犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その67

2013-10-29 22:28:41 | 国家・政治・刑罰

 「死者に人権はない」とは、いかにも法律学らしい冷酷な物言いである。実際のところ、人権論を演繹していけば、何の冗談の要素もなく、真面目な論理によってこの命題に至る。この科学的真理を会得した法律家の目線は高い。現に存在する人間ではない者の意思を語るなど、不能以外の何物でもなく、感傷的な比喩だとされる。また、法廷で遺影を持つことは、遺族の自己満足にすぎないとされる。

 社会科学である法律の理論は、被害者とは全く別の意味で「遺族」という単語を嫌悪する。そもそも、個人の尊厳・個人主義に立脚する人権論からは、「家」や「家族」には消極的な意味しか与えられない。戦後の憲法の人権論は、何よりも戦前の「家制度」への反省から始まっている。この個人主義に反する家族に加え、科学的に存在しない死者を前提とする「遺族」は、二重に嫌がられることになる。

 個人の尊厳を頂点とする憲法論の価値を身につけることは、世界の見え方がそのように規定されることでもある。個人主義の理念において、家族とは基本的に個人を束縛する概念にすぎない。これは、封建的な家父長制が残っていた戦前には女性に選挙権がなく、家長の権限が絶対的であったという歴史的背景が根底にある。個人主義は、家族の一人が他の家族の意思を推測することを強く否定する。

 私が知る範囲では、憲法の個人の尊厳・個人主義の原理的な価値を会得している者であればあるほど、「遺族」という存在には嫌悪感を持っている。戦前の「家族」の延長であり、しかも本人が存在しないのに、何の権利があって他人の意思を語れるのかということである。そして、「死者に人権はない」という意見は、冗談ではなく本気である。理性的な社会科学から導かれる唯一の結論だからである。

(フィクションです。続きます。)