犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その59

2013-10-17 22:37:03 | 国家・政治・刑罰

 人の命を奪った目の前の依頼者は、2通の手紙を前に打ちひしがれている。私は、自分はこうはなりたくないと心の底で思っている。被害者と加害者とではどちらのほうが苦しいか、より生き地獄なのはどちらかという抽象的な議論の無意味さを改めて思い知る。政治的な二項対立は極端に流れがちであり、議論は自己目的化する。

 依頼者のまとまらない言葉からは、被害者の家族からの手紙を確かに読んだことがわかる。そして、その論理を内面化し、自問自答したことがわかる。それは、人の命を奪ったという端的な事実であり、その事実が重いとか軽いとか、怒られるとか怒られないとかの解釈ではない。評価や意見は、あくまで他人事に対して行うものである。

 「自分の人生は終わりました」と依頼者は言う。身の置き所のなさを指して、「死んだほうが楽です」と言う。その瞬間、依頼者の心の中に内面化された被害者の家族が、「あなたは生きているではありませんか」と語る。「死んだほうが楽だと言いながら、あなたは死んでいないではありませんか」と語る。私はそのように察した。

 依頼者は、「私は死ねばいいのでしょうか」と独り言のように話す。疑問の中に反語が混じっているのを見て、私は返答を留保する。依頼者が「生きているほうが苦しい」との心情を吐露するや否や、依頼者の心の内の被害者は、「たとえ苦しくても生きているだけでよかったのだ。ただ命があるだけでよかったのだ」とまた語る。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その58

2013-10-14 00:16:38 | 国家・政治・刑罰

 電話を切ると、私はまた一瞬で気持ちを切り替えて元の仕事に戻る。「お待たせして誠に申し訳ございません」というお詫びのポーズの裏には、「私はこんなに沢山の事件を任されて忙しいんです」という愚にもつかない見栄や、「あなたの事件だけに時間はかけられないのです」という察しを求める意思表示がある。

 本来、加害者と被害者の間に入って究極の「誠意」や限界的な「謝罪」を論じ、「一生涯反省し続ける覚悟である」などと述べる立場の者は、自己欺瞞に染まってはならないはずである。しかしながら、この点を誠実に生きようとすれば、私は激しく神経を消耗し、精神を病む危険が大きくなる。これはただの独り相撲である。

 2通の手紙のうち、加害者からの手紙には、明らかな政治的意図が付与される。それは、手紙を出すことそれ自体に意味があり、反省の情を示すものであり、内容は型通りでよいということだ。「お詫びの言葉もなく筆が進まなかった」という者のほうが、実際には謝罪の意志を示さずに逃げたとの非難を受けてしまうからである。

 言うなれば、加害者からの手紙は、債務者から債権者に対する借金返済の猶予の申し入れに似ている。会って直接話したくはないが、手紙も出さなければますます気が重くなる。そして、向こうに受け取らせてしまえば、アリバイ作りの第1段階は完了である。極端な話、文面は別人が考えても構わないし、代筆でも構わない。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その57

2013-10-13 23:48:40 | 国家・政治・刑罰

 もう1本の電話は、自転車に乗っていて車と衝突した被害者の依頼者からである。幸いにも怪我は軽症であり、後遺症もなかった。ただ、彼はもともと友人知人からかなりの借金をしており、「賠償金が入るからすぐに借金が返せる」との約束をしてしまっていたため、イライラして事務所に催促の電話ばかりかけてきていた。私が「物事はあなたの都合だけでは進みません」と説明しても、焦っている依頼者には全く通じない。

 事故の加害者が加入している保険会社の担当者は、入社したばかりの新人社員であった。保険のシステムは複雑であり、多数の組織への照会や書類の取り寄せが煩雑であり、1つのことがなかなか進まないところがある。過失割合や休業損害の計算も簡単ではない。保険会社からの回答があまりに遅いため、私が定期的に催促の電話を入れるたびに、担当者は明らかに声が小さくなり、狼狽するようになっていた。

 ある時の保険会社へ電話のことである。担当者の上司が電話中の担当者を怒鳴りつけ、電話が中断され、そのことでまた上司が激怒して暴言を吐く。私はその一部始終を聞いてしまった。担当者は泣きそうな声で、「まだ処理が終わっていません」と私に謝る。山のように溜まった仕事と、クラッシャー上司の罵倒とが、電話口からも手に取るようにわかる。この担当者に対し、事故被害者への想像力を求めるのは無理だと思った。

