花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

皇帝ダリア

2010-11-25 | Weblog



 皇帝ダリアが我が家でも咲きました。数年前横浜の動物園「ズーラシア」に行った時
ダリアに似てるけど、なんという大きさでしょう!と吃驚したのです。あの広い広い庭園にはふさわしく しかし寒くなりかけた頃に咲くなんてと覚えていたのです。

ところがお隣りとの会話の中で、「今は小さいけど一階の屋根より高くなるのよ」で、記憶がまざまざと蘇りあの時の驚きを話していました。「ウンと小さいのがあるのだけど」と。竹の節様の両脇に5~6センチの青い芽を出している小さな鉢植えを頂いたのです。
夏のおわり頃だったでしょうか。毎日のようにお水を欲しがり、ぐんぐん伸びてゆき鉢を2度程大きくして、11月の半ばには私の背丈よりも大きくなり蕾がついてアレヨアレヨと見る間に花が一輪ずつ咲き始めました。
お隣では地植えなので我が家の倍の高さ、何倍もの花が咲いています。

『キク科ダリア属。開花時期11月(霜が降りる前まで)。成長すると3~4mほどになる大型ダリアです。日が短くなると開花する短日性で冬は地上部が枯れ、春になると新芽が芽吹きます。
名前の由来は、18世紀のスウェーデンの植物学者「Dahiダール氏」の名前にちなんでいます。
原産地は中南米で、グアテマラ、コスタリカ、コロンビア等の標高900~2700mに見られます』(インターネットに拠る)

 我が家の皇帝ダリアの立姿
            
来年こそは名前に相応しい立派な姿に育ててみたいものです。


 花水木の紅葉が夕日に映えて・・今年は殊更美しくタイトルにもしていますし・・・ 
            

大船観音から古刹を訪ね、玉縄桜の里へ

2010-03-28 | Weblog
【大船観音寺】



鎌倉駅を西に向かって通過する時、右手に巨大な白亜の像が見えてきます。『頼朝』は観音様への信仰が厚かったと聞きますが、今日はその洞内にも入場出来て戦争を挿み長い年月をかけて完成したことを知りました。
現在桜の蕾は固く、花に包まれたお姿が似つかわしいと思い以前に撮った写真を貼付することに致しました。

【玉縄桜】



玉縄桜は『ソメイヨシノと大寒サクラ』が自然交配した品種で、新種として大船駅周辺の地名『玉縄』を冠して名付けられました。
2月はじめから3月上旬が見ごろの早咲きなので、大船フラワーセンターで3月の下旬に貴重な花びらに出会えて嬉しい限りです。

【敬翁桜】

     

広い植物園で玉縄桜を探しながら沢山の植物を紹介をしていただき、温室の暖かさにホット
出来たり、バナナの大房やその先の固い大花には歓声が上がりました。桜の花は上記の2種類でしたが、咲き終わった木 これから咲く木がまだまだ多くあり2月・3月・4月と咲き続けることでしょう。

陽射しがありベンチも沢山あり、芝生での一団もありましたが私達は休憩室を拝借してのランチタイムでした。
午後はフラワーセンター前の道を藤沢に向けて歩く事になりました。

【貞宗寺】
      

《宗派》浄土宗 《創建》慶長十六年(1611) 《開基》貞宗院 

貞宗尼隠栖の地に 没後2年貞宗尼が深く帰依していた、岩瀬大長寺住職源栄上人が寺を創建しました。
貞宗尼は二代将軍徳川秀忠を生んだ家康の側室「お愛の局」の生母で、江戸城に召され御年寄役を務めた後この地に隠居しました。徳川家ゆかりの寺宝が多く残されています。
将軍2代~14代の立派なお位牌を拝見する事が出来ます。
         
【久成寺】

     

《宗派》日蓮宗 《創建》永正十七年(1520) 《開基》梅田尾張守秀長

日蓮宗を篤く信仰した梅田秀長が屋敷を寄進しました。
境内には長尾城跡から移された、長尾景弘、定景、景茂の供養塔があります。
三代将軍実朝を暗殺した公暁を討ったとされる『長尾定景』は長尾景虎 後の「上杉謙信」の祖先にあたります。

