花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

袋田の滝と 竜神大吊橋へ

2008-11-22 | 撮影を楽しむ
                             【新観漠台から】

秋冷の候 紅葉を訪ねて奥久慈へ。昨年のこの時期 男体山を南北に最初から最後まで紅葉に浸りきって歩いた事が思い出されます。袋田の滝音を聞きながら夜道故立ち寄る事が叶わなかったその場所へ万感の思いを込めました。
新しく観漠台が出来上がってエレベーターで行けるようになっていました。最上段が目線にあるのです。

平日にも拘らず多勢の人波に唖然呆然と言ったところでしたが、3~40分並ぶなんて皆馴れてしまっているのですねぇ。
紅葉が少し遅かったようでしたが・・見応えのあるところを貼ってみることにいたしましょう。

【赤 青 黄いろ】


【袋田の日輪】


【滝を見る人々】


【飛沫: 一眼レフ性能発揮の場面ですが思い描いたようには行きませんでした】
     

【中腹の観漠台で真近な滝の迫力 T・Y氏撮影】
          

豊富な水はやがて美しい久慈川となって流れ下ってゆきます。
次に本州一長大な吊橋に向かいました。袋田の滝から程近い竜神峡の水面から100m上空に大吊橋は架かっていました。10数年前各自治体に1億円が贈られましたが、この村では『竜神大吊橋』が造られたのです。そして今も多勢の人々が訪れています。

歩道のみの吊り橋として長さが446m 橋巾が5.0m 途中に1m×2mくらいの透明強化ガラスが3ヶ所嵌められていて、真下を覗けるのですがゾッとするほどの怖さがあります。

【竜神大吊橋 橋柱は龍の鱗を表現】
         

真っ青な空と紅葉 そして眼下の峡谷美や遠望の素晴らしさを、カメラに納めると余りにも小さいのですがどうぞご想像ください。

【竜神ダム】


【竜神湖】


【里の暮らし】


【夕陽に映えて】


大菩薩嶺 へ

2008-11-15 | 登山
                     【まゆみの樹氷・・大菩薩峠にて】

私たちの会で3度目の計画で2度も登ることになった山(2056.9m)。
いずこの山でも100回・200回と登る人は多勢いますが、登山暦のない私が2度登ることは大変意義があり嬉しい限りです。

空模様が怪しく雨具装着で出発です。上日川峠でチャーターバスを降ります→福ちゃん山荘→大菩薩峠(介山荘)へと向かう頃には、もう雨とも霰ともとれるものが降りかかっていましたので市営の休憩所で早目のお弁当になりました。
 
汗をかいているのに寒さがあり、もう一枚セーターを羽織る助言を頂いて以後快適でした。
【辺りの風景】


中山介山の『大菩薩峠』や、深田久弥の『日本百名山』の文学作品によって、どれだけ多くの人を呼び寄せて来た事でしょう。
又富士山の美しさ 大きさも賞賛されているにも拘らず、私の二度はお仲間に入る事ができませんでした。
しかし樹氷を纏った風景には魂を吸い寄せられてしまいました。 特にトップ写真のまゆみには!

賽の河原とか雷岩と言うオロ恐ろしげな処を 花もなく、湖も見えずとも喘ぎながらも進んでいればやがて「大菩薩嶺」に到着する事が出来るのでした。

【大菩薩嶺への雪道】


標高2056.9mの頂上は、そこだけ樹木が切り払われたような眺望のない処で、記念撮影をされたり したりしていると先程までの軌跡を思い感慨が湧いてくるのでした。

【大菩薩嶺にて】
       

同じ道を雷岩まで引き返すと前方の空が明るくなり南アルプスが現れたのです。
歓声を上げたのも束の間 雲間に隠れてしまいました。しかしこのような状態が何度もあって、それぞれ私の一枚が撮れたことでしょう。

