犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その52

2013-10-03 23:19:20 | 国家・政治・刑罰

 その時の母親の手紙も、今回の父親の手紙も、書かれずに示されているものは同じである。これらは、普通に世の中に飛び交っている手紙やメールとは異次元の言葉によって綴られ、狂気に支配されている。また、ここで語られている「永遠」や「無限」は、この世の生ぬるいそれをなぞったものではない。

 これらの手紙が記された最終的な目的は、賠償金の獲得や厳罰の実現でない。これは普通の読解力があればわかる。この時点で、何をやっても死者は戻らないことの逆説を文面から読み取れないのであれば、話はそこから進まない。この逆説を理解しない者は、「命を返せ」という正論をも嘲笑し、矛盾に陥る。

 ただ、普通の読解力を有する者でも誤りを犯すのは、「二度とこのような思いをする人がいなくなるように」「このような事故がゼロになるように」という言葉の受け止め方である。手紙を支配する狂気を前提とするならば、このような悲痛な願いは、精神に異常を来した者がすがりつく夢物語だと捉えられてしまう。

 実際のところ、狂気が志向するものは破壊であり、「幸せそうに生きている人間は皆同じ目に遭えばいい」というのがここでの正論のはずである。人間の心はそれほど単純ではなく、気高くもない。私を始め、これまで幸運にも精神の限界を経験したことがない者は、狂気を宿す正気を恐らく全身では理解していない。

(フィクションです。続きます。)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。