ここで「古都鎌倉史蹟めぐり」は終わりでしたが、大船フラワーセンターに再度入場して花達と名残を惜しみました。

【野の花たち】 

ニリンソウ
  
      ウグイスカグラ
                         
           シャクナゲ
            
                ムスカリ                   
                 
 バイモ(編み笠百合)
    
      木蓮
        
             菜の花
              

 【花壇】
 その一
  
 
 その二
  

  

早春 待ち遠しくて

2010-01-11 | Weblog

                           【シクラメンの香り】

年が改まってはや10日 いつもこのようにして足早に過ぎて行きます。
庭に目をやると微かに枝先が膨らんでいるような、花壇にも土色が所々少し緑色がかって見えています。
カメラを持ち出してみたものの蕾はまだ固い・・・でもヤッパリシャッターを押してみたくなりました。


【ドウダンツツジ】
赤い三角帽子の可愛い事!
     

【ミツマタ】
     

【クリスマスローズ】
     

【テンニンギク】
一年中咲いている。ニギニギしい色だけどこの季節には嬉しいし頼もしい。
     

【世界に一つの花】
     

年末の紅白歌合戦でSMAP は何処で歌うかしら と番組表をみると最後から2番目今年は解かり易くありがたい。11:10~11:30まで録画をセットする。
チャント入っていた・・もう何年来こんな事をしているでしょうか。木村拓哉君はもう呼び捨てにはしない。

     


謹賀新年

2010-01-01 | Weblog

             【新幹線「のぞみ」の車窓より ’09 12 6】

       
    
        新年がお幸せでありますようお祈り申しあげます。


        楽しい一年を祈念して  2010年 元旦 




                                

箱根で 『同窓会』

2009-10-10 | Weblog

                            【仙石原のススキ】

7月の半ばに早々と10月8~9日の予定のお尋ねがあり、近付く程に気懸りだった事がクリアー出来て、此の日を待つのみだったというのに 「何たる事」超特大の台風襲来の日に当たってしまうとは・・・此のことが解かるや情報は飛び交いましたが、「最後まで見極めて」となってTVの情報を刻々と聞き続けて、12時過ぎに東海道線が開通になり連動しているらしい私鉄が、起動することをを確かめたのが12時半。昼食を摂って家を出たのが1時5分とは上出来でしたが、忘れ物はないかという強迫観念で大変な思いをしたのでした。

大袈裟なご披露をしてしまいましたが、ウン十年前の同窓生が会うとなると幹事は大変なご苦労があるものなのす。そのようなお役をしたことのない私でもこれなのですから・・郷里から上京する人たちはキャンセルでした。いい御判断だったと思います。

結局10人の人たちが揃ったのは午後6時でした。此の中のお一人が神奈川大学の出身者でしたから、その保養所を使わせて戴くことになっていたのです。
仙石原の山麓にある広い林の中の瀟洒な建物は個々の部屋はもとより、共用の施設も広々として食事が豪華版だったのが信じられない程でした。
食後の談話室は暖炉のある一廓が仕切られて家庭的な優しさに溢れていました。
お酒やリキュールを程よく戴いて、話は尽きる事無く夜は更けてゆくのでした。

【団欒の一齣】
          
          
明るい内に近くを散策をしてみました。神社仏閣が広大な寺域の林の中に点在している印象を持ちましたし、戸建ち感覚の集合別荘はユニークでした。

【保養所を林の中から摂ったところ】をご覧頂きましょう。
      
     

朝食の後は今日一日の予定を伺いました。
①箱根湿生花園
②箱根スカイラインをドライブ
③箱根園で昼食
④ロープウエイで駒ケ岳へ

【全員の記念撮影 神大の門前で】
          

【箱根湿生花園】は秋に入場したことがなく、珍しい花が撮れました。
 
 《大島野地菊》
  
 
 《サラシナショウマ》
       

      《ミズチドリ》
            

          《山ラッキョウ》
                  

     《ススキとワレモコウを掻き分けて》
       
                       