 つい先日、この保険会社の別の社員から電話があった。前任者が長期欠勤となったため、担当が替わり、回答がまた遅れるというお詫びである。私は苛立ちしか感じなかった。そして私は、この件の依頼者からの催促の電話に対し、状況を報告するや否や、「保険会社の担当者なんて私には関係ありませんから」と激怒される。こんな事務所のホームページには、「労働問題を解決し、事故の被害者を救済します」と書いてある。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その56

2013-10-11 23:03:44 | 国家・政治・刑罰

 法律実務の現場において垂直的思考が不可能なのは、同時並行でいくつもの案件を進めているからである。その打ち合わせの際にも、私への電話が何本かあり、話は中断した。目の前の依頼者と電話の相手方のどちらを優先させるかは、その時々の判断によるしかない。気持ちを瞬時に切り替えることと、1つ1つの話に親身になることは、生身の人間において実際に矛盾を生じるものである。

 電話の1つは、電車内での痴漢の件の刑事弁護を引き受けている依頼者の男性からであった。在宅で取り調べを受けている容疑者であるが、担当の副検事からは、示談が成立すれば不起訴が相当との見解を示されている。その男性はかなり焦っており、連日のように途中経過を電話で尋ねてくる。正直に言って仕事の邪魔である。「クレーマー当事者」とのレッテル貼りをすれば、私の心は楽になる。

 「相手方の留守電に事務所から何回かメッセージを残したのですが、まだ返事が……」と私が言いかけると、男性は「人のせいにしないで下さいよ。どれだけ待たされるんですか?」と激怒する。私は、「少しは自分の罪を反省して下さい」という言葉を飲み込み、「催促は逆効果です。相手があることですから……」となだめる。お金をもらってサービスを提供することは、善悪について真剣に考えなくなることである。

 多数の案件を並行して進めていると、力の入り具合に確実に差が出てくる。私は、この痴漢の加害者である依頼者に全く親身になっていない。他方で、被害者の女性に形だけの謝罪をし、示談金の話ばかりをすることについて、女性の尊厳を金銭で買収しているかのような後ろめたさを覚えるばかりである。この点について、刑事弁護人の職務倫理を問題にするのは、現場を知らない抽象論だと思う。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その55

2013-10-10 22:58:43 | 国家・政治・刑罰

 忘れかけていた過去の記憶が、その時の無数の名付けられない感情を伴って、一気に凝縮されて脳裏をよぎる。そして私は、また現実に戻る。「過去はどこに存在するのか」と自分の脳の中を探しに行っていた大学院生時代の考察がひどく幼稚なことのように思われ、それがまた遠い過去であることに気付かされる。

 日常の仕事に必要不可欠な事務処理能力とは、1つのことに深入りしない要領の良さのことである。すなわち、瞬間的な葛藤を脇に置くことである。実際に、私はこれらの2通の手紙に垂直的に吸い込まれそうになるのを、水平的な地平で防いでいる。私が今やっているのは、文学や哲学ではなく、実務的な法律の仕事だ。

 目の前の2通の手紙はいずれも手書きであるが、その意味は全く異なっている。依頼者の手紙のほうは、パソコンで下書きをし、挿入や削除の推敲をしたうえで便箋に清書したものだ。これに対し、被害者のほうは、パソコンに向かうことが不可能である。変換でなかなか目的の漢字が出てこないだけで、パソコンは壁に投げつけられる。

 弁護士が作る実務的な報告書は、多忙な相手方に要件が一読了解で要領よく伝わるかが巧拙のポイントである。A4で2枚以内にまとめられなければ、まずは形式面で失格との推定が働き、入口から不利になる。このような脳の構造を作り上げてきた実務家に対しては、手紙の手書きの文字が示す行間は伝わらない。

(フィクションです。続きます。)

JR横浜線踏切事故

2013-10-07 00:12:48 | 時間・生死・人生

神奈川新聞 10月7日0時0分配信より

 横浜市緑区のJR横浜線踏切で倒れていた男性(74)を助け、電車にはねられて亡くなった会社員村田奈津恵さん(40)の通夜が6日、同区の斎場で営まれた。親族や友人らが斎場の外まで長い列をつくり、死を悼んだ。参列者らによると、祭壇には村田さんがほほ笑む遺影が飾られていたという。

