花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

横浜 『アトリエ・ポルト展』

2009-05-30 | 美術館
                              【作者と作品】

風薫る5月今年も「アトリエ・ポルト展」が開かれました。
登山仲間で長らく油彩をされている方ですが、人気の「横浜市民ギャラリー」を使用できておめでとうございます。
複数の展覧会が壁や間仕切りがありながらエレベーターや階段を使いながらも一堂に開催されていることに意義があり壮観でした。

作者小林氏の作品は、色使いや筆使いが多彩で華やぎがあるところが、私の何よりも魅了される処です。お人柄も大らかで絵に反映されているのだと思います。

今回も『魔女』が登場でした。
小林氏曰く『この魔女は何方にも幸せを分けてくれる優しい魔女ん婆です。見てくださった人達が幸せになれるように、幸せな人はより幸せになれるように そんな願いを込めて描きました』

【魔女ん婆a 30号】
     

   【魔女ん婆b 30号】
            
          
          
    

日光 鳴虫山 へ

2009-05-23 | 登山
                         【鳴虫山の落葉松と躑躅】

浅草を7:10發の快速電車は、2時間少々で東武日光駅に到着です。そして日光 鳴虫山の登山口まで徒歩で行ける程の街並に、山が迫り来ている自然を感じ、しかも世界遺産のある文化都市・観光都市でもあります。

今回目的地の標高が1103m 日光駅が海抜600m。この高低差700mを歩くのです。
山に雲が掛かると雨が降ると言い伝えられて山名にもなっているとか・・今日は快晴の予報。山中は緑滴る涼やかな風を受けながら尾根道を辿りました。

片側は杉や檜の針葉樹林帯 反対側は広葉樹林帯と2分されています。今までもこうした植栽を多く見て来た事に気付くのでした。


登るほどに左右から大木の根が地表に現れ出て大蛇のよう。先月の登山で膝関節症になってしまって、この急登は辛く不安がよぎります。
木の間隠れに日光の市街地が見えています。その上方に女鋒山や男体山の稜線が連なっていました。

     【大谷川(ダイヤガワ)が中央を貫いています】
     

ダイヤガワとは宝石を連想してしまいます・・・
喘ぎながらも一歩一歩前進していれば、頂上に立つことが出来ました。

【鳴虫山々頂の集合写真 T・M氏撮影】


山頂の展望台は広くてお弁当の椅子に最適でした。
ここから下山になりますが、急坂を下りつつもアップダウンが用意されていて、登りに引けをとらず細心の注意が必要でした。
期待していたヤシオツツジは遅かったようですが、途中で一箇所だけ咲いていて トップページの落葉松林に花を添えていました!

やがて期待していた『含満ヶ淵』に到着です。山中から見た水涸れの大谷川の上流は水しぶきを上げる激流だったのです。

【大谷川の上流 その一】



【大谷川の上流 その二】


川沿いを下っていると、地蔵が沢山並んでいます。道を挟んで左右に、片側だけに、お雛様の壇飾りのような所も・・一体何基あるのでしょう? 『並び地蔵』『化け地蔵』とも呼ばれ、何度数えても数が違うらしいのです。

【並び地蔵(化け地蔵)】


尚も行くとお寺の境内を進んでいました。山中の花は終わっていましたがここに来て楽しむことが出来ました。

【白躑躅を愛でる一行】


【赤躑躅も山際に】


一旦は取りやめにした温泉に「まだ陽も高いし」とタクシー3台で行くことになりました。途中『田母沢御用邸』を過ぎ『東大理学部植物園』を左に見て、川越えの山裾に大きくて立派な『やしおの湯』があり、至福の時を過ごすことが出来ました。
ここを始発にバスが日光駅まで往復していて、乗り込んできた高校生の日光訛りが楽しかったです。


鎌倉史跡めぐり 『深沢から常盤山尾根を行く』

2009-05-13 | 鎌倉の四季
                              【薔薇の季節】

新緑の季節に相応しく 深沢の名刹からアップダウンの続く常盤山の尾根を辿って、最後に 世界遺産登録候補の北条常盤邸跡までの2万歩のハイキングを楽しみました。

【飯盛山仁王院青蓮寺(はんじょうざんにおういんしょうれんじ)】
       

弘仁十年(819)の開山であり 本尊の弘法大師は鎌倉の地(青蓮寺の裏山)で護摩の秘法を修行していた時、美しい天女が現れて修法を終えた大師に一粒の仏舎利を託して姿を消します。翌朝目を覚ますと池に「青色の美しい蓮華」が咲いていたと言う。寺号はこの古事に因んでいます。
寺域も広く本堂では、住職のご法話や秘像の数々を拝観させていただきました。

