花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

クリスマスを彩るガラスたち

2013-12-09 | 鎌倉の四季

鎌倉と背中合わせに住むことになって、ずいぶん長くなりました。山越えでバスやクルマが多かったのですが、今では平地を電車で・・・

お買い物を兼ねて、小町通のギャラリーはクリスマスの展示で華やかでした。ガラス工芸の楽しさ、素晴らしさを拝見して、街の華やぎと相まって楽しめました。

写真も自由に撮らせていただいたので、2・3貼らせていただきましょう。

      

      

      

      

 厚木グラススタジオの出展で、宙吹き・エアーバーナー・吹きガラス・トンボ玉等 大々的な工房のようでした。お買い物もお食事も大満足な一日になりました。


”いざ奥州合戦” 鎌倉「中の道」を行く

2013-11-16 | 鎌倉の四季

 源頼朝は文治5年7月17日に奥州合戦のために、畠山重忠を先陣として、大軍を率いて[中の道」を使ったという記録が吾妻鏡に記されています。この時代の大船付近は湿地帯が多く人が通行できるところは限定されていたと思われます。

現在もその場所を特定するのはかなり難しいと言われていますが、「水堰橋」が「中の道」の出発点とされているそうです。

北鎌倉の駅から住宅街の細い道を北に向かい「中の道」を歩くことになりました。途中神社仏閣を色々拝観しました。「古都鎌倉史跡めぐり」は10年近くも参加していますのに、初めての行程で同行の人たちもそうらしくとても新鮮でした。そして自分の中で少し混乱したところもありました。

成福寺  「宗派」 浄土真宗  「本尊」 阿弥陀如来立像(一体のみ飾る)

       鎌倉で唯一の浄土真宗の寺院。入場しお側で拝観。

        

 厳島神社  「祭神」 橘姫命 応神天皇

       阿弥陀三尊の種子をつけた塔。 成福寺の鬼門除けの神社。 

       

  離山 この付近は沼地であったため、山の麓にそって道を通した。縄文時代には3つ  の島だったと思われます。  関白近衛房嗣の第三子の廻国雑記があります。「はなれ山といえる山あり まことにつずきたる尾の上も見え侍らねば 朝まだき 旅立つ里のおちかたに その名もしるき 離山かな」

  法安寺  「宗派」 浄土宗  「本尊」 阿弥陀三尊 

  弘法大師が一晩の間に、川原の石に爪でほったという伝説の観音像がが語り継がれ

  ている。この観音像は旧鎌倉郡三十三観音の一つでありました。 

          

  いたち川  鎌倉時代 この川は「出で立ち川」といわれ、幕府にとって交通上、軍事戦略上の重要なところであり、出発時安全を祈る儀式を実施しました。中の道の旧道は[水神橋」の位置でしたが、その後新道ができて、新しい橋をかけたので「新橋」(にいはし)に。吉田兼好法師集より

  「 いかに我が たちにし日より 塵のゐて 風だに閨を はらはざるらん」  旅先から京の庵を思いやった歌です。

 笠間中央公園遺跡  この遺跡跡は公園を作る前に発掘調査をして、弥生時代の竪穴住居が14軒、古墳時代の竪穴住居が19軒、奈良時代の竪穴住居が11軒見つかりました。 又鎌倉時代以降に造られたと思われる幅が約10Mほどの大規模な道路跡が発見されました。この道は多分「中の道」の旧道と思われる。

 

 


鎌倉 徳川ゆかりの女性達の寺院へ

2013-10-31 | 鎌倉の四季

鎌倉唯一の尼寺・英勝寺において、大貫明彦氏のご講話と今秋国の重要文化財に指定を受ける英勝寺伽藍を、特別拝観することが出来ました。                             

  

又 徳川初期に鎌倉の地で生き抜いた「英勝院」 そして忠長の供養塔を建立した「松孝院]に思いを馳せ徳川ゆかりの寺院も訪ねて来ました。

✿英勝寺  [山号寺号]東光山英勝寺  [宗派]浄土宗  [開基]英勝院尼            この寺院は 太田道灌の屋敷跡と言われています。開基英勝院は徳川家康の側室で お勝の方といい、道灌四代の孫の娘で家康死後出家して英勝院と呼びました。寛永13年、三代将軍家光から祖先の地をを賜り英勝寺を創建し、水戸家初代の息女を開山に迎えました。以後水戸家ゆかりの寺として代々水戸家の姫君が住職を努めました。昔は水戸御殿と呼ばれ、格式の高いお寺で「三葉葵の紋」と「桔梗門」を掲げた総門です。

✿英勝寺伽藍 祠堂                                             英勝院の墓塔、位牌を祀る建物。保護のため外側を鞘堂によって覆われています。江戸時代初期の霊廟建築を表し、日光の東照宮を連想します。

     

                                                   

  広大な領域には多くの建造物や鐘楼、石塔、 石仏、流水や池等々・・・広大な竹林が素晴らしい。

     

 ✿薬王寺 [山号寺号]大乗山薬王寺

 徳川家とは縁が深く、徳川三代将軍 徳川家光の弟、駿河大納言忠長は聡明であり、父母の愛も家光より勝っていたため、家光に疎まれ 高崎城にて自害しました。正室松孝院[織田信長曾孫の娘] は夫忠長の霊を慰める為、供養塔を建て多額の金子と広い土地を寄進しました。 


北鎌倉の禅刹を訪ね,紅葉をめぐる。

2012-12-01 | 鎌倉の四季

 