 菅義偉官房長官が安倍晋三首相名の書状を贈り、黒岩祐治知事、林文子横浜市長、県警からも感謝状などが渡された。政府関係者によると、菅氏は焼香後、「人命を重んずる真に勇気ある行為を心からたたえる」と首相の言葉を代読した。

 村田さんの両親は「通夜の席で、奈津恵に向かって、褒章や感謝状を頂いたことを伝え、奈っちゃんは偉かったよと伝えました。毎日一緒だった娘が突然いなくなり、日ごとに実感として悲しみが込みあげて参りますが、私たちも奈津恵の行動を誇りにして、一生懸命頑張って生きていきたいと思っております」とのコメントを出した。


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 その日、人身事故で電車が不通になっているとのニュースを聞いたとき、私は例によって飛び込み自殺の言い替えだろうと嫌な気分がした。「自殺」を「事故」と婉曲的に表現するようになった頃から、人間の存在価値が下がり、日本人の語る言葉が刺々しくなり、日本人は他者に無関心になったと感じていたからである。そして、通勤客は自殺者に哀悼の念ではなく不快感を覚えるようになってきたからである。

 それだけに、ニュースで詳細を知るにつれ、私は自身の軽率さを恥じるとともに、「生きていることの後ろめたさ」の感覚に襲われてきた。これが人間の正当な倫理のあり方なのだと思わされた。世の中が間違っているとの憤慨が、自分以外の全員が腐っているとの独善に置き替わってしまえば、それはただの自己中心である。すなわち、他者への無関心にほかならない。

 この出来事がこの時代に大きく取り上げられたのは、恐らく多くの人が「生き残った者の罪悪感」を覚え、この感覚が現代に残っていたことの奇跡に驚いたことの結果なのだろうと思う。しかしながら、世の中捨てたものではないとの希望は、そのような世の中を造っている人が先に逝くという絶望をも示してしまったことになる。この不条理は到底割り切れるものではなく、説明がつかない。

 この事故は、単なる悲劇として片付けてはならず、あるいは美談としてありきたりの称賛で誤魔化してはならず、再発防止の教訓の話にすり替えてはならず、かつ結果論で原因や責任を分析してはならないものだと思う。人の命の価値が下落したこの時代に、私はただ絶句し、同じ国で同じ時代に生きた者として、村田さんの命に恥じない生き方をしなければと感じるのみである。

ある日の刑事弁護人の日記 その54

2013-10-06 22:18:13 | 国家・政治・刑罰

 その手紙の母親が述べるところの「私のような思いをしてほしくない人」の中には、読み手である法律事務所の人々も当然含まれている。その母親も、ほんの数ヶ月前までは「このような思いをした人」ではなかった。数ヶ月後に誰がどうなっているのかは、万人にとって確率論でしかなく、人は現実の直視を避ける。

 イソ弁(勤務弁護士)の先輩は、彼自身も家族も事故や事件で命を落とさないことに根拠のない自信を持っている。手紙の母親の希望は、「その自信をずっと持ち続けることができるように」ということである。「自分はそのような目に遭っていない」という優越感が今後も続くよう、陰ながら願うということである。

 別のイソ弁の先輩は、「事務所の目の前で大事故でも起きないものか。すぐに名刺を渡しに行くのに」と笑う。ボス弁は、「遺族は無理な目標を掲げることで、死者を利用して自己満足に浸っているだけだ」と怒る。手紙の母親の願いは、このような笑いや怒りを有している者も含み、全ての人々に向けられている。

 被害者の家族からの手紙と向き合うのに、弁護士という職務の形式は端的に場違いだと思う。「社会正義の実現」という目で手紙の文面を読んでしまえば、そこに書かれているものは政治的意見と自己主張のみとなる。恨みや憎しみが厳罰感情に転化するのは、多くの場合、言葉を受け取る側の解釈の結果である。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その53

2013-10-04 22:44:25 | 国家・政治・刑罰

 「二度とこのような思いをする人がいないように」と社会に対して願うことは、現世的な損得勘定によれば、本人は何も得をしない。全ては他者のための願いであり、社会的な名誉や称賛の追求とも無縁である。それは、「私のような人生を送らないでほしい」という自己否定を含み、成功や幸福とは対極的な倫理を示している。

