花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

田浦梅林 へ

2007-02-22 | 里山 森林行
                        【登り口から仰ぎ見た風景】

三浦半島に梅林があることは以前から聞いていたのですが、良いお天気に誘われて
「そうだ 梅を見に行こう」と・・・。

昭和9年皇太子様のお誕生を記念して、地元の人が植え始めたそうです。
地図では田浦緑地となっていて、平地を想像したのですが急勾配の山でした!
上り詰めれば、なだらかな石畳の道と起伏のある広場や 芝生のある梅林には大勢の人々が集っていました。

【観梅のかたち その1】


【観梅のかたち その2】


【観梅のかたち その3】


白梅は散りかけていましたが、紅梅は八分咲き位でしたでしょうか。
【白梅】
     

【紅梅】
     

遠く海の向こうには千葉が横たわり、東京は霞んでいましたが 横浜MM21や八景島は重なるように近くに見えました。

途中でこの日にピッタリのお菓子を買いました。白いお餅の上に塩漬けの大きな梅の花が飾られている梅大福 美味しかった~。




ローマ世界の終焉 

2007-02-14 | Weblog
            【ローマ人の物語XV】       

 
昨年の今頃 前巻までについて書いていますのでその続きとして書くことに致しました。

塩野七生氏は最後の一年をこの著書に注ぎ込んで、遂に古代ローマの衰亡を完成されました。私の愛してやまない古代ローマはいかにして終わるのか・・・この一年 折にふれて思っていたことでしたが・・・やはり蛮族に依ってだったのです。
それは1200余年の古代ローマ史の中でも、何度も繰り返された綱引きではあったのですが・・・。

皇帝の弱体化は読み進む毎に、胸の潰れる思い 息苦しくなるばかりの連続でした。蛮族は次々と波状攻撃を仕掛けて、5世紀ともなればあの鉄壁のライン河とドナウ河を結んだ防衛線(リメス)を越えて、ゲルマン系の各々の部族毎に略奪を欲しいままにして居座るようになっていたのです。

ローマ帝国の弱体化が何時からか? その兆しは何時の時代にもあったと言えるでしょう。
しかしテオドシウスの死後二人の息子が、帝国を東西に分割して統治するようになったことは非常に大きな要因ではなかったかと思うのです。
皇子が若年であったこと 付き従う軍総司令官を蛮族のスティリコに託さなければならない程の状況にあったことです(傭兵でありながらその功績を前皇帝に認められている者として)。

【皇帝テオドシウス(在位:379~395)・東ローマ帝国皇帝アルカディウス(395~408)・西ローマ帝国皇帝ホノリウス(395~423)】
     


この辺りからリメスを越えたばかりの蛮族をも勢い付かせることになり、ガリアからもヒスパニアからも北アフリカからもと、四方からイタリア・ローマは劫掠されてゆくのです。
塩野氏はこの悲痛な状況を少しも手を緩めずに克明に史実を列挙しながら、無理のない推測を交えて書き進んでゆきました。東西両帝国の内 西ローマ帝国を常に表舞台にしながら東は接点のある時にと言う方法で。

西ローマ帝国の皇帝ホノリウスは在位は長い。しかしローマを持ち堪えるための働きをしたでしょうか 否でしょう。10歳で帝位について38歳の自然死でした(423年)。
西ローマ帝国の滅亡は476年とされています。その53年間に10人の皇帝が帝位に付きますが1年も満たなかった皇帝や、皇宮にさえも入らない皇帝もいたほどでした。
他民族の侵入 蛮族の跋扈 それでも皇帝だけは擁立されていたのです。
しかし蛮族の長オドアケルは最後の皇帝を廃位させます。激しい攻防戦も壮絶な死もなく、誰一人気付かないうちに西ローマ帝国は消え失せたのです。

その頃東ローマ帝国は存続していました。しかし塩野七生氏は言います。
「ローマと言う都市なくしてローマ帝国はありえない。首都がコンスタンティノポリスでは、それはもうローマ帝国ではないのである」 と。

ローマ帝国の東方は、西方から分離して後も一千年以上も続いたと言われています。
そして1453年5月29日 コンスタンティノーブルはオスマントルコの攻撃により陥落。
東ローマ帝国の滅亡。

全15巻を完結した塩野七生氏は
「西ローマ帝国滅亡のあと、キリスト教が支配する中世が千年近く続いたあとにルネサンスがおきた。今ヨーロッパは、自信をなくして不安になっているところが、ローマ帝国の最後あたりと似ている。新たな中世が始まる予感もします」
ひとつの文明の運命をどうよむか。読者の自由にまかせたい、と言う。


 




 