 【源氏山手前の銀杏の絨毯の上でお弁当タイム・・・ここは富士山の眺望で有名ですが雲  に巻かれていました。】

鎌倉は12月に入ってからの紅葉が最も美しいと言われています。そして青空の元いい一日を過ごしてくることが出来ました。北鎌倉から円覚寺~浄智寺を巡り,樹林に覆われたハイキングコースを通り源氏山公園へ。そして化粧坂を経て海臧寺・寿福寺へと4時間余を楽しむことが出来ました。

鎌倉は網羅しているとは言え,記憶が薄れているものもあり,季節違いもあったりして 本日は「海臧寺」の印象を特筆したいと思いますが・・・・・その前に・・・・・ 

  【 円覚寺の洪鐘(梵鐘) 】

鎌倉には国宝が少ないと思われますが,正安3年(1301)北条貞時が国家安泰を祈って鋳造,寄進した鎌倉第一の大鐘で国宝に指定されている,鎌倉後期を代表する梵鐘です。

                    

                   

  この細い踏み固められた石段を登ったところに梵鐘はあります。又思いがけず富士山に  出会うことが出来ました。

       

  【 海臧寺 】

 創建:1394年  開基:上杉氏定  本尊:薬師如来

鎌倉幕府の評定衆を務めた藤原仲能が建長5年(1253)に,6代将軍宗尊親王の命により七堂伽藍を建立するも,幕府滅亡の折焼失します。この後に上杉氏定が再建し菩提寺としました。室町時代には扇谷上杉氏の保護を受け12の塔頭を持つほどに栄えました。

  ✿仏殿 

正面 安置されている本尊の薬師如来は胎内に古い薬師の仏面が収められておリ,啼薬師・児護薬師ともいわれる。

   

左脇 1・8メートルほどの大きな位牌があり,それぞれ応永30年,永生12年の古いもので鎌倉ではここだけとか。

   

右脇 伽藍神や達磨大使,弘法大使像などが祀られています。

   

 拝観するたびにこの仏殿は扉が開けられていて,親しみ深く心開かれるものがあります。  

   ✿心字池

 山肌からの清水が注ぎ込む心字池を中心とする禅宋風の瀟洒な庭園は,さまざまな樹木・草花が四季折々の風情を醸し出し,昨年新築された書院や草木と調和し見事なたたずまいでした。

  

    ✿ 庫裡

 天明5年(1785)建築の庫裡は,鎌倉の庫裡建築を代表するものとされています。

  

    ✿海臧寺正門

 」  


秋風の中 中世鎌倉の歴史の趣を辿りました

2012-10-28 | 鎌倉の四季

布教活動を始めた日蓮上人ゆかりの安国論寺をまず訪れ,世界遺産候補地・名越の切通しを辿り,まんだら堂やぐら群跡を訪ねました。この辺りは逗子市による周辺遺構の補強・整備・保存の工事中で,2015年の完成を目指して歴史公園として公開範囲の拡大 が期待されています。

奈良時代の創建と言われる坂東三十三観音二番札所の岩殿寺も巡りました。

  【 妙法華経山 安国論寺 】

    本堂

境内一円は松葉ケ谷なので一般には,松葉ケ谷安国論寺と言います。

                    

本堂の向かいは「御法窟」(または「日蓮岩屋」)と呼ばれる岩窟があり,ここで「立証安国論」が書かれました。

上記仏像の目線の先に 「師孝第一」と言われた愛弟子の日朗上人の御茶毘所があります。

 【 名越切通(世界遺産候補地) 】

この切通しは鶴岡八幡宮から南東約2 kmに位置し,鎌倉の南東から逗子を経て三浦半島へ通じる当時の要路であり,道が険しく難路であったため「難越」から「なごえ」の名がついたと言われています

                    

       【 まんだら堂跡 】

✿まんだら堂やぐら群

名越切通しは三浦へ抜ける街道が通るところであると同時に,そこに設けられた防衛の施設跡と更に葬送遺構が残っています。やぐら群は標高約80mの尾根から南西に傾斜する斜面をほぼ垂直に切落として造成された崖面に,三段から四段の列をなし,約1〇〇mに亘って造営されています。確認されたやぐらは150基を超え鎌倉で最大規模のやぐら群となっています。

 

    

  

   【 岩殿寺 】

当寺は徳道上人・行基菩薩のお二人によって創建されたと伝わっています。鎌倉杉本寺に次ぐ坂東観音二番札所になります。

鎌倉時代には 源頼朝・御台所・大姫・実朝などがことあるごとに参拝しており,将軍家の信仰の深さが伺えます。

又 明治のころ逗子に滞在した泉鏡花は観音菩薩を信仰し再三参詣しており,句碑や瓢箪池を寄進しています。

    逗子・葉山 写真           


稲村ケ崎公園~鎌倉文学館を経た歴史散策

2012-10-18 | 鎌倉の四季

世界遺産候補地として国の重要文化財や,景観重要建築物など散策すれば,多く目に入ってきます。天気も良く数多くのことに接することが出来て楽しい秋の一日でした。

     【 鎌倉海浜公園 稲村ケ崎 】

  

稲村ケ崎の名は,その形が稲束を重ねた稲叢に似ることからついたと言います。当初の通行には岬の周囲を伝い歩くというかなりの難所であったことが知られます。【新田義貞が黄金の太刀を海に投じて潮を斥けんと海神に祈れりと言うはこのことなリ】と石碑にあります。穏やかな天気であったにもかかわらず荒波が立っていましたし,波乗りに興じる人たちが大勢でした。  

    

   【 実朝の歌碑 】

     

    大海の 磯もとどろに 寄する波 敗れて砕けて 裂けて散るかも (金槐集) 

 ✿海岸に沿って美しい公園が続いています。海山を眺めながらお弁当を頂き,稲瀬川を遡   リました。

   【 甘縄神明神社 】

             

