神奈川新聞 10月7日0時0分配信より
横浜市緑区のJR横浜線踏切で倒れていた男性(74)を助け、電車にはねられて亡くなった会社員村田奈津恵さん(40)の通夜が6日、同区の斎場で営まれた。親族や友人らが斎場の外まで長い列をつくり、死を悼んだ。参列者らによると、祭壇には村田さんがほほ笑む遺影が飾られていたという。
菅義偉官房長官が安倍晋三首相名の書状を贈り、黒岩祐治知事、林文子横浜市長、県警からも感謝状などが渡された。政府関係者によると、菅氏は焼香後、「人命を重んずる真に勇気ある行為を心からたたえる」と首相の言葉を代読した。
村田さんの両親は「通夜の席で、奈津恵に向かって、褒章や感謝状を頂いたことを伝え、奈っちゃんは偉かったよと伝えました。毎日一緒だった娘が突然いなくなり、日ごとに実感として悲しみが込みあげて参りますが、私たちも奈津恵の行動を誇りにして、一生懸命頑張って生きていきたいと思っております」とのコメントを出した。
***************************************************
その日、人身事故で電車が不通になっているとのニュースを聞いたとき、私は例によって飛び込み自殺の言い替えだろうと嫌な気分がした。「自殺」を「事故」と婉曲的に表現するようになった頃から、人間の存在価値が下がり、日本人の語る言葉が刺々しくなり、日本人は他者に無関心になったと感じていたからである。そして、通勤客は自殺者に哀悼の念ではなく不快感を覚えるようになってきたからである。
それだけに、ニュースで詳細を知るにつれ、私は自身の軽率さを恥じるとともに、「生きていることの後ろめたさ」の感覚に襲われてきた。これが人間の正当な倫理のあり方なのだと思わされた。世の中が間違っているとの憤慨が、自分以外の全員が腐っているとの独善に置き替わってしまえば、それはただの自己中心である。すなわち、他者への無関心にほかならない。
この出来事がこの時代に大きく取り上げられたのは、恐らく多くの人が「生き残った者の罪悪感」を覚え、この感覚が現代に残っていたことの奇跡に驚いたことの結果なのだろうと思う。しかしながら、世の中捨てたものではないとの希望は、そのような世の中を造っている人が先に逝くという絶望をも示してしまったことになる。この不条理は到底割り切れるものではなく、説明がつかない。
この事故は、単なる悲劇として片付けてはならず、あるいは美談としてありきたりの称賛で誤魔化してはならず、再発防止の教訓の話にすり替えてはならず、かつ結果論で原因や責任を分析してはならないものだと思う。人の命の価値が下落したこの時代に、私はただ絶句し、同じ国で同じ時代に生きた者として、村田さんの命に恥じない生き方をしなければと感じるのみである。