梅原龍三郎 展へ

2007-02-07 | 美術館

横浜高島屋から梅原龍三郎展の入場券が送られて来ましたので、華やかな色遣いと豪快なタッチの絵を思い浮かべ乍「高峰秀子」が見られるかも・・・と期待して出かけて見ました。

初期から晩年までの80点は97年の生涯においては、少ない数かもしれませんが大小に拘わらず圧倒され続けて、滅多に椅子など座らないのですが二度も休んだほどでした。

1888年京都に生まれた龍三郎は絵を志して浅井忠の教えを受けた後、1908年フランスに渡り ルクサンブール美術館で見たルノワールの絵に驚嘆して「これこそ私の求めたものだ」と思い定めて教えを乞うたのです。
「デッサンは練習すれば上手くなるが色の使い方は天性のもの あなたは見込みがある」と言われたという。

20歳からの5年間を学んで帰国します。描きためた100点を超す作品を展示し、その翌年二科会を創立し日本の近代洋画を代表する画家として・・春陽会、国画会を中心として活躍することになったのです。

★ 戦前 戦中に鹿児島や伊豆に旅して描いています。

【紅良像:長女アカラ1932年】
     

【桜島:高島屋史料館蔵1935年】
     

【富士山図:三津浜からの富士山・・入場券の絵1945年】


★ 戦後には何度も渡欧して文化交流に貢献しています。
  又中国にも毎年数ヶ月滞在して多くの絵を描きました。

【カンヌ港:1920年】
     

【満歴蹲に薔薇:1943年】
     
     
薔薇は梅原龍三郎にとって、生涯のモチーフであり恩師の象徴でもありました。

高峰秀子像は出展されていませんでしたが、世田谷美術館に寄贈されたそうですから何時か出会える時も在るでしょう。

鎌倉 大仏ハイキングコース

2007-02-01 | 鎌倉の四季
     
    【かまくらや みほとけなれど釈迦牟尼は 美男におはす夏木立かな 与謝野晶子】

    【火に焼けず 雨にも朽ちぬ鎌倉の はだか仏は常仏かも 正岡子規】


鎌倉行きが続いたのですが大好きな所とて、二つ返事で山歩きと観光の両方を楽しんで来る事が出来ました。
北鎌倉駅から南下して浄智寺を右手に入ると、少し登っただけで鎌倉街道のさざめきから隔絶された深山の趣が漂います。
山頂の源氏山公園は広々とした憩いの場所として、多くの人々が集い 春ともなればフォークダンスや桜の下でお弁当を広げる格好の場所になっています。

私は大仏ハイキングコースは初めてだったのですが、一時間の下りコースは急坂でしたがとても楽しく又歩きたい所になりました。日差しが降り注ぎ春の花が早くも咲いていました。

【 大仏コース その1 】   
     

【 大仏コース その2 】
     

【 野芥子 】
     

【 菜の花 】
     

高徳院の本尊である大仏は、鎌倉幕府第三代執権 北条泰時の時代に造営を始めて
1243年に大仏開眼が行われました。
この時の大仏は木造だったのですが、暴風雨で倒壊したため1252年改めて青銅で鋳造を始めましたが、再び台風で倒壊。大仏への思いは深く再度落慶を迎えますが、1495年又も大仏殿が大津波で押し流されて、その後は露座のまま現在に至っているのです。

800年を経て尚人々を魅了して止まないのは何でしょうか。
この大きさ 露座であること 胎内に入って阿弥陀如来に抱かれる恍惚感もあるのでしょうか・・・鎌倉では唯一の国宝であり、拝観者も国際色に溢れていました。広々とした境内 配置の良い樹木 塵一つない清浄さ 付属建物の美しさ。
大仏のお顔の美しさ・・与謝野晶子ならずとも見上げているとその深い眼差しに涙がでてきそうになったほどです。

高徳院を出ると左右の歩道は溢れるばかりの人の波でした。海に向かって行くうちに右手に光則寺があります。私の好きな花の寺 チョト早いかも知れないけれど行って見ることになりました。流石何かは咲いていました!

【 椿3題 】
     
     
     

光則寺の隣に長谷寺があります。
こちらは広大な敷地が石段を使って立体的で、海への眺望は遠く伊豆半島まであり、山頂からは先程のハイキングコースへも繋がっているらしく何時か歩くつもりでいます。

長谷寺のご本尊は十一面観世音菩薩です。
開創は聖武天皇の御代といわれ鎌倉でも有数の古刹です。
この本尊は一本の楠木の霊木から二体の観音像が彫られ、その一体は大和の長谷寺に安置・本尊とされ、他の一体が鎌倉・長谷寺の礎になりました。

花の寺ながら、春まだきの感じで小さいものばかりですが 少々・・・

【長谷観音 山門】
     

【水仙】【木瓜】【福寿草】