ここから道を替えて唐松尾根を下るのです。石ゴロの急坂道は難儀でしたが、風景は次第に明るく足取りも明るいものでした。

【上日川ダム(大菩薩湖)】


尚下るとやがて塩山の市街地が見渡せるようになり、遠く南アルプスも隠れなくなっていました。
【塩山市が一望に】



途中「大菩薩の湯」に浸かり、話に花を咲かせて八王子駅で解散でした。謝々。





走水・観音崎の史跡を巡る

2008-11-07 | 鎌倉の四季
                              【観音崎公園】


地図上では鎌倉市と横浜市のその先に、東京湾と相模湾を分断する位置に三浦半島が靴を踏みしめたような形で太平洋に対峙しています。

古くは相模の国から上総の国への渡航地点として交通・軍事の要衝であり、中世には三浦一族が支配し、後北条・徳川の湾岸防備の関所として繁栄しました。

江戸末期になると外国船の来航を受けて文明開化の主要舞台になりました。
明治から太平洋戦争後までは要塞地帯として立ち入りが禁止だったのです。

現在も我が国防衛の一大拠点です。
そして本日の集合場所は京浜急行『馬堀海岸駅』でした。

【名馬 池月】
上総の国から浦賀水道を泳いで渡った荒馬が、蹄で土手を掘ったところ清水が湧き出してこれを飲んだ馬は美しい駿馬になりました。三浦氏は「池月」と名付けて頼朝に献上します。宇治川の合戦では佐々木高綱を乗せて大活躍を致しました。

          

この古事によって『馬堀』の地名となり、「蹄の井跡」の石碑と「池月」の石像が建立されました。

【水道トンネル と 走水水源地】
明治9年横須賀造船所のフランス人技師ヴェルニーは、走水の豊富な湧水を利用し造船所の用水を確保するため、約7kmの水道管を設置しました。当時のトンネルの面影が彷彿される所を通って現存している水源地を見ることが出来ます。イギリス積の赤レンガが歴史の重みを感じさせています。



【走水】
水が走るように湧き出す・・馬堀にも通じる水。水源地の50m先には東京湾が見えています。海岸が一直線に長く々々延びて走水海岸と呼ばれています。

【走水神社 弟橘媛命】
第12代景行天皇の皇子《日本武尊》と《弟橘媛命》の「古事記・日本書紀」の伝説の地にお二人を祭神にした神社があります。
「大和朝廷の時代 東征のため上総に向かうとき、海が荒れて船が沈没しそうになり妃の弟橘媛は、海神の怒りを鎮めるために海に身を投げ入れます。すると、荒れ狂っていた海は静まり、日本武尊は上総の国に上陸する事ができました。」
          


【観音崎ボードウォーク 】
海岸縁のコースに入り見え隠れしていた海が180度見渡せ、潮風を満身に浴びて
何度来ても横須賀を礼賛してしまうのです。
海辺に巾廣のウッドデッキが何百メートルも続いていて、遠く千葉を眺め 近くシーパラダイスやMM21があり 沢山の大小の船を見つめ これから行く灯台を眺めながら・・至福の一時がありました。


        

【観音崎灯台】
1866年 米・英・仏・蘭との江戸条約で明治元年着工、明治2年点灯。
1868年 ヴェルニーは横須賀製鉄所製のレンガと仏製レンズで我が国初の洋式灯台を完成しました。菜種油・石油・アセチレン使用 光達距離14海里、しかし関東大震災で倒壊します。現在は 3代目で1925年再建。光達距離37kmです。
     

螺旋階段を登って最上階に出ました。360度の眺望は素晴らしい!
千葉の先端は須崎でしょうか・・背後は山々・・灯台眼下の荒磯が美しい。
 


フランス人技師ヴェルニーの指導の下に焼かれた初代観音崎灯台のレンガには全て
「ヨコスカ製鉄所」の刻印がされており、その品質は現在のレンガと比べても少しも劣っていないと言われています。