花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

富士見高原の櫻

2010-04-25 | 撮影を楽しむ
 【櫻花爛漫】



長野県「富士見高原」では今正に櫻花の季節を迎えていました。
「高森観音堂の枝垂桜」は樹齢250年と推定されるエドヒガンの枝垂れる品種で、太い枝が横に広がり、そこから細い枝が長く垂れ下がる特徴があり、天然記念物に指定されています。

【地蔵に枝垂れる】

       

【九輪塔の春】

                  

       樹高10m、目通り幹囲3.8mの枝垂れは地に着かんばかりです。
       シダレザクラにはイトザクラと言う別名があり、九輪塔を包むように          延びています。

 【野の花】
     《ムスカリ》
     
                  《三つ葉躑躅》
                  
                           《     》 
                            

富士見高原は八ヶ岳南西の裾野一帯に位置し、4月下旬の櫻の季節に合わせての撮影会に参加して来ました。生憎雨の予報でしたが、時々小雨状態でシアワセマシタ。
高森観音堂の櫻→乙事の櫻→田端の櫻と野の花を愛でながら歩く内に、雪を抱いたアルプスを背景の一枚も撮りたい所でしたが・・・。
雲間から八ヶ岳の稜線が見えてきたのです!  

【八ヶ岳の稜線現る】
 
     

新緑の鎌倉山を行く

2010-04-17 | 鎌倉の四季
 【ハナダイコン】

   

鎌倉幕府創生の宿老である梶原景時の祖先伝来の名字の地を訪ねて、梶原氏の面影を偲び新緑の鎌倉山の散策を楽しんで参りました。

鎌倉市の西方にある鎌倉山は大船駅からモノレールで2ツ目の湘南町屋駅に降りると「洲崎古戦場跡」の碑があります。洲崎とは現在の寺分・梶原・山崎・上町屋地域の古称で元弘三年(1333年)鎌倉幕府滅亡の際、新田義貞軍と北条軍の激戦の古戦場として語り継がれている所です。

【泣塔】

洲崎合戦で戦死者を慰めるために建てられたと言う供養塔があり、あたり一帯は「陣出」と呼ばれ戦いの陣がしかれていたと言われています。
囲いのある丘には宝篋印塔と、やぐらの中に数基の五輪塔があって古くから泣塔と呼ばれています。

             

 【弥勒院等覚寺】
     

境内には五輪塔、宝篋印塔などの石塔群が並んでいますが、これも洲崎合戦に於ける供養塔と言われ、梶原景時に因んだ土地とも言われています。

 【梶原父子の墓】

             

梶原の地名は鎌倉時代の武将梶原景時・影季の先祖である鎌倉権太夫影通がこの地に住み姓を名乗ったと言われています。然し頼朝の死後鎌倉を追われ、京都に向かう途中駿河の清見関で一族は滅亡します(1200年)。ここ鎌倉に墓とは考え難い事ですが、霊を慰めるための供養塔であったろうと思われます。  
 
 【笛田山仏行寺】

本堂裏山々頂に「源太塚」と呼ばれる円墳状の塚があり、父と共に駿河で討ち死にした梶原源太影季の片腕が埋められていると言います。その死を悲しんだ妻の信夫(しのぶ)はこのあたりで自害します。その後この山からは夫を慕う悲しみの声が夜毎聞こえてくるため、村人はその霊を慰めるために仏行寺を建てたと伝わっています。

     

 【夫婦池公園】

     

江戸時代になって灌漑用水として現在の下池が造られ、その後中央堤が造られて上下一対の池が造られ夫婦池と呼ばれています。この中央堤を渡ったその奥に風致公園があって、段差がありパーゴラのある椅子でお弁当を頂きました。

大きな鯉が何匹も泳いでいて、「あっ カワセミ!」の声でカメラを構えたのですが、望遠レンズでない悲しさ・・でも初めて捕らえたカワセミ。
                     

万葉集にも出てくるほど「鎌倉山」と言う呼び名は古くから使われていますが、その頃は特定の山と言うよりも鎌倉にある山々の総称としたものだったようです・・・現在では笛田の南から腰越・津の北にかけての丘陵地帯を指しています。
そして日本で初めての丘陵式住宅地として造成され昭和3年に分譲が開始されました。
通りを覆うほどの桜の大木が見事でしたし、トップのハナダイコンがいたるところで春を告げていました。何本もの路が鎌倉山を迷うほどに縫っていますが、終着地は江ノ電の極楽寺駅でした。

横浜赤レンガ倉庫から横浜公園 へ

2010-04-12 | 撮影を楽しむ
 【花の競演】



此の頃寒暖が交互に訪れて、今日は陽射しに恵まれ軽装で出かけることしました。
関内馬車道から真っ直ぐ海に向って歩いて行くと右手に赤レンガ倉庫が見えてきます。そこの『フラワーガーデン2010』で写真をを撮りたいと思っていたのです。使い馴れていたコンパクトデジカメが不具合になり、幾日か検討して選んだPanasonic DMC-TZ10 を使いこなしたい思いがあり、又今日の本命は別にあって一眼レフは重いし手軽にしたかったこともありました。結局折角のフラワー展は思いどうりには行きませんでした。

 【花のオブジェ その一】

 

  【花のオブジェ その二】

  

大勢の人出だったこともあって、移動することにしました。
日本大通りを通って横浜公園に向かうことにしました。色とりどりの花が咲き誇っている筈と・・予想どうり毎年の見慣れた花がそこにはありました。ここでも沢山の人がカメラを向けて楽しそう!