            祭神 天照大御神 

 和銅3年(710)行基が草創し,豪族染谷時忠 が建立した古い神社です。源頼義が相模守として当社に祈り長男義家に恵まれたことから源氏と縁の深い神社として信仰を集めました。  

【 鎌倉文学館 】

       

 加賀百万石前田家の別荘として明治23年に建てられました。20年後に焼失。関東大震災で倒壊。昭和11年に建てられたものが現在のものです。昭和58年に鎌倉市に寄贈。同60年から鎌倉文学館として一般公開されました。鎌倉ゆかりの作家の原稿などが展示されています。只今 【源実朝】特別展を開催。

広大な庭園には,バラが美しく咲いています。

        

                     


平家最後の嫡流 から 長柄桜山古墳群ヘ

2012-09-11 | 鎌倉の四季

逗子の古道を辿って平家の末裔 ・即ち平清盛率いる平氏一族の嫡流「六代目」を偲び,文学碑や鐙摺不整合の話を聞きながら,長柄桜山古墳への急坂を巡りました。

             

   【亀岡八幡宮本殿】 祭神:応神天皇

鎌倉の鶴岡八幡宮に対して,この地が亀の背に似て盛り上がっているため,亀岡八幡宮と名ずけられました。平安時代に弘法大師が立ち寄り地蔵尊を安置する厨子を設けられたことからこの地一帯を「厨子」と呼び,近時,「逗子」と呼ばれる地名の起源となりました。

   【六代御前の墓伝説地】

古いケヤキと大きなタブの茂みの下にある,六代御前の墓碑は 水戸藩士平典盛が建立し,毎年7月26日に供養をされています。  平家が壇ノ浦で滅びたとき平維盛の嫡男で12歳の幼さでした。その時は助命されたものの26歳の時例え仏門に入ろうとも,断罪されて仕舞ったのです。   六代御前の系図 :  正盛ー忠盛ー清盛ー重盛ー維盛ー六代  正盛から数えて名は無く六代とのみ 。 

      【宗泰寺】 高野山真言宗   本尊:阿弥陀如来立像

        

本堂の阿弥陀如来立像は逆手の来迎印をされている珍しいお像です。閻魔大王をはじめ十王と,奪衣婆像が本堂脇に安置されています。奪衣婆は冥土の裁判所で死者の生前の罪の重みを図ります。          

   【 蘆花 ・ 独歩 ゆかりの地の碑 】

この地に,「柳屋」という旅館があり,明治28年(1895)国木田独歩夫妻が4ケ月。翌年には徳富蘆花夫妻が4年間。 間借りして数々の名作を世に送り出しました。 お二人の巨大な碑が密着して立っています。

            

   【長柄桜山古墳】

     

古墳の発見は 平成11年地元の考古学愛好家でした。 逗子市と葉山町の境界線上の丘陵に立地する2基の大型前方後円墳から成り立っています。

1号墳は全長90m,2号墳は全長88m。県内最大級のものでこの辺りは古代の交通の要衝に当たり,又古墳の造りにヤマト政権に多く見られる段築(ダンチク),葺石(フキイシ),埴輪(ハニワ)があり,権力を持ちヤマト政権と関係する人,あるいは三浦半島の有力者が葬られていると想像されます。 後円部の中央やや東寄りに陥没坑がありその下に粘土槨が一基あることが分かっているので,木棺があるのでしょう。 平成14年12月19日に国指定史跡に認定されました。

 


再びの江の島

2012-08-06 | 鎌倉の四季

✿ 一カ月前にも江の島に行く機会があったのですが,岩屋までは台風の直後で無理。こんなことが今まで数回続たので今回は・・・と再びの思いを抱いて遂に願いが叶いました!

          

✿ 今年は辰年,龍伝説に彩られた歴史と信仰の島・江の島。空の青 一日中見え続けた富士山 四季折々の花が楽しめるサムエル・コッキング苑。江の島神社。稚児ケ淵。江の島岩屋。そして今まで一度も乗ったことのなかった江の島エスカー(1dayパスポート代1000円)を利用しました。

✿ エスカーは3段階になっていて,上りのみの一方通行で その階ごとに「辺津宮」「中津宮」「奥津宮」と立派な神社があり謂れを聞きながら・・・8月の一ケ月間灯篭による島内のライトアップで,夏の夜を飾るお祭りになっているそうです。昼間は灯りの入らない大小の灯篭が全ての道に置かれていて 幽玄な夜が彷彿出来るようにというものでした。

                【エスカーと江の島神社(中津宮)をご覧頂きましょう】

                 

          

✿  エスカーを下りると,江の島サムエル・コッキング苑に向かいました。明治15年に英国貿易商のサムエル・コッキングが建設した「コッキング植物園」が,後に「江の島植物園」となり,平成15年に江の島シーキャンドルの建て替えに伴ってリニュアールオープンしました。

                  

      

✿ 江の島シーキャンドルとは高さ59.8m 海抜119.6mの展望灯台で,南に大島 西に富士山 東に三浦半島を望むことが出来ます。 此処の高みから島の最南端の海食洞窟ヘ!