 もとより現代の情報化社会では、自己顕示欲と上昇志向の正当性が圧倒的な力を持ち、成功と幸福の価値も世間を覆い尽くしている。そして、人は他人の成功を心のどこかで嫉妬し、他人の不幸は確かに飯がうまいと感じる。このような環境の中で、純粋に献身的な希望を持つことは、それ自体が非常に生きづらく苦しいことだ。

 「交通死亡事故がゼロになるように」という思いによって防がれた事故は、それが防がれて存在しないものである以上、人の目には見えない。従って、その貢献が具体的な形として評価されることはない。実際に人の目に見えて評価されるのは、死亡事故が起きたあとで、多額の賠償金を獲得する弁護士の手腕のみである。

 現代社会の法制度は、善悪の基準で考える倫理が後退し、もはや市場競争原理という損得で考える経済システムに支配されている。このシステムの側から見れば、被害者側の利益として解釈されるものは決まっている。すなわち、厳罰感情や復讐心を満たして溜飲を下げるということであり、ここに利他性の把握は欠落する。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その52

2013-10-03 23:19:20 | 国家・政治・刑罰

 その時の母親の手紙も、今回の父親の手紙も、書かれずに示されているものは同じである。これらは、普通に世の中に飛び交っている手紙やメールとは異次元の言葉によって綴られ、狂気に支配されている。また、ここで語られている「永遠」や「無限」は、この世の生ぬるいそれをなぞったものではない。

 これらの手紙が記された最終的な目的は、賠償金の獲得や厳罰の実現でない。これは普通の読解力があればわかる。この時点で、何をやっても死者は戻らないことの逆説を文面から読み取れないのであれば、話はそこから進まない。この逆説を理解しない者は、「命を返せ」という正論をも嘲笑し、矛盾に陥る。

 ただ、普通の読解力を有する者でも誤りを犯すのは、「二度とこのような思いをする人がいなくなるように」「このような事故がゼロになるように」という言葉の受け止め方である。手紙を支配する狂気を前提とするならば、このような悲痛な願いは、精神に異常を来した者がすがりつく夢物語だと捉えられてしまう。

 実際のところ、狂気が志向するものは破壊であり、「幸せそうに生きている人間は皆同じ目に遭えばいい」というのがここでの正論のはずである。人間の心はそれほど単純ではなく、気高くもない。私を始め、これまで幸運にも精神の限界を経験したことがない者は、狂気を宿す正気を恐らく全身では理解していない。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その51

2013-10-01 22:25:43 | 国家・政治・刑罰

 私は、前の事務所に勤めていたとき、主に顧問先であった不動産会社の社長との対応を任されていた。私はそのうち、空き地さえ見ればここには何階建てのビルが建ち、何部屋できて、駅から徒歩何分で、家賃はいくらが相場で、月にいくら入ってくるというように物事が見えるようになった。これは、地球の見え方そのものの変化であった。

 仕事をして顧問料を得るということは、本心はどうあれ、顧客から求められている仕事の哲学を理解するということである。私はその頃、「遊んでいても賃料が入ってくるから生活に困らない」という怠惰な心情に対する罪悪感が生気を失い、「土地や空き部屋を遊ばせておくこと」の害悪のほうに生き生きとした切実感を覚えるようになっていた。

 そのような顧客らとの対応に勤務時間の大半を費やしていた日常において、ただ1人「無限」「全財産」と真正面から記された手紙を目にしたとき、私は虚を突かれた。「人は誰しも金銭欲を有し、お金が嫌いな人は変わり者である」という仕事上の哲学に染まりつつ、この手紙に向き合ってはならなかった。組織人としての立場と個人の倫理観とが内心で衝突した。

 他方、金銭の万能性を信じるボス弁は、この母親に対し、最後に再び激しい敵意を示していた。それは、示談が終わって和解金を得た母親から、「償いは永久に終わらない」との2通目の手紙が送られてきた時である。ボス弁は、かようなルール違反は絶対に許されないと激怒した。加害者は家屋敷も売り払い、家族は進学も断念し、全てが破壊されれば被害者は満足なのかと憤っていた。

(フィクションです。続きます。)