犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その61

2013-10-20 23:22:03 | 国家・政治・刑罰

 短い沈黙を経た後、依頼者は奥歯に挟まっていた何かが取れたように話し始めた。「私だって社会に出てから、この苦しい時代に翻弄されつつ、毎日必死に生きてきたという思いはある。仕事にも私生活にも色々と苦労しながら、人のために懸命に尽くしてきたはずである。なぜこのような事態になってしまったのか。自分の人生がとにかく情けない」。

 依頼者からのお詫びの手紙に書かれていたことは、全面的な反省と謝罪である。しかし、それが本心の全てではない。人間は、危機的な状況に置かれれば置かれるほど、自身の自叙伝を書くことによってその存在を確認せざるを得なくなる。最大の問題は、事故を契機とした初対面の被害者の家族によって、自分の人生の足場が奪われることであった。

 刑事弁護人はその職務上、被害者の家族に対し、依頼者のこのような姿を見せないように注意しなければならない。「一瞬の不注意だけで私が積み上げてきた全人生までが否定されてしまうのか」という加害者の本音の部分は、被害者の前で言ってはならない。そして、このような決まりごとは、被害者に対する礼儀を理由とするものではない。

 人の命を奪った事実と四六時中向き合っていれば、恐らく人間は自責の念で気が狂う。そして、加害者が発狂に直面した場合に、被害者の家族と決定的に異なるところは、逃げようと思えば自分の判断で逃げられることである。「全面的に悪者にされるのは納得がいかない」という本音が隠されている以上、その反省と謝罪は必ず演技の部分を含む。

(フィクションです。続きます。)