犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その68

2013-10-30 22:45:46 | 国家・政治・刑罰

 打ち合わせは1時間半ほどで終わった。依頼者と父親は、事務所に来た時よりも数段明るい顔をして帰ってゆく。私は例によって、問題の核心を避けたまま茶番劇の練習を大真面目で済ませたことへの虚脱感に襲われる。その空白ですら、依頼者から手土産の高級和菓子を頂いたことへの感謝の念などが目の前で入り混じり、私自身でも純粋な論理の把握はかなり難しくなっている。

 遺された者においては、その遺された者の内心を忖度されて慰謝されたところで、筋違い以外の何物でもない。生きている者の胸が張り裂け続けることができるのは、その内心が語られるべき者が生き続けていないからである。人間には「人の身になる」という能力がある。そして、現在の目の前の人間だけではない、過去に遡って自分以外の者の心情を想像することが可能である。

 ……痛い。何が起きたのか。わからない。車にはねられたのか。目が回る。全身が痛い。助けて下さい。死にたくない。何が起きたのか。とにかく助けてほしい。痛い。早くして下さい。死にたくない。何があったのか。死ぬのか。教えてほしい。頼みます。どうなっているのか。わからない。救急車はまだか。死にたくない。これは抽象論などではない。紛れもないこの地球上の事実なのだ。

 死とは何か。私はなぜか、大学の哲学の最初の授業で聞いた「アキレスと亀のパラドックス」の理論を思い起こす。学問的な哲学研究者からは的外れだと笑われるだろうが、アキレスが亀を追い越せないのは、まさに事故の被害者の内心の動きであると思う。そして、加害者の注意義務違反の過失と被害者の死を法律的に論じたとき、アキレスは簡単に亀を追い越してしまうのだと思う。

(フィクションです。続きます。)