犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その64

2013-10-24 22:42:31 | 国家・政治・刑罰

 加害者と被害者の置かれた地位の次元の違いが端的にわかるのは、その仕事や勤務先との関係を見るときである。すなわち、上司や同僚など、事故とは無関係の第三者における事実の捉え方の違いである。「立ち直り」「憎しみ」「赦し」といった単純な切り分け方のみでは、それぞれの第三者の思惑が複雑に入り組む状況を見落としてしまう。

 加害者における死亡事故は、勤務先の会社にとっては社員の不祥事であり、懲戒処分などの規定に従って粛々と処理される話だ。これは制度がもとより想定済みの場面である。刑事弁護人は公判の場において、「被告人は真面目に仕事をすることによって罪を償います」と述べることが多い。これは、世間のごく標準的な価値観に沿ったものである。

 これに対し、被害者の家族のほうから述べられる言葉は次元が異なる。「息子を喪ったというのに私は普通に仕事なんかしていてよいのか」「仕事などに真剣になっている自分が許せない」といった別次元の論理である。このような言葉は、聞く者を選ぶ。経験がない者には理解できないとしても、それゆえに畏れるか、それゆえに聞き流すかである。

 全ての価値観が崩壊した状態を悟りつつ、他方で社会人として日常のルールに沿って仕事をこなすことは、人格の分裂を伴うものだと思う。しかしながら、今のところ経験のない私は、その意味するところを全身では理解していない。逆に、私にとってその心情の推測が容易なのは、被害者の家族が勤務する会社の同僚や上司のほうのそれである。

(フィクションです。続きます。)