犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その54

2013-10-06 22:18:13 | 国家・政治・刑罰

 その手紙の母親が述べるところの「私のような思いをしてほしくない人」の中には、読み手である法律事務所の人々も当然含まれている。その母親も、ほんの数ヶ月前までは「このような思いをした人」ではなかった。数ヶ月後に誰がどうなっているのかは、万人にとって確率論でしかなく、人は現実の直視を避ける。

 イソ弁(勤務弁護士)の先輩は、彼自身も家族も事故や事件で命を落とさないことに根拠のない自信を持っている。手紙の母親の希望は、「その自信をずっと持ち続けることができるように」ということである。「自分はそのような目に遭っていない」という優越感が今後も続くよう、陰ながら願うということである。

 別のイソ弁の先輩は、「事務所の目の前で大事故でも起きないものか。すぐに名刺を渡しに行くのに」と笑う。ボス弁は、「遺族は無理な目標を掲げることで、死者を利用して自己満足に浸っているだけだ」と怒る。手紙の母親の願いは、このような笑いや怒りを有している者も含み、全ての人々に向けられている。

 被害者の家族からの手紙と向き合うのに、弁護士という職務の形式は端的に場違いだと思う。「社会正義の実現」という目で手紙の文面を読んでしまえば、そこに書かれているものは政治的意見と自己主張のみとなる。恨みや憎しみが厳罰感情に転化するのは、多くの場合、言葉を受け取る側の解釈の結果である。

(フィクションです。続きます。)

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