箱根スカイラインは始めてでした。駿河湾や伊豆半島が眼下に美しく見えています。伊豆半島は太平洋に浮かぶ島だったものが 太古地殻変動で今の場所に激突して地下にもぐりこみ、これが現在言われている東海地震の震源になったものと聞くと生々しいかぎりです。

芦ノ湖も眼下に、しかもかなりの高見なので遊覧船が四隻も五隻もおもちゃのように見えています。結局芦ノ湖を一周したことになり、そのあと駒ケ岳からもう一度湖を見下ろす事になりました。駒ケ岳は気温9度で寒く、富士山も雲に覆われて 最近余り富士山との出会いがないなぁ~と思ったことでした。

【芦ノ湖に立つ霧】

 

裂き織

2009-10-03 | Weblog
          
                                【壁掛け】

「裂き織」は南部裂き織が始まりだそうですが、布のリサイクル・・つまり布を裂き糸状にしてから、機織機で作品に仕上げたものが、今では素晴らしい芸術作品になっていると聞いてはいたのですが、手元で拝見して色々な思いに捕らわれています。

母はもう亡くなって二十数年になりますが、その形見の絵羽織を従姉妹が裂き織にして私たち兄妹 姉・兄・私に送ってくれたことが、懐かしく嬉しく写真を入れて細長な壁を見つけて架けてみました。

あッ!ベートーヴェン。

2009-08-19 | Weblog

【 あッ!ベートーヴェン。交響曲演奏会に寄せて 】

東京交響楽団が大友直人の指揮で「あッ!ベートーヴェン。」のシリーズを神奈川県立音楽堂において開始したのは、7年前ー2002年の事だった。
年1回ずつ4年にわたり、1日のコンサートでベートーヴェンの交響曲を3曲ずつ演奏しー当然だぶって取り上げられた曲もあるわけだがー2006年7月にはその締め括りとして、3日間連続で全9曲を番号順に演奏した。
「8番」と長大な「9番」を一夜のコンサートに組み合わせる例はそれまでにもなかったわけではないが、他の7曲を一夜に3曲あるいは4曲ずついっぺんに演奏するというケースは、まず稀有なものであったろう。

この「あッ!ベートーヴェン。」のシリーズの指揮は、翌07年からは若い正指揮者、飯森範親に引き継がれた。飯森は少し前、ドイツのヴュルテンブルク・フィルハーモニー管弦楽団の音楽総監督だった時にベートーヴェンの交響曲9曲をレコーディングしたことがある(オクタビアレコード)。それは天馬空を行くがごとく颯爽とした、しかも非常にニュアンスの細かい、綿密な神経を行き届かせた快演ぞろいであった。
                
神奈川県立音楽堂は、今年「開館55周年」を迎えている。その歴史の長さには、改めて感慨を憶えざるを得ない。開館の1954(昭和29)年11月4日、「神奈川県立図書館音楽堂落成会館記念」演奏会には、エッシュバッハ指揮するN饗が出演。
ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲やベートーヴェンの「第7交響曲」で華々しく杮落としを行ったという記録がある。

上記は《東条碩夫ー音楽評論》氏に依るものです。長文を勝手ながら抜粋させていただきました。 

【財団法人 東京交響楽団 正指揮者 飯森範親】
          

このシリーズを夫は隔年で数回聴いていて、私は初めての同行でした。
大分改装されていて美しくなっていました。舞台背面 我々からは正面ですが、クリムトの絵が全面に描かれていて度肝を抜かれた気分でしたが、指揮者飯森氏のプレトークで「まさかクリムトの絵?・・・似せて音楽の場面を描いたのでは・・」と触れていただき安堵しました。又「エリーゼのために」の話では、ベートーヴェンの理想の女性のテレーゼは実在し、いくつか曲が作られました。とも。