古くは弘法大使や日蓮上人も修業したと言われ,江の島発祥の地として崇められてきました。奥行152mで富士山の氷穴に通じているといわれる第1岩屋と56mで龍神伝説の地と言われる第2岩屋があります。ロウソクの炎に照らしだされた石仏や岸壁が神代の世界に誘われるようです。

           

                         

         

                                  

 

 ✿ 北条三つ鱗  北条時政が江の島弁財天に子孫繁栄を祈願した時,美女が変身した 大蛇が神託を告げ,三枚の鱗を残して消えます。その鱗を持ち帰って家紋にしたというお話。

          

 ✿ 江の島の対岸は鎌倉 右端の丸い島が稲村ケ崎。新田義貞が鎌倉の北条氏を責めた時,守備固く稲村ケ崎の岩頭から,自から佩びていた黄金の太刀を海中に投げ入れて,龍神に潮が引くことを祈り 磯伝いに一挙に攻め込んだ伝説の地です。

 

 

 

 

 

        


東逗子に鎌倉ゆかりの名刹を訪ねる

2012-07-21 | 鎌倉の四季

 逗子は鎌倉郡沼浜郷と呼ばれていた地であり,すでに天平勝宝元年(749)の「調布墨書」に見ることが出来ます。 平安時代より開発領主として勢力を持った三浦氏の支配地でもありました。 三浦氏と密接な関係を持った源義朝の旧宅が沼間にあったことが「吾妻鏡」にあり,義朝の子義平も三浦氏の保護のもとに居住していました。

    【海宝院   創建:天正18年(1590)  本尊:十一面観音】  

   天正18年(1590)江戸に入府した徳川家康は,長谷川長綱を代官頭とし,幕府直轄地の三浦郡を支配させ検地を実施しました 。高い石積みに銅鐘があり北条早雲が三浦氏を攻めた時,陣鐘として使用しました。墓地は広大で有名無名のお墓が林立しています。

なかんずく長谷川長綱とその一族の墓。  船奉行 向井忠勝夫人(長綱の娘)の宝塔。 又都知事石原家の墓地がかなりの広さを占めているのを目にしました。  

      

立派な四脚門を額縁にして,本堂も庭も広大で平安時代のころから神武寺を監視するためにこの寺はあったとも言われています。

    【神武寺   開山・開基 :行基   本尊 :薬師如来 】

奈良時代 神亀元年(724)聖武天皇が霊夢を見て,命を受けた行基がこの地に下向して,十一面観音,釈迦如来,薬師如来の三尊を祀ったのが始まりだと言われています。さらに平安時代 文徳天皇は天安元年(857)慈覚大師に詔して七堂伽藍ヲ整えさせ,天台宗に改宗しました。

時代は下り,源頼朝は平家追討祈願のため 文覚を住持としたと伝えられています。又鎌倉幕府の公的日記「吾妻鏡」の中に,承元3年(1209)3代将軍源実朝が参詣したとあり,記録上最も古い事例です。戦国時代 永正4年(1507)全山消失するも,小田原に入った北条氏の保護を受けて復興を遂げました。

        

                   客殿(来迎院) 大きな宝珠が印象的

                    

                    鐘楼 本堂を見下ろす位置にあり

                

                     薬師堂に向かう途中 六地蔵

                

弥勒やぐら  弥勒石像の後背に「大唐高麗舞師本朝神楽博士従5位行左近衛将監中原朝臣光氏, 行年七十三  西応三年虎9月五日」とあり,俗名の銘が残る唯一の墳墓窟とあります。 

       【東昌寺  宗派:真言宗  本尊:大日如来】
 
寺暦によると鎌倉幕府滅亡の時,北条高時以下一族は,鎌倉葛西ケ谷の東勝寺で自害しますが,この時の住職 信海が本尊を火中より運び出し,池子に逃れて東勝寺を建立したと言われています。
寛永14年(1637)池子村が英勝寺の寺領になった時,「東勝寺」の勝を改め 「東昌寺」となりました。
 
阿弥陀堂には北条政子が実朝供養のため運慶に彫らせたという阿弥陀如来坐像が安置されていましたが,享保12年(1727)東昌寺の火災で阿弥陀堂は焼け,その像は失われました。
現在のものは宝暦6年(1756)鎌倉扇ケ谷の三橋宮内忠之とその子息によって再建されました。
                      
                          
                                               大日如来坐像
 
    ✿大日如来坐像はweb site より拝借

源範頼の伝説の地と金沢八景

2012-07-05 | 鎌倉の四季

範頼は源義朝の6男,源頼朝の異母弟として(1150年?)生まれ,父義朝が平治の乱(1159年)で敗死した後,遠江国蒲御厨(かばのみくりや・・現浜松市)で成長します。このことから,蒲冠者(かばのかじゃ)と呼ばれました。

寿永2年(1183)大将軍として平氏打倒に功績を揚げ,その勲功から三河守となり源家一門として重んじられました。しかし建久4年(1193)5月の「曽我兄弟の仇討」に始まる陰謀事件で,頼朝に対する謀反・反逆の疑いをかけられ伊豆に追放されてしまいます。そして追放後のことが「吾妻鏡」では何も触れられていないため,8月に伊豆修善寺で抹殺されたとする「保暦簡記」に対して,悲運の武将・範頼は死なずに,密かに幽閉されていた伊豆修善寺を逃れ出たという伝説が語られているのです。

時の鎌倉幕府征夷大将軍源頼朝は,その猜疑心から弟範頼を討たんとします。鬱蒼たる樹木に囲まれた深浦湾の洞窟を隠れ家とし,蒲冠者の縁の寺や その従者が蒲谷の姓を名乗り近隣に多々住み現在に至っていると聞きます。この洞窟を昭和47年に岡村製作所が取り壊したことで,不自然な事故が起きるようになったことなどから,「蒲地蔵尊」が建立されました。私達も 一人ずつ心を込めて拝礼しました。

                                   

                            蒲地蔵尊

 【 金沢八景 】

一つの地域に八つの景色を設定し 「八景」 とする考え方は,中国の「繍湘八景」がその始まりとされます。11世紀後半の中国・北宋時代に広まり,鎌倉時代中期,禅宗文化と共に日本にもたらされ次第に普及しました。

