犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その55

2013-10-10 22:58:43 | 国家・政治・刑罰

 忘れかけていた過去の記憶が、その時の無数の名付けられない感情を伴って、一気に凝縮されて脳裏をよぎる。そして私は、また現実に戻る。「過去はどこに存在するのか」と自分の脳の中を探しに行っていた大学院生時代の考察がひどく幼稚なことのように思われ、それがまた遠い過去であることに気付かされる。

 日常の仕事に必要不可欠な事務処理能力とは、1つのことに深入りしない要領の良さのことである。すなわち、瞬間的な葛藤を脇に置くことである。実際に、私はこれらの2通の手紙に垂直的に吸い込まれそうになるのを、水平的な地平で防いでいる。私が今やっているのは、文学や哲学ではなく、実務的な法律の仕事だ。

 目の前の2通の手紙はいずれも手書きであるが、その意味は全く異なっている。依頼者の手紙のほうは、パソコンで下書きをし、挿入や削除の推敲をしたうえで便箋に清書したものだ。これに対し、被害者のほうは、パソコンに向かうことが不可能である。変換でなかなか目的の漢字が出てこないだけで、パソコンは壁に投げつけられる。

 弁護士が作る実務的な報告書は、多忙な相手方に要件が一読了解で要領よく伝わるかが巧拙のポイントである。A4で2枚以内にまとめられなければ、まずは形式面で失格との推定が働き、入口から不利になる。このような脳の構造を作り上げてきた実務家に対しては、手紙の手書きの文字が示す行間は伝わらない。

(フィクションです。続きます。)