皆既日食

2009-07-25 | Weblog
                          【ダイヤモンドリング】

日本中が沸いた皆既日食でした。私の入会している撮影会からも「日食撮影特集号」が届き詳細に注意書きがありました。

☆ピンホールの利用  ☆木漏れ日を見る  ☆日食グラスを使う
☆デジタル一眼レフに依る撮影  ☆天体望遠鏡に依る撮影
★撮影方法
☆三脚・リモコンの利用  ☆ピント マニュアル 絞り ISO WB

色々とテクニックを書き送って頂いて、私のような未熟者が一人で撮ろうとするにはとてもありがたく、準備を進めたのでした。

前日からの天気予報は決して芳しいものではありませんでした。
ニュースに依ると東京ではかなりの人が、撮影可能だったとか。横浜でも薄日が差した処もあったようですが、我が家の上空は厚い雲が幾重にもガードしていました。

太陽の撮影は諦めても、せめて木漏れ日の地面の半月を撮ることが出来たらなぁ~と・・思い続けたのでしたが・・
このblogは後々読み返すこと、老後の楽しみになるものならばとの思いもあります。それにはNHKから映像を拝借する事に決めて世紀の天体ショーを数枚貼らせていただきましょう。

     【日食の始まり 恥じらいの色に見える】
      

     【皆既日食 コロナ100万度の輝き】
           

   【プロミネンス 太陽のアクセサリーのような・・地球数個分の大きさ      温度は1万度と低い】
                   

     【ダイヤモンドリング 皆既食が終焉を迎える時再度ダイヤは輝く】
       

今回46年振りに日本領土の上空に皆既日食は出現しました。太陽と月と地球の絶妙な位置関係で起るのです。太陽は月の400倍 その一直線上に地球も並んだ時天空の神秘は始ります。
数分間の漆黒の中で、しかし彼方では夕景のような朝焼けのような光景が現れていました。

続 ジパング 大人の休日倶楽部

2009-07-14 | Weblog
              【函館山からの夜景】

  『函館』 

仙台での翌朝はホテルを6:00スタート。八戸で新幹線を特急に乗り換えて青函トンネルを体験です。入坑も出坑も2~3回トンネル内と外を繰り返して海底深く疾走し窓外は先ず見えないものでした。

窓が明るくなって右手に津軽海峡が見えてきます。その向こうの島影が下北半島。松前半島を走っているのですが、田舎の風景が続いていたような・・お城のある城下町などはもう少し内陸なのでしょう。

函館駅は明るくて大きく立派です。十数年前に飛行機で来た記憶など無いに等しく
余計に歩いたところもありました。

まず五稜郭見物に。我が国初の西洋式星型城郭で1857~8年を要して、武田斐三郎が洋式城郭設計を手掛かりに見事に築城しますが、実戦を交える事の無い日本最後の内戦の舞台となったのです。(旧幕府軍から脱走した、榎本武揚、土方歳三らが五稜郭を占拠。しかし明治新政府に攻撃されて城を明け渡します。この箱館戦争の勝利に依って明治新政府は、日本統一を果たしました。)

五稜郭タワーに登ると全貌を見ることが出来ますが、私のコンパクトカメラには収まりきれませんでした。

  【五稜郭】
    

五稜郭タワーから後ろを振り向くと函館山が見えます。頂上には雲が掛かっていて、この山からの夜景も楽しみにしているので気になるところです。
左端が立待岬 アイヌ語でピウシ「岩上で魚を待ち捕獲する所」の意味があり、北方警備の台場が設置された要所です。

  【函館山の東端】
    

函館は北海道の地図から見れば津軽海峡に拳を突き出したような小さな半島ですが、東西南北に碁盤の目のように整然とした道路があり、市電が頻繁に通る活気のある街でした。

登山を楽しむ私達は函館山に登る計画を立てますが、足を痛めた私のために ホテル予約の際タクシーの送迎を予約して頂いていました。
夕刻 「函館山行き」のお迎えの際、山裾の観光もお願いしました。