金沢八景は,江戸時代の初めごろには,具体的地名を冠した例が見られるようになります。その後中国禅僧の心越禅師が能見堂に立ち寄った折に作った漢詩が評判になり,京極高門の和歌が添えられ今日の金沢八景として定着しました。

    ✿  夕照 瀬戸 (瀬戸のセキショウ)

           

 【伊藤博文 金沢別邸】 

 旧伊藤博文金沢別邸は,初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文公により,明治31年に建てられました。横浜指定有形文化財で 野島公園内の郷土資料館として運営されています。

     

             

            入場して説明を受ける。上記の文字は博文公の筆。

   ✿ 前庭は海に面していて 八景島シーパラダイス が見えています。

        

  【野島公園 展望台】

  野島の中央に聳える山の頂きにある展望台。360度に展開する眺望は雄大です。

     

     

  日産自動車の工場群が見えます。左手先端の小山は伊藤博文達が「明治憲法」を起草した夏島です。当時孤島であった夏島は重大な機密地とされたのです。

 【九覧亭 金龍院】

境内を上り詰めたところの「九覧亭」は,平潟湾に臨み 金沢八景の景観を脚下する名所として知られていました。 今では聖徳太子堂が建てられています。 大きな椿の実が美しい。 

            

                    

           

           


阿仏尼 (十六夜日記の作者) の鎌倉

2012-05-14 | 鎌倉の四季

          

          

  阿仏尼は,後高倉院の皇女安嘉門院に仕え四条と名乗った女房です。一時恋に破れその後,藤原為家に出合いその晩年の妻で・・歌道家の女主人となり,為相 為守らを生みました。為家は藤原定家の子で,宮廷歌壇随一の歌人で,大納言にまで上った人物でした。

この 俊成・定家・為家と続く家を御子左家(ミコヒダリケ)と言い,宮廷の和歌を司る歌道家として高い地位を占めていました。為家には先妻との間に,すでに成人して歌道家を継いでいた嫡男為氏ら数人の子女がいて,その没後為相との間に激しい相続争いが起こりました。

阿仏尼は,為相に代わって相続の地を獲得するための訴訟を起こし,為氏と戦う決心をします。弘安2年(1279)10月16日,阿仏尼は鎌倉に下向しました。

【たずねきて 我が越えかかる 箱根路に 山のかひある しるべをぞとう】  (十六夜日記)

  阿仏邸旧跡・月影ケ谷  十六夜日記によれば,鎌倉での住まいについて,「東に住むところは月影の谷とぞいうなる。浦近き山もとにて 風いと荒し。山寺の傍らなれば,のどかにすごくて,波の音松風絶えず」と記しています。

 鎌倉の郊外の極楽寺から少し離れたところは,静かなさびれた感じがしたのでしょう。

          

【枕なる 山うちこえて 聞こゆなり 遠き野寺の あかつきの鐘】   (荏柄宮 百首)

 問注所跡(裁判所) 鎌倉幕府の行政上の機関で,訴訟裁判を司ったところ。大蔵幕府の傍に設けられ,訴訟の審理,記録などの権限を持ち 鎌倉中のものは政所が,諸国のものは問注所が担当しました。

裁判は結局為相の勝訴に終わるも,阿仏尼下向から34年後と長い年月を要しました。

【 ふるさとの 人に見せばや 黒髪に 年も重なる 霜のしろさを 】  ( 鹿嶋社百首・霜 )

          

  常栄寺 この寺の裏山はかって源頼朝が,由比ガ浜の鶴の放生会を見学するために,桟敷を設けた所と言われています。後に尼はここに住み, 文永8年(1271) 捕らわれの身となった日蓮が,馬で龍の口の刑場に引かれてゆく時,ぼた餅を捧げたと言われ,このことから日蓮を助ける奇跡が起き「首つなぎのぼた餅」と語りつがれるようになりました。

【しのびねは ひきのやつなる ほととぎす くもいにたかく いつかなのらん】 (十六夜日記 )

          

   「常光明寺」 源頼朝の発願で文覚上人が建てた堂宇が前身だと伝う。元は浄土宗。元弘3年(1333)後醍醐天皇の皇子成良親王の祈願所となり,勧学院を建て学問の道場として基礎を築きました。 為相は阿仏尼没後鎌倉に来て常光明寺の旧境内の藤ケ谷に住み,和歌の指導者として活躍しました。嘉暦2年(1328)に鎌倉で没しここ常光明寺に葬られました。墓所は山頂近くにあります。

【 目に見えぬ 仏は神と あらわれて 人たすくなり 我をもらすな 】 (鹿嶋社の百首・述懐)

 阿仏尼の墓 やぐらの中に 「阿仏」と刻まれた多層塔があります。子息為相の墓を見守るかのように造立されています。

           

【 いつの日か 都の空を それとみて 渡りかえらん 瀬田の長橋】  (新賀茂社の百首・橋)

 阿仏尼は勝訴を祈って神社・仏閣に非常に多くの歌を奉納しました。又十六夜日記から後世に多くのことが伝わって非常に貴重です。

 

✿NPO法人 鎌倉ガイド協会の 「古都鎌倉史跡めぐり」に参加いたしました。もう何十年と続いているのだと思いますが,背中合わせに住んでいるのだからと気の向くままに・・・しかし昨年は時間的に難しく,今年こそはと思っているところです。

鎌倉史跡めぐりでは歩くごとに,広大で山も谷も湖も,海や島,そして横須賀や三崎まで。又西には藤沢から小田原・箱根と,範疇に入りますし,横浜もたびたび探訪させてもらっています。