【横浜公園】

 《チューリップ その一》

  

      《チューリップ その二》

          

            《チューリップ その三》

                    

 《横浜公園からの樹木》

 

 《大島ざくら》



 《横浜スタジアム》

          

 横浜公園の一画を横浜スタジアムは占めていて、今日はデイゲームが行われると言う事で まだ2時間もあるというのに続々と詰め掛けています。今年は少し期待したいので、「今 日も勝ちますように!」と少し仰ぎ見ていました。 

                      

  

桜花爛漫の小田原で『北条氏』を偲ぶ

2010-04-02 | 鎌倉の四季
【小田原城】

     

戦国時代に難攻不落の玉縄城(鎌倉)を築いた小田原北条氏ゆかりの地を訪れました。
15世紀初め大森氏により小田原城が築かれますが、それは八幡山古郭と呼ばれる丘陵地でした。明応四年に北条早雲はこれを攻略し大森藤頼を追放します。北条氏の居城になってからは関東制覇の拠点として暫次拡張され拡大されました。
そして天正十八年豊臣秀吉の来攻の備えでは、総構えが全周9kmもの日本最大の中世城郭となっていました。

永禄四年(1561):長尾景虎(上杉謙信)来攻。 
永禄十二年(1569):武田信玄来攻。  
天正十八(1590):豊臣秀吉に敗れ、徳川家康の家臣が代々城主となる。
寛永十年(1633):大地震で被害甚大。近世城郭再興に着手。
明治三年(1870):廃城。
昭和三十五年  :天守閣復興。

【小田原城総構範囲の遺構図】

    

【小田原城址公園】

      

【早雲寺】

      

 宗派《臨済宗(大徳寺派)》 
 開山《以天宗清(大徳寺八十三世)》
 開基《北条氏綱》
 創建《大永元年(1521)、寛永四年(1627)再建》

戦国時代の武将である早雲の遺命で建立されました。小田原北条氏の菩提寺として栄え、塔頭が数多く建てられ関東屈指の禅刹へと発展しました。
天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に本陣として利用されましたが、石垣山に本陣を移すとき、火を放たれ多くの文化財と共に伽藍は灰燼に帰しました。寛永四年(1627)に再建され現在に至っています。
本堂に上げていただき住職のお話や「竜・虎」の襖絵を拝観し、室内からの「枯山水の石庭」は見上げる仕様が一段と際立っています。
境内には北条五代の墓や連歌師の墓、一般の多くの墓もあります。
又梵鐘は秀吉が石垣山の一夜城で使われたとされるものが残されています。

【墓】

 
                    

次は小田原城に向かうべく、早雲寺の裏山を下りましたが楽しいハイキングコースでした。
眼下に「早川」の流れがあり、箱根のもう一本の川「須雲川」から『早雲』の名前はきていると知り、又税も緩やかなものであり領民に慕われていたと言います。
早雲が三浦義同(同寸)を破り鎌倉入りをした時読んだ歌。

「枯るる樹に また花の木を 植ゑそへて もとの都に なしてこそみめ」

【早川】
      

【北条氏五代】

★初代早雲 備中荏原庄(岡山県井原市)を知行していた伊勢氏の出身。伊勢新九郎盛時と名乗り幕府に出仕していました。長亨元年(1487)以降は駿河の大名今川氏に仕え、明応2年(1493)には将軍足利義政の甥を御所から追い伊豆へ進出します。伊豆一国を治める戦国大名になった早雲は15世紀末小田原へ進出し相模一国を平定します。

★二代氏綱 早雲の小田原進出後伊豆韮山城に止まった早雲に代わり、小田原城に入り早雲没後本城を小田原城に移し伊勢から北条へと改姓します。
虎朱印状の創出など、北条氏の基礎を整備した人物です。また領国を武蔵、駿河、下総にまで拡大し東国の盟主としての地位を確立しました。

★三代氏康 氏綱の死後家督を継承し、大規模な検地、税制改正を実施し 更に家臣の軍役負担を把握するなど、領国支配の体制を本格的に整えた事で知られています。
天文15年(1546)には河越合戦に勝利する事で名を挙げ、山内・扇谷の両上杉を関東から排除し、その勢力範囲は上野に拡大しました。

★四代氏政 氏康存命中の永禄3年(1560)家督を継承します。永禄4年上杉謙信、永禄12年の武田信玄による小田原攻めを退けています。氏直に家督を譲った後も、北条氏の最高権力者として君臨しますが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの敗北により
切腹しています。

★五代氏直 氏政存命中の天正8年(1580)に家督を継承しています。天正10年(1582)には武田氏が滅亡し、次いで織田信長が亡くなると、
上野、下野方面へ積極的に軍勢を派遣し、北条氏の支配領域は最大に達しました。しかし 小田原合戦の敗北後 高野山に追放され翌年亡くなっています。
こうして約90年にわたる戦国大名北条氏による関東支配は終わりを告げました。
 
【城山公園】

小田原駅からは20分近く登るのですが、北条時代の城内に当り今では桜の園になっていて、穏やかな日差しの中でお弁当を頂きました。
そして《小峰御鐘ノ台大堀切》を見学しました。 東堀、中堀、西堀の3本の空堀があり、本丸へと続く八幡山丘陵を分断しており、敵の攻撃を防御するための空堀で小田原城の西側を守る最も重要な場所であったと考えられます。

【小田原城の天守閣へ】
下って下って遂に小田原城の天守閣に入場です。現在は江戸時代の本丸・二の丸の大部分と大外郭の一部が国史跡に指定され、城址公園として公開されています。
 
三層四階の天守閣は階段で上下しますが各階にはお宝が展示されていて当時の装束や武器・刀など又眺望を楽しむ人たちも多勢で、時間が足りないほどでした。

 《格子越えの海》
                           
    
 《城内の桜》

  

 《お堀の桜》

      

  最後に小田原ガイド協会のご協力で、桜花爛漫のもと小田原城内を
  ご案内していただきました。