「はこだて明治館」は旧郵便局の建物をショッピングモールにした、クラシックな赤レンガ三連棟の洋風建築は通り過ぎてしまって残念でしたが、海岸辺りの倉庫群では撮影が可能でした。「森」の字が目立つ建築群は「金森洋物店」と言い 多くの希望や欲望が満たされる場所・ミュウジアム等もあると言うことでした。

【赤レンガ倉庫群】
 
     
          

坂道に入ると、傾斜を上手く利用して教会や寺院 領事館 美術館 図書館等公の建物や、外人墓地など高見から一望する事が出来るのです。
下記の写真は日本で最初のギリシャ正教を伝導した由緒ある教会で、ロシア領事館付属聖堂として建てられ、大正5年に再建されたものです。

【ハリストス正教会】
         

山頂を窺うとやはり霧にかくれています。ここまで来たのですから行くべきでしょう。蛇行を繰り返して頂上に降り立ちましたが、7時を過ぎても明るいのです。霧は絶えず動いていてポツリと灯りが見えました、がしかし30分を過ぎtaxiとの約束は迫るし 泣き泣き諦めて下山を決行。中腹くらいに下った時 宝石をちりばめた状態が目の前に「まぁ 幸運!」とクルマから降りて何枚か撮る・・小型三脚にセルフタイマーも用意したのに・・何も使えずトップの夜景がかろうじて一枚。他は皆ブレてしまっていました。

   【海洋に一隻 霧の中を只ひたすらに・・】
          

ホテル近くのレストランで降ろしてもらう。函館といえば海の幸 昨夜に続いて今宵も御寿司を。
翌朝は遮るものの無い窓際での朝食を。波の打ち寄せる砂浜を犬を散歩させている人がいます。お天気は上々のようです。
さぁそれでは昨日下見しておいた朝市に行きましょう。
先ず目に飛び込んで来たのは蟹 それもタラバ蟹が凄い。数匹を親戚に送る・・他には松前漬けや半生の帆立貝や夕張メロンのゼリーも美味しそう。結構広い建物の中や道沿いに宣伝合戦が繰り広げられ、掛け合いも体験して面白かったです。

     【タラバ蟹】
          

3日目のお昼過ぎに函館駅から出発。八戸駅で新幹線に乗り換えただけで、何処にも降りず、乗車し続けて東京駅へ そして横浜駅へと帰ってきました。長時間だったのにそれほどにも感じず 眠ったわけでもないのに・・お喋りをし続けたのでしたっけ・・これまでツアーに馴れて、二人だけの責任で行動をした緊張感が旅を引き締めてくれたかもしれません。
Kさん 旅行の企画をして頂き、我が家の事情でギリギリまで決定できず、ご心配の限りを尽して申し訳なく 感謝申しあげます。
          

ジパング 大人の休日倶楽部

2009-07-10 | Weblog
                           【伊達政宗 騎馬像】

「JR東日本全線 3日間乗り放題 12,000円」を友人にに誘われて、何のことだか?・・と言うくらいジパング倶楽部にはご無沙汰をしていて、解約しようかなと・・月刊誌も見なくなっていたのです。

未曾有の不況は、クルマも電車も商品や食料品等々知恵が絞られて 我が家にも揺さぶりをかけて来ています。

横浜から新幹線で最長は函館。大好きな北海道に鉄路は始めての経験ですが、その手前の東北地方も始めてなので、目一杯欲張って計画が立ちました。
第一日目が仙台地域。
第二日目が函館。

2日に分けてblogにする事に致しましょう。

 『仙台&松島』 

切符の使い始めは横浜駅→東京・新幹線→仙台・仙石線→松島海岸駅(仙台まで往復)
日本三景の一つ松島着。梅雨の最中も程よく晴れて海には島影が遠く近く点在しています。
【あぁ 松島や松島や】
     

【瑞巌寺】
瑞巌寺は9世紀に天台宗の「松島寺」として創建され、その後1605年伊達政宗は、衰微していた寺院の再建に着手して、寺号を松島山瑞巌寺と改め大伽藍を完成しました。伊達家の菩提寺なのです。
           
