって漸く雄花が咲いて私の手助けで結実したかな・・と。 まあこんな数週間が過ぎましたが、今では蔓の先っぽで雌花は未熟児らしく小さい内に黄色く枯れてしまっています。もうこれ以上は無理ではないかしら。
しかし5個結実しているのです。記事には1本に2個くらいが適当でしょうとありましたが、まあ全部が成熟してくれれば大成功だと思っているのでありま~す。
 


そうは言っても受粉に何度か失敗しているのです。
来年はもっと倍くらいに実らそうと思っているのですが・・・
さて写真には3個写っているのですが解っかるでしょうか?


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レーシック


fx



古都を彩る色を求めて花遍路

2008-07-04 | 鎌倉の四季
                             【明月院ブルー】

6月の鎌倉を彩る花の代表は紫陽花でしょう。この月最後の締めくくりはこのタイトルとの巡りあわせでした。
雨はやむをえないとはいえ、資料を頂いてカメラを片手では難儀なことです。
道を少し歩けば必ず紫陽花に出会います。その中でも飛び切り有名な所から訪れる事になりました。

【明月院】は、鎌倉幕府5代目執権 北条時頼の別荘・最明寺、息子時宗の禅興寺、上杉憲方の明月庵から明月院へと移った歴史深いお寺です。
北鎌倉一帯 山ノ内は、北条氏本流が領地にしていたため一族に因むお寺が多くあり、建長寺《時頼》 円覚寺《時宗》 東慶寺《時宗の妻・覚山尼》等。
雨に咲く紫陽花・・・花色は赤系は無く、明月院ブルーと呼ばれる憂愁の色と白色が咲き競って溜息が出るほどです。


               

【浄智寺】は、七福神の布袋尊で有名ですが鎌倉五山の第四位の寺格を誇っています。関東大震災で壊滅し七堂伽藍の大寺院の面影はありませんが広大な寺域は高低差や、やぐらのトンネルなど見所が沢山あり立ち去りがたいものがありました。
再建されたばかりの鐘楼門と萩と金糸梅が美しい。

 
          
               
               
【亀ヶ谷切通】鎌倉時代中期 北条一族が山ノ内に住み建長寺・円覚寺・浄智寺をはじめとする禅寺を建立し、この場所から扇ヶ谷を結ぶ道は以前からあったものの、人の往来が激しくなり峠を掘り下げ切通を造る必要性から、北条泰時の時代に開削されました。(国指定史跡)
          
         

【海蔵寺】は、鎌倉幕府滅亡の際消失しましたが、応永元年(1394)二代鎌倉公方足利氏満の命により上杉氏定が再興しました。
ご本尊の薬師如来像を真近に拝すことが出来ます。
 《十六ノ井》境内の岩窟に鎌倉時代の井戸があり、窟底径70㎝・深4~50cmの16の穴に清冽な水をたたえていて・・16とは菩薩の数でそこに捧げる水だとの説明ですが、真っ暗な場所で目を凝らして馴れて来れば見えるらしいのですがフラッシュで撮ると、とんでもない画像でした。こんな湧水があることがとても不思議です。
《山門》

《薬師如来像》

《海蔵寺のヤグラとアジサイ》
          

初めての所も多く雨も上がってとても有意義な、そしてカルチャーショックもありました。