花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

お花見スポットを選ぶ基準は??

2008-03-23 | TBの練習
                   【わが街にて】

今の季節にピッタリのgooからのお題ですね。
「全国お花見スポット 人気アクセスランキング」では ①千鳥ヶ淵緑道 ②新宿御苑 ③造幣局の桜の通り抜け ④芝公園 ⑤靖国神社・・・⑧吉野山

ランキングを見てヤッパリそうなのねぇ~と。
私も①~⑤までは行っているし、⑧はもう少し上位でもいいのでは? と思ったところです。
『基準』を問はれれば多くの人の評価を参考にする・・・でしょうか。
花見山公園は何時か行きたいところ。たくさんの賛美と写真が決め手です。
今年はポトマック河畔の桜を見たいと思っています。外国で咲く日本ゆかりの花だから。

鎌倉の修験者道を歩く

2008-03-16 | 鎌倉の四季
                        【岩瀬与一太郎屋敷跡と梅】

修験者(山伏)たちが通ったと言われている道を辿ると共に、周辺の様子を見聞させて戴き春らしい陽気の一日を満喫する事が出来ました。

※修験者:修験道の修行者。多く被髪で兜巾(ときん)を戴き、篠懸(すずかけ)および結袈裟(ゆいげさ)を着け、笈(おい)を負い、金剛杖をつき、法螺(ほら)を鳴らし、山野をめぐり歩いて修行する。もとは太刀を佩(お)びた。山伏。験者(けんざ)。(『広辞苑』より)
          

JR大船駅からバスで今泉バス停まで。そこで今泉不動(称名寺)へ。このお寺には
昨年の5月に参拝しましたので今回は割愛しますが、美しいたたずまいはそのままでした。この裏山沿いを少し戻った所から イヨイヨ【山伏の道】に入って行きます。

現在は「荒井沢市民の森」の標識が立てられています。鎌倉市と横浜市の境に位置するこの森は急峻な丘陵と谷戸が組み合わされたダイナミックな地形が特徴です。
丘陵には雑木林が、谷戸には豊かな緑が水を育み多くの生き物が生息しています。
現在は渇水期でした。


丘陵に出ると「山伏の道」から現実に引き戻されてしまいます。

正面の高い所が鎌倉アルプスです。背面の方向はMM21が見えるそうですが(霞か雲かで・・)。

尚も進むと岩瀬地区に入りますが、鎌倉時代の御家人岩瀬与一太郎の屋敷跡【表紙の梅】に行き当たります。北に山を背負い中央に水田が広がる豊かな農村で、大船千石と呼ばれた地域でした。今も岩瀬氏・吉原氏・栗田氏・脇田氏・磯崎氏等の豪農旧家が残っています。

【その一軒の 栗田家】
はじめは藁葺き屋根だったそうですが三階建てで蚕室もありました。現在一帯は現代風の家が並んでいますが殆ど栗田姓らしいのです。
     

最後に【大長寺】を訪ねました。
1548年玉縄城主3代 北条綱成が治国安民を祈願して建立しました。1516年北条早雲に依る三浦氏滅亡から34年を経ていました。
豊臣秀吉の小田原城攻めの際、徳川家康の内命(住職により)で北条は降伏させられました。
こうして大長寺は北条氏、徳川氏より崇められた格式高いお寺でありました。


【冠木門(カブキモン)】屋根のない簡潔で格式を備えています。武家に多く用いられました。
     

冠木門を入ると正面に幅の広い石段がありますが、家康が輿に乗ったまま上がる事が出来るようになっていたと言います。

※北条早雲に依る三浦一族滅亡については 『 2008-01-26  油壺 「新井城址」史跡めぐり 』 に詳しく記しています。

     

節分草 福壽草を訪ねて

2008-03-10 | 登山
                             【可憐な節分草】

我登山クラブの会長さんからのお誘いに、胸ときめかして3時間の列車を乗り継ぎまだ見ぬ節分草を訪ねる事が出来ました。
会長曰く「節分草はキンポウゲ科の多年草で石灰岩地を好むなど、環境はかなり限られるようです。5~6センチの短い茎の先に小さな白い花をたった一つ咲かせます。見栄えする花ではないのですが、他の植物に先駆けて未だ寒い晩冬に咲く痛々しい程可憐な花です」と。

会長さんと 一人の会員さんの乗用車に分乗して7名の旅になりました。
西武秩父駅からスタートです。 小鹿野町を抜け 両神地区堂上に節分草の自生地はありました。なんという車・車 人・人の波でしょう・・・第1 第2の駐車場をまだ先へ行くと狭い場所へ案内されてヤット・・・セツブンソウに逢うまで至難の業を潜らなければなりませんでした。 

「節分草祭り」の垂れ幕でこの日がピークだったようです。甘酒を頂いて入場料(300円)を払うと・・おお! 広葉樹林の広がる落ち葉の中から 無数の白い花を見渡す事が出来ました。ああ~しかし金網にしっかりガードされていて撮影の接写が難しい・・・
【そんな中で大写しの一枚を】