          《本堂 国宝 撮影不可のためパンフレットより》  
          

     《庫裡 国宝》
      

         《瑞巌寺参道》    
          

【五大堂 透かし橋】
瑞巌寺守護のため五大明王が祀られている堂宇があり、島全体が聖域とされています。この堂宇への参詣に心身が乱れないよう、脚下を照顧して引き締めさせるための配慮と言われています。
           

【松島博物館】
観瀾亭は仙台藩主代々の月見御殿です。今では和菓子とお抹茶を頂くことができます。その奥に博物館がありました。
 
          《伊達家家紋》 
           
          伊達家には8種類の紋があるそうですが、この額には左から
          ①三引両紋   ②雪薄紋   ③九曜紋  
          ④蟹牡丹     ⑤竹に雀紋

          《屏風》
          

松島で名残は尽きねども先を急がなければなりません。仙台に引き返すと今宵一夜の宿は駅に近く手荷物と共にチェックインを済ませ、仙台城址(青葉城)を目指したのでした。るーぷる仙台と言うバスは観光バスで地図で見ておいたより複雑な行程を辿りましたが、緑豊かで広瀬川は蛇行しているのか又出会ったりしてやがて直線に切られた四角い石積の石垣が大きく立ちはだかった所が大手門跡でした。
坂を登り詰めると、仙台の街が遠くまで広がって見えています。トップの騎馬像が
象徴的でした。
近くに土井晩翠の一廓があって、何度も唄ったあの歌がこの地で生まれたのかと感慨深いものがありました。

【土井晩翠の肖像】
 

  春高楼の花の宴 めぐる盃影さして

    千代の松が枝わけいでし むかしの光いまいずこ

  秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて

    植うるつるぎに照りそいし むかしの光今いずこ

  いま荒城の夜半の月 変らぬ光たがためぞ

    垣に残るはただかつら 松に歌うはただ嵐

  天上影は変らねど 栄枯は移る世の姿

    写さんとてか今もなほ ああ荒城のよはの月

青葉山は御裏林と呼ばれていて、鬱蒼とした林の中をバスは進み東北大学の方向から街中を進んでゆく内に様子が解かってきた所で下車して高いアーケードの賑やかな通りを歩いてみました。間もなく始る「仙台の七夕祭り」の道らしい所とか地下道など歩きながら、煉瓦建ての長く美しい仙台駅が見えてきたので、見下ろすように建つオシャレなお寿司屋さんで桃リキュールで乾杯などしながら良き日を締めたのでした。

横浜 みどり税

2009-06-15 | Weblog

   【バラのアーチ】

横浜市の税金が増加する?
市内の緑地保全を目的とした税で、平成21年度から5年間にわたり 市民税に上乗せする形で、個人には年間均等割り額の9%相当額が課税されるというものです。 
金額的には年間900円 月になおせば75円で、この街に「ミドリ」が増えるのであれば・・と可決されたのでしょうか。

『横浜市環境創造局』と言う部署があり、「150万本植樹行動」と言うスローガンが掲げられた時私は賛同して著名をし、植樹したら写真を送付すると言うものでした。バラのアーチがようやく落ち着いてきたのでPC送付を試みたのです。
そこには画面一杯に形良く組み合わさった大小の植物が目に飛び込んできました。
我が家のバラも載っているではありませんか・・そして別のページには私のフルネームもあって嬉しかった事が思い出されます。

アレから何年も経ちすっかり忘れていましたが、この期に開いてみると写真はなくなっていましたが、名前は膨大な数になって胸に込み上げて来るものがありました。

『みどり』にまつわる物として

【人生記念樹配布】があります。
その都度人生記念のタイトルは変るのですが、銀婚式に当たる年に出くわして申し込んでみたのです。その時は『ドウダンツツジ』が記念樹でした。今では丸く刈り込んで胸の高さまでになっています。