                              http://www.kcn-net.org/guide/


三崎 頼朝三御所めぐり

2012-03-10 | 鎌倉の四季

 源頼朝は鎌倉で初めての武家政権の樹立に於いて,都の朝廷に対し又武家政権内部の武将たちに対しても,神経をすり減らす毎日であったことでしょう。そのような時 明るい三浦の海を訪れ開放感を味わうために三つの別業(別荘)を儲けました。

それは【桃の御所】・・・見桃寺(けんとうじ)。 【桜の御所】・・・本瑞寺(ほんずいじ)。 【椿の御所】・・・大椿寺(だいちんじ)。 

その三寺を軸に周辺を訪れました。

  ★ 三崎の歴史 ★

 源頼朝の別業の時代。                                                  

戦国時代には,三浦氏により新井城の出城として三崎城ガ構えられました。三浦氏を滅ぼした後北条氏は房総の里見氏に備え,三崎城を強化しました。

天正18年(1615),徳川家康は関東入府に伴い,三浦郡の直轄領を支配するため,長谷川長綱を三浦領代官に命じます。一方江戸湾口のおさえとして,三崎に向井・間宮・小浜・千賀氏の4名のお船手奉行をおきました。

1615年豊臣氏が滅亡すると,4氏のうち向井氏だけが残り御船手奉行として,元禄期まで長く三崎に足跡を残します。

1618年向井将監忠勝によって船改めが開始され,海の関所として「出船・入船}の検査が行われたのです。1696年にはそれも廃止され下田奉行所に引き継がれました。

欧米の外国船が接近するようになった19世紀には,会津藩主松平容衆が幕府から任命され,その後 川越 小田原 熊本 佐倉藩等が沿岸防備に着きました。

  ★ 見桃寺 ★

 

【山号寺号】紫陽山見桃寺。  【宗派】臨済宗妙心寺派。  【開基】向井正綱。 

源頼朝の三崎・三御所の一つ「桃の御所」跡。                              能救寺と城ケ島の神宮寺が見桃寺に合併され,秘仏の薬師如来は三浦市の指定文化財。境内には北原白秋の歌碑があり,三崎の名を天下に知らしめた「城ヶ島の雨」はここで出来たとされます。

   ★ 本瑞寺 ★

【山号寺号】海光山本瑞寺。  【宗派】曹洞宗。  【開基】三浦荒次郎義意

源頼朝の三崎・三御所の一つ「桜の御所」跡。

 

 境内には彫刻家北村四海の胴型の墓があり,その傍らには彼の愛児桜子の像が彫られています。御所に相応しいお名前ですね。

 

  

     ★ 大椿寺 ★

 【山号寺号】金剛山大椿寺。  【宗派】臨済宗妙心寺派。 【創建】正治元年頃(1200)

源頼朝の三崎御所の一つ「椿の御所」跡。ここには頼朝の愛妾がいて,頼朝亡き後髪を下して妙悟尼と称し大椿寺の開基となったといわれています。

本尊は秘仏の十一面観音菩薩坐像。右脇間には椿の杉戸絵があり「椿御所」の掲額があります。

久々の「鎌倉史跡めぐり」に参加して,三崎に頼朝の別荘があったことも初めて知ることが出来ましたし,いつもはお弁当のところをお食事処で海の幸を味わうことが出来て楽しい旅になりました。

 


『石橋山合戦』 跡へ

2011-10-08 | 鎌倉の四季
 
 
 《石橋山古戦場》
 
 1180年8/17 伊豆流罪中の源頼朝は以仁王の「平家追討令旨」を受けて挙兵する。
伊豆目代・山木兼隆を討って石橋山に着いた8/23、大庭景親の源氏追討軍(3000騎)
に遭遇、伊東祐親軍(300騎)との挟み討ちにあい頼朝軍は惨敗。

土肥実平の手引きで、頼朝主従は雨中箱根山を逃避行するのです。
8/28主従は真鶴・岩ノ浦から小舟で七騎落とし房総で三浦一族と合流す。

房総半島を北上して房総・武蔵の武士を結束しながら1ケ月後の10/6には、早2万5000騎を率いて鎌倉入りし10/20には、富士川合戦で10万騎の平家軍を破る破竹の勢いで、関東を制覇 わが国初の武家政権「鎌倉幕府」の足場を固める。

平安末期 早川一帯は相模平氏・土肥実平が城を構えて支配していました。
土肥一族は頼朝の挙兵を助け、石橋山合戦で頼朝を救い、その後の平氏追討戦にも活躍をします。その後備前・備中・備後の守護として中国地方を平定しました。
 
 《ねじり畑(先陣激戦地)》

 8/23の夜 頼朝の家臣・岡崎(三浦)義実の嫡男 真田与一義忠(15騎)は、頼朝軍の
先陣で、敵将大庭景親の弟・俣野五郎景久(75歳)と対決。一騎打ちで上になり首を取ろうとした与一の刀が血糊で抜けない。そこへ敵方・長尾新六定景が駆けつけ、後ろから殺害(25歳)するのである。
           
           
       ★与一塚 1190年伊豆山の岐路立ち寄った頼朝は、自分の
            身代わりで戦死した忠義の墓前に落涙する。

 
 《佐奈田霊社》

 現在石橋山の中腹に、真田与一の霊社はあります。与一の首を掻き切った長尾定景が
供養塔を立てる。天正年間になり真源和尚が菩提寺を創建し、後に佐奈田霊社として
現在に至っています。
                

                    
本殿には★頼朝の古文書(真田与一の功労に報い「魁秀明神」の号を贈る)。
     ★真田与一の石像と木彫像。★真田与一の組み討ち図。

 本殿に入場してお住職の流麗なお話を拝聴。
佐奈田与一のしるしを掻き切った本人・長尾定景が供養の庵を建てたことに、武士道を見る 思いがします。
祭神は真田与一義忠。痰の持病があった義忠は喉を守る神として・・飴を買ってみる。
     