暫く節分草と戯れましたが、次に福壽草の咲く四阿屋山(あずまやさん)に向かいました。クルマで少し戻って高度の増す道に入ると 人はかなり減っていました。
此処からは何時もの登山スタイルです。手入れのされた杉林の優しい道をかなり進み行くと小さな神社に出会います。
【両神神社奥社】
     

この神社を過ぎると やがて切り立った岩に大きな鎖がいく曲がりにも垂れて ゆく手を阻んでいます。その上 登り下りの交差もあり、登り優先と言いつつもそうとばかりも言えず、その上落ち葉で隠れた道は凍っていて滑るのです。それでも何時かは頂上に・・・開けた彼方に「両神山」が その右側に「二子山」が。
【両神山の遠望】


頂上は狭くすこし下がった所で、楽しいお弁当タイムでした。
苦難の岩場下りを終えて道を替えれば公園風の花園が待っていました。
トサミズキや香りの良い蝋梅 福壽草の花期でもありました。始めてみる「秩父紅」と言う福寿草にもビックリでした。又紅梅が沿道を長く飾ってその下を歩いたのでした。
     【福寿草】
     

          【秩父紅】
          

              【もう一つの節分草】
              

武甲山は秩父のシンボルであり節分草の温床で、以前始めて見た時にはピラミッドを連想しました。西武秩父駅でレッドアロー号に乗り込んで左手に武甲山を見つつ、発車間もなく右手に武甲山を見ることになってちょっと混乱してしまいました。
   【武甲山】
         

鎌倉史跡めぐり 『梅の香に誘われて』

2008-03-05 | 鎌倉の四季
                           【宝戒寺 紅白梅】

梅は古代中国より渡来し、万葉時代の貴族たちの風雅の心を培いました。
天平二年(730)正月十三日 大宰府帥大伴旅人宅にて梅見の宴が催されたといわれています。
平安時代になると、人々は色よりも香りに心を込めるようになりました。
鎌倉幕府三代将軍源実朝は、梅をこよなく愛し京都天満宮から香りの良い梅を取り寄せたとあります。
早春の陽光の中を 清楚で気高い梅の香を訪ねて鎌倉散策をいたしました。

【宝戒寺 北条の紋所:ミツウロコ】
若宮大路を東方に行く場合、このお寺には先ず立ち寄ってからが常道になっているようです。四季の花が何かしら咲いているのです。
参道の大きな八角形の敷石を10mくらい歩いてミツウロコのある門扉を入ると、こんなにも梅があったの! と言うくらい沢山の梅に出会います。
本堂に上がって仏像に手を合わせてから、右奥の太子堂や歓喜堂の周りにも梅・梅が・・見出しの紅白梅が一番目を惹きました。他には「思いのまま」と言う一本に紅白の花が咲いているものも見事でした。


【荏柄天神社】
大宰府・北野天満宮と共に日本三大天神の一つです。祭神は菅原道真。創建は1104年です。
源頼朝が幕府創設に際し鬼門鎮護として崇敬しました。
門から向かって正殿 奥に本殿があります。



境内には鎌倉に暮らした漫画家 清水崑が愛用した絵筆を納めるために建設した石碑「カッパ筆塚」があります。
又門柱の傍らでは絵筆を振るっている沢山の方達をお見受けしました。

【瑞泉寺】


ここも「花の寺」として著名です。
早春の梅に始まり、しだれ桜 芙蓉 桔梗 紅葉 水仙と。
         
          【紅梅】と【万作】
          
               

【浄妙寺】
鎌倉五山の第五位に列します。四位までは西方にあり北条の系列に入りますが、東方のこの寺は開基が足利義兼。中興の開基は足利貞氏(法名:浄妙院殿 尊氏の父)。
北条と足利は長らく姻戚関係にあった事が関係しているのか・・解説者の弁。
足利家の菩提寺であり、貞氏の墓と伝えられている宝篋印塔があります。
この辺り一帯の地名は浄明寺(寺に敬意を表して妙を明としている)と言い、室町時代初期までは七堂伽藍と二十三の塔頭を持つ大寺院でしたが消失してしまいました。


境内には枯山水の茶室「喜泉庵」があり、裏手には墓地が広がり、坂を登ると石釜でのパンの製造や洋風建築のレストランもあって、しかし起伏を利用して隔絶されていて違和感も無くなかなかの寺院経営だとお見受けしました。

          【梅一輪】
          

【鎌足稲荷神社】
浄妙寺山門東奥に「鎌倉」の地名の由来の一つになっている場所がありました。
『由緒』
大職冠藤原鎌足公は乳児の時、稲荷大神さまから鎌を授けられ 以来お守りとして身に付け大神さまのご加護を得られました。
大化元年(645)中大兄皇子らと協力 蘇我入鹿を討って大願を成就されました。
翌大化2年東国に向かわれ、相模国由井の里に宿泊されました。
その夜 「あなたに鎌を授けて守護してきたが、今や入鹿討伐という宿願を成し遂げたから、授けた鎌を我地に奉納しなさい」 との神告があり、お告げのままに鎌を埋納し祠を営んでお祀りしたのが当神社の始まりです。