【開港150周年の森】と言うのもあります。
我金沢区では『金沢自然公園』が第2号地としてあり、只今5号地まであるそうでまだまだ続くようです。

我が家ではもう庭木のスペースは無理ですが、小さく花や野菜を植えて日々何かしら緑と触れ合っています。例えば・・・
     【オリエンタル・リリー】
     

            【ヤマホロシ】
                  
                    
     【アルストロメリア】                                                                        

        【カボチャ】
                   
       
             【梅】
               

                   【ピーマン】
                    

ローマ亡き後の地中海世界 上

2009-02-20 | Weblog
【本誌表紙  ローマ時代の遺跡の向こうに広がる夏の地中海(北アフリカ:リビアのレプティス・マーニャ)】


2007年のこの季節 「ローマ人の物語第XV卷 ローマ世界の終焉」を胸に留めてより2年、塩野七生氏はその後を書き進めてくださいました。あの完膚無きまでに打のめされて・・立ち直るには長い年月が・・それは1000年にも及んだのですから。



その1000年を476年に滅亡した西ローマ帝国を奪還して、ビザンチン帝国の名で定着しつつあった東ローマ帝国が、イタリア半島をゲルマン民族とまだら模様に支配する時代になっていました。

570年にアラビア半島のメッカでマホメッド誕生。布教開始が613年 死は632年 その20年の間にアラビア半島の半ばをイスラム化し、その後継者も「右手に剣、左手にコーラン」と破竹の勢いで7、8世紀には広大なアラブ諸国から北アフリカまでの全てを、そしてジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島までも征服するのです。

イスラム教のジハード(聖戦)とは、他宗教を駆逐するその一言に尽きたのです。
陸路の次には目の前に広がる海から、海賊となって先ずシチリアに目をつけたのです。人の多く集まる教会や修道院を襲うや一度に800人もの人々を拉致して奴隷にしたのです。豊かな穀倉地だった北アフリカを再び実らすよりも、海賊となってキリスト教国を略奪し食料を 金品を そして奴隷を手にする早道を選ぶのです。船の漕ぎ手を増やす事が良い循環を作ってゆくのです。
やがてイタリアの南端から、中腹からと海沿いにフランスの沿岸、地中海の島々とあらゆる所を略奪し尽くそうとしたのです。



イタリア側はこの暴風に手をこまねいていたわけではありません。物見の「サラセンの塔」を築き防戦を試みます。現在も多く残っているその風景を。

【ティレニア海をのぞむチェルチオ】
          

【ナポリ】
          

しかしこの監視塔は敵の来襲を見つけても、隠れる、逃げる以上にはなすすべがなかったのです。
敵族は次第に大胆に奥地に入り込むようになって、遂にバチカンを揺るがすほどになってくるのです。キリスト教の大本山バチカンの法王もキリスト教を守るために戦う気構えを持たざるを得なくなってゆくのです。

800年フランク王国のシャルル王は、バチカンの法王レオ三世の呼びかけに答えてローマに入場します。神聖ローマ帝国皇帝の冠を授けられるためでした。
後年「ヨーロッパの誕生」とされる、中世史上のビッグ・イベントであったのです。

キリスト教とイスラム教の対立は大小はあっても、少しの衰えも無くしかしキリスト側も戦いに挑む姿勢は次第に出来つつありました。
十世紀の初頭南イタリアの山中を、40人のノルマンの若き騎士達が訪れていました。聖地パレスティーナ巡礼の帰り、その山中に大天使ミカエルに捧げられた聖堂があったからでした。この地の有力者から「南伊の支配者」を要請されるのです。ノルマンに帰って仲間を連れて戻ってきたのです。新進気鋭の若者たちは南イタリアを征服し、イスラム化していたシチリアを目指すのです。戦いで250人は10人に減っていたにも拘らず・・この新天地に建国する気概で征服に成功したのです! 勢い付くにつれて本国からの支援やイスラム化されたシチリア内のイタリア人の支援があったのでした。