   

尚 頼朝は真田与一義忠の菩提を弔うために、現在の横浜市栄区に「證菩提寺」を建立しています。当時は非常に広大な敷地でした。
 

 《分三堂》

 佐奈田与一の郎党・文三家安を祀る墓碑・供養塔。
 小田原城主・稲葉正則の家老で田辺権太夫信吉が建立した供養塔が家の中に祀られている。

          

              《金木犀が香る》

              

                《新幹線が眼下を一瞬で通過》

                                 

 『お江』 ゆかりの鎌倉を訪ねて                

2011-04-14 | 鎌倉の四季
  
<<東慶寺 本堂>>

櫻花爛漫の陽春の候 北鎌倉から市街中心部にかけて『お江』ゆかりの寺社巡りと、花のない時には見過ごしているものを、通りの家々に沢山の櫻が目に付くのも心華やぐ楽しさでした。
まずはトップの東慶寺から7.5キロの道程と、かなりの高低差をお弁当を交えて6時間歩き通したのでした。

 【東慶寺】

 創建:1285年  開山:覚山志道尼  開基:北條貞時

東慶寺は、北條時宗夫人が開山とし、子の貞時が建立した言われています。「縁切り寺」
「駆込み寺」として知られ 尼寺として栄え多くの女性を救ってきましたが、1903年
尼寺から臨済宗円覚寺派の寺となり男僧寺となりました。
境内の奥には歴代尼僧の墓所があり、多くの作家・文化人が眠りについています。
例えば 鈴木大拙 小林秀雄 高見順 田村俊子の墓。前田青邨筆塚 佐々木信綱歌碑。
等々。
又 豊富な花暦でも知られ四季折々の花々が境内を飾っています。

          
          <<尼僧の墓所>>

   
   <<花の枝折戸>>

「お江」は徳川2代将軍秀忠と結婚し「千姫」が生まれます。やがて豊臣秀頼と政略結婚をしますが、大阪夏の陣で秀頼は母淀君と共に自害して果てます。
千姫は徳川家康の配慮により救出され、秀頼と側室の間に生まれた女子も千姫の嘆願により尼になることを条件に東慶寺に入りました。そして幕府の保護を受け、やがて20世天秀尼となり千姫からも力添えが続いたようです。

【建長寺】

 
        <<建長寺山門>>
 
  創建:1253年 開山  開山:蘭渓道隆(大覚禅師)  開基:北条時頼
 
鎌倉五山第一位の名刹建長寺は、蘭渓道隆を中国から招請して開山した臨済宗の大本山です。寺の歴史と格式の高さを伝え、国宝・重要文化財が多く、かっては塔頭49院を数えるほどの寺勢を誇っていました。

         <<仏殿>>

         

徳川2代将軍秀忠の正室・お江(崇源院)の霊廟として死後2年後の1628年(寛永5)芝の増上寺に建立されたものを、1647年に移築したものです。(霊廟は20年毎に建て替えられる様になっていたようです)。

         <<半僧坊への道>>

         
         
 
【古我邸】

      

石の門柱越しの広い庭園奥の台地に 古く大きな洋館が建っています。
かっては三菱銀行の重役の別荘であり、昭和初期には歴代の総理大臣が別荘としていました。
現在は古我氏の所有。古我信生氏(2005年に死去)は、おもに海外で活躍したレーサーで、晩年は自動車を文化としてとらえた独自の評論家でした。

この敷地は、徳川忠長の家老・朝倉宜正(妻の朝倉の局は忠長の乳母)の菩提寺であった
興禅寺跡といわれています。
宣正は、18歳で2代将軍秀忠に仕え次第に出世して、忠長の家老になって一万石を領しました。

 【薬王寺】

 
 <<薬王寺鐘楼>>  
          

 <<忠長の供養塔>>
           

忠長は父・秀忠、母・お江の二男として生まれました。幼少より兄家光と比べ容姿、健康、才覚ともに優れ両親に可愛がられて次の将軍は忠長とみられていました。
これに不満の春日局(家光の乳母)は、家康に直訴します。家康も「乱世は器量のあるものが家を束ねることが必要だが、世が安定すれば秩序を保つべきである」としました。

忠長は将軍に次ぐ大々名として駿河・遠江・甲斐・信濃など五十五万石を領して、駿河城に居し、從二位権大納言に叙任され駿河大納言と呼ばれました。やがて忠長は狂気・乱行を理由に甲府へ蟄居を命ぜられ高崎に幽閉され1633年自刃させられたのです。28歳でした。
これは家光の能力ある忠長への恐れから出た行動と言われています。後に妻の松孝院が当寺に供養塔を建立しました。(墓所は高崎の大親寺)。

【英勝寺】

 創建:1636年(寛永13) 開山:玉峰清因  開基:英勝院尼

鎌倉唯一の尼寺で、境内は四季折々の花が絶えることがありません。開基の英勝院尼は太田道灌から数えて4代の孫康資の娘。家康に仕え水戸家初代徳川頼房の、養母を努め家康の死後出家し英勝院と号しました。
家康没後も、秀忠・家光のあつい待遇を受け水戸家の援助もうけて寺院を創建しました。仏殿の本尊阿弥陀三尊像は運慶作と言われ家光の寄進です。

