犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その63

2013-10-23 22:09:28 | 国家・政治・刑罰

 依頼者の父親は、いわゆる企業戦士である。父親の言葉を聞くと、この事故がビジネスの最前線からはどのように捉えられるのかがよくわかる。この事故は息子にとって挫折であり、屈辱である。これは、「栄光と挫折」「成功と失敗」といった二元論におけるマイナスの部分である。現在がどん底の状態であり、ここから這い上がらなければ人生の敗者で終わってしまうということだ。

 この経済社会で語られる「挫折」や「失敗」とは、いわば人間の器を試されているような局面のことである。すなわち、1つの失敗を糧にして成長できる者もいれば、腐って転落の一途を辿る者もいる。気持ちを切り替えられるか否かが分岐点であり、ここでは「人生は一度きり」という言葉が都合よく使われる。ビジネス誌に「最強のリーダーの資質」と謳われているようなことである。

 父親にとって、この事故は突発的なトラブルという位置づけである。そして、被害者側に対する姿勢は、クレーム対応のそれである。この事故の話はできるだけ早く終わらせ、局面を切り替えさせたいが、上手く行かずに苛立っているということだ。さらには、被害者の家族に対しても「過去を引きずっていてはあなたの人生にとって損失でしょう」という視線が向けられている。

 今日の打ち合わせの目的は、父親の情状証人尋問の予行演習である。「ずっと反省を続けるなど無理だ」「一生の汚点とされるのはたまらない」といった本音は必ず抑え、特に検察官からの意地悪な反対尋問には何とか耐えるように、芝居の演じ方を指導する。「世の中で表向きに行われていることの大半は茶番である」との誰かの言葉が頭に浮かび、私はまた無力感を覚える。

(フィクションです。続きます。)