【ノルマンに依る征服前のヨーロッパ】
     
【ノルマンに依る征服後のヨーロッパ】
     

十一世紀に入る頃には、イタリア側からの「聖地奪還」に紆余曲折しながらも十字軍を結成して二世紀の間、地中海を東へと進みイェルサレム攻略に成功するのです。そしてシリア・パレスティーナでの通商基地が次々に築かれていったのです。
イスラム側が後退したかに見えますが、武力よりも通商に向かう、つまりお金での解決が多くなってゆきました。キリスト側は大量に拉致され奴隷になっている人達を解放すると言う大きな目的を持っていました。病院を設立し医師を送り込む、そしてなんと司祭まで常駐する約束ができたのですから。

中世を西ローマ帝国の滅亡からコロンブスのアメリカ大陸発見までとするならば、
この上巻は滅亡の淵からの長い長い苦難の1000年であり、目を覆いたくなる苦難の中のキリスト教の復活を読みとくうちに、信仰の力の偉大さを感じずには書き進む事はできませんでした。

(写真は全て本書からの引用)

謹 賀 新 年

2009-01-01 | Weblog
                  
                      【雄姿 ’08 12 20 撮影】


  
              新年がお幸せでありますようお祈り申しあげます。

               楽しい一年を祈念して! 2009年 元旦

              

              
               本年も宜しくお願い申しあげます。 花水木



2008年を振り返って

2008-12-31 | Weblog
               【昭和記念公園にて・・ 一眼レフ撮影の公開】

『トラバ練習版:2008年はどんな年でしたか?』のお題に「間違いなく年を重ねたなぁ~」の思いです。
そして昨年と変らずに行動出来た事には感謝しながら、少々背伸びした事も二つばかりありました。

何時の頃からか日本から渡ってポトマック河畔に咲く桜を見てみたい! と思うようになっていたのです。家庭の事情で諦めかけていたのですが廻りの手助けも得て行くことが出来ました。満開の桜を前から横から湖越しにと かなりの時間をいただき幸せでした。初期のものは古木になって (この幹が写真を引き立ててくれるのですが・・) 殆ど植え替えられたそうです。

その後 ニューヨークとボストンに行くのですが、グランドゼロはアメリカの悪夢を払拭するまでには至っていなくて大工事現場の様相でした。しかし現在の経済の惨状を目にせずに良かったのかもしれません。

三都市とも美術館に行くことが出来て、その全てで写真を撮ることが出来ました。ヨーロッパの多くの美術館も写真はOKでしたから・・我が国との違いを思ってしまいます。

次に 一眼レフデジタルカメラを買ってしまった事です。写真撮影は大好きながら機能の習得に自信が無くて今まで手を出さずにいたものを、愛用のカメラが故障して修理よりも高度な方向にいってしまったのです。後悔はしないけれど憶えても忘れる速さに口惜しさが募ります。

同じ機種を持つ人達の会に入って撮影会に何度か参加し「これが上達の道」と言われると、そうかも・・もうこれしかないと思っているのです。


アサギマダラ

2008-12-10 | Weblog
                            【カニバサボテン】     

本日朝刊の一面記事に「傷だらけのアサギマダラ」が載っていました。胸の潰れる思いで読みました。 冷凍保存されたようです。
私がアサギマダラを知ったのはまだ数年のことなのです。そしてその姿をカメラに
収めたのもまだ2度だけなのです。
  
          

     
ヒラ~リ ヒラ~り と優雅に飛んで・・「それでは捕獲されたり、食べられたりしちぁうよ~」と、とても心配でした。それは杞憂だったかもしれません。なぜ?って多くの善意の人たちに依って、マーキングしては放されて1000キロ以上の旅を続ける事が出来ているのですから・・・
そして外敵に襲われない秘密があるのです。大葉ウマノスズクサのような毒草を食して体に毒を蓄えて外敵から身を守る事が出来るのです。

          【初めての出会い 箱根湯坂路’06 9 17】
          

          【二度目 伊吹山でオタカラコウの蜜を・・今夏】
           

小さな命 夫々に夫々の命 一生を全うする姿に感動を覚えます。

中学生の時だったでしょうか 次の詩を思い出しています。

『てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。(「春」安西冬衛)』