今春再建された山門は関東大震災後、当寺を離れていましたが2001年解体した用材が戻り10年を費やして完工しました。

       
  <<英勝寺 山門>>


 <<枝垂れ桜>>

  
  <<竹庭>>

  
  <<石庭の仏像>>

【鶴岡八幡宮】

現在の社殿は徳川秀忠が命じ1624年(寛永元年)に造営されたものです。桃山風を伝える華麗な建物で、特に三殿(拝殿・幣殿・神殿)が連なり朱色の柱、軒下の金具装飾、向拝の極彩色彫刻があり本殿外壁には大松が描かれています。

   【三の鳥居を潜り朱塗りの太鼓橋を左手にして一歩を踏み入れました。】



      【倒れた銀杏のその後、どのようになっているでしょうか・・・】

    

      【段蔓の大鳥居】

      
 
      【石造の一の鳥居】

       

「お江」は鶴岡八幡宮の弁天様を深く信仰し、子宝祈願した結果竹千代(家光)が生まれますます信心を深め一生の守り神としました。ある夜夢のなかで弁天様に「木造の鳥居を石造りとしなさい」とお告げがあり、家光に頼み他界しました。その後家綱の時代に建立されました。関東大震災に倒壊しますが昭和12年に再建されました。
     
 


            

十二所梅林に春を訪ねて

2011-02-24 | 鎌倉の四季
      
 <<十二所果樹園>>

鎌倉の代表的な梅林として、十二所(ジュウニソ)果樹園があります。
古道である朝比奈街道沿いの古刹を巡りながら、太刀洗川に沿って今ではハイキングコースになっている朝比奈切通しを途中右折して登ってゆくと、そこは広大な梅林が広がっていました。

 光触寺


 
【山号寺号】 岩蔵山光触寺(がんぞうざんこうそくじ) 【宗派】時宗
 【開基】一遍上人  【本尊】阿弥陀三尊(國重文)

鎌倉時代真言宗として開創されましたが、1282年一遍上人が遊行の途次、時宗に改め念仏道場として栄えました。
阿弥陀三尊は運慶、快慶、湛慶の作と伝えられ 泥棒に焼き鏝で仕置をしたが、阿弥陀三尊像の頬にその後が残ったと言う話が伝わっています。「頬焼阿弥陀」として。
こう言った伝説がもう一つ。
お地蔵様に塩を供えるといつの間にか無くなっているので「塩嘗地蔵」。



  
<<梅香る本堂>> 

光触寺は以前本堂を拝観したとき、金の天井飾りや、柱にも彩色が施されていて印象的だった事を思いだしていました。
昨年従兄弟から「妹が亡くなり」光触寺にお墓を作った旨を聞き、私より10歳は年下の従姉妹の事、その儚さ そして光触寺のこと・・「鎌倉史跡巡り」での巡りあわせを思い、感慨深いものがありました。
お墓が簡単に見つかるとは思わなかったのですが、新しいお墓に目をやりつつ出口に近づいた時、苗字が目に入ってきたのです。○○家之墓では確信は持てなかったのですが、
横から卒塔婆の文字が見えて生前の名前の一文字が入っていたので「あぁ 良かった!」と嬉しく思いました。3月に入れば彼と会えるので・・。

  太刀洗川

  
   

滑川に注ぐ太刀洗川を左手に見ながら登っていると、対岸の石の祠辺りから竹の筧を伝って水が流れています。細い水流ですがこれが鎌倉五名水の一つだと言います。
ここで梶原景時は血刀を洗い、相手は上総介平広常だという伝説です。

 十二所果樹園(鎌倉市十二所字七曲)

総面積50.350m2で梅と栗が主。横浜市から鎌倉市、三浦市に連なる三浦丘陵地帯の一角をなしています。無償のボランティアで運営、維持されています。

     
      

明王院(五大堂)

鎌倉幕府の四代将軍藤原頼経が寛喜三年(1231)に発願し、場所の設定や鎌倉中の大火災などで時間を要し4年後に創建をみたお寺です。建立地は政所から見て鬼門にあたり、鬼門除けの祈願寺として五大明王(不動・降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜叉)を祀りました。それぞれの明王に大きな堂があったことから、古くから五大堂と呼ばれて来ました。
寛永年間の火災で不動明王をを残して他の四体は消失しました。その後再建されましたが
江戸時代には再び火災により消失。その後再び再建されます。
将軍の発案によって建立された、鎌倉に現存する唯一の寺院なのです。

このお寺は一切の撮影は不可です。唯一お堂はパンフレットからの転写です。

          

 鎌足稲荷

大化二年(646)藤原釜足が鹿島神宮に参詣する折、由比の里に泊まり夢の中で白髪の老人から受け取った鎌槍を、白狐の案内で浄妙寺の裏山に埋めお堂を建てて祈ります。
「不思議な剣が埋められた。これから鎌倉の郡は五穀が実り人々は安楽になる」と神のお告げがあり、天皇に申し上げると「以後鎌倉の郡と唱えよ」と言われ、鎌倉の名前はここから来ていると伝えられています。
          

 浄妙寺

   

  【宗派】臨済宗建長寺派 【本尊】釈迦如来   【創建】文治四年 
  【開基】足利義兼    【中興開基】足利貞氏 
              
鎌倉五山の四位までが北条氏に関わるお寺で、五位のみが足利氏のお寺です。
中興開基は足利尊氏の父貞氏で、元弘元年(1331)に亡くなり、このお寺に葬られました。裏山の墓地に立派なお墓があります。
この寺が最も栄えたのは文和二年(1353)以降で、その頃鎌倉五山に列したと思われます。 

 浄妙寺に咲いた梅

          
 
 【鎌倉にゆかりの歌】

出ていなば主なき宿となりぬとも 軒端の梅よ春な忘れそ 源実朝

鎌倉に井あり梅あり星月夜    正岡子規

鎌倉の梅の中より鐘起こる 春の夕となりにけるかも 与謝野晶子