【三嶋神社】【吽形の狛犬】
笛田の鎮守。杜の側に湧く泉が田を潤したことから村人の信仰を集めたといわれています。
            

【笛田山佛行寺】
     

鎌倉時代の武将「梶原源太景季」の片腕が埋められていると言う「源太塚」は笛田山の山頂にありました。
梶原景季は、木曾義仲追討で数々の武功をたてますが、頼朝の死後鎌倉を追われ
父景時と共に駿河で討ち死にをします。その死を悲しんで妻の信夫(しのぶ)は自害し、その霊は夜毎夫を偲び泣き続けたと言います。村人はその霊を慰めようとこの地に佛行寺を建立しました。源太塚からは躑躅咲く美しい庭園が見下ろされます。

【笛田公園 野球場】
昼食の場所は広大な笛田公園 野球場の屋根つきスタンドを拝借しました。起伏の或る土地を上手く利用して・・遠く海が見えています。
 


【常盤山の尾根を行く】
     

【北条氏常盤邸跡】

現在 鎌倉の七切通の一つで大仏切通北西の一帯を「常盤」と呼び、水田や畑が占めていますが、鎌倉時代には北条一族が屋敷を構えていました。
笛田から山中の尾根道を辿る事で「北条氏常盤邸跡」に到着する事が出来ます。現在は草で覆い尽くされていますが「御所ノ内」の地名が残されており、西方には「殿入」と言う地名も小字として残っています。
昭和52年の発掘調査により、人工的に造成されたと思われる平坦地に区切られていて、タチンダイ(舘の台)と呼ばれる場所には、門柱の跡や、やぐら、法華堂跡が確認されてその存在が証明されました。

 

【タチンダイの奥にある やぐら】


     

        

阿修羅 展

2009-05-03 | 美術館
                         【国宝阿修羅展 入場券】

興福寺は平城京遷都にともなって、和銅3年(710)藤原氏の氏寺として建立されました。光明皇后は天平6年(734)母橘三千代の供養のため西金堂を建てます。お堂の本尊をを取り囲んだのが、阿修羅など八部衆像と十大弟子像でした。

【八部衆立像】


凛々しい甲冑に身を包んだ八部衆の中、阿修羅のみ薄衣を纏い合掌し、正面を凝視する真摯な表情で三面六臂の異形相が、拝観する者に様々な思いを抱かせて日毎の押し寄せる波となって現れているのでしょう。

【阿修羅立像】
          

左頬からでは面長で一層の憂いを感じます。奈良時代にこのファッションとは なんと素晴らしい! 首飾り・腕飾り・薄絹にドレープの程よさ、金色の縁飾り・華奢な姿態etc・・・
これだけでは物足りなくて、文学者の表現を拝借してみましょう。

★賢く、而して情熱烈しき王よ。その最も美しき顔には、然し悩みと悲哀を浮かべて居ります。(中略)その眉間は美しく而も邪な企みを隠し、その眼は美しく、而も深い詭計を潜ませ、その唇は柔軟に、而も陰鬱なる欲望を湛えております。(木下杢太郎 医学者 詩人 評論家 「故国」)

★なんというういういしい、しかも切ない目ざしだろう。こういう目ざしをして、
なにをみつめよとわれわれに示しているのだろう。それが何かわれわれ人間の奥ふかくあるもので、その一心な目ざしに自分を集中させていると、自分のうちにおのずから故しれぬ郷愁のようなものが生まれてくる(後略) (堀辰雄 「大和路・信濃路」)

★うなじ清き少女ときたり仰ぐなり阿修羅の像の若きまなざし(岡野弘彦 歌人)

十大弟子立像はその内の六体が残るのみとなっています。いずれも遠山袈裟と裙をまとう剃髪僧形の像で、八部衆と同じく細身の体に頭部を小さく表す長身型のお姿です。
天平9年 疫病が猛威をふるい、光明皇后を支えた四人の異母兄弟がそろって死亡します。聖武天皇との間に生まれた阿倍内親王(のちの孝謙)を立太子させた頃から、光明皇后は興福寺への積極的な関与をやめ、天皇家を中心とする国家体制のいっそうの護持をはかるため、国分寺や東大寺の造営を推進し始めたのです。

地図を眺めると興福寺の東北に隣接して東大寺が聳えている事が解かります。
東大寺は何度か拝観していますが、興福寺はいまだ・・猿沢の池より仰ぎ見てスケッチをしたことがあり、南圓堂を描きながら阿修羅の話をしたことが思い出されます。充分な時間が無く漸く晩年になって しかも50何年ぶりかの東京で初対面が叶いました。
ガラスの障壁もなく前後左右遅々と進まないのも幸いで、隈なく拝顔出来て幸せの極みでした。

【興福寺】


   《青丹よし 奈良の都は咲く花の 薫うがごとく今盛りなり》