犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その66

2013-10-27 23:30:42 | 国家・政治・刑罰

 依頼者の父親は、強い不服の念を語る。被害者側から来た手紙に、「保険会社ばかりが連絡してきて張本人が逃げている」と書かれていた点である。父親は、保険会社の担当者からは相手と直接連絡をとらないように指示されており、それを守っているだけなのに、何でそこまで悪く言われなければならないのかと憤慨している。いったいどうすれば向こうは満足なのか、教えてほしいと言う。

 私も少なからぬ経験を経て、新人の頃とは明らかに感覚に変化が生じてきた。「保険会社ばかりで本人が出てこない」という被害者側の絶望感が、なぜか稚拙なものに見えてしまうのである。自動車保険は金融商品であり、「事故から示談まで全部お任せ」という内容で契約して高い保険料を支払っているのに、肝心な時にそれが役立たないというのでは、商品価値がゼロだからである。

 「たとえ保険会社の指示に逆らっても被害者に誠意を直接示すべきだ」という理念は、現実のシステムが動いている場面では通用していない。担当者の頭越しに話を進めてしまえば、窓口が複数になり、話が食い違って混乱し、責任問題を生ずることになる。この点について、純粋な倫理観の吐露が経済社会の実務から一笑に付されることは、独特の屈辱感により全身の力が抜けるものである。

 近年の司法制度改革により、法は善悪から経済へとさらにシフトした。哲学は経済に太刀打ちできない。需要と供給の相関関係は人々の欲望を刺激し、不安を煽る。そして、加害者が一番逃れたいことを代行してくれる保険のシステムは、善悪ではなく損得で動く。この業界において、保険会社の顧問弁護士の圧倒的地位に対する羨望の念は、被害者の悲痛な心情に対する罪悪感を凌駕する。

(フィクションです。続きます。)