犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その60

2013-10-18 23:08:47 | 国家・政治・刑罰

 依頼者と私との沈黙を含んだ会話、そして依頼者の中で何度も繰り返されたであろう自問自答とが平行して進んでゆく。プロの弁護士であれば、事故や事件に直面して、その衝撃そのものではなく、すぐに賠償や補償の点に思考が至らなければならない。しかし私は、そのような思考に確信犯的に背を向けている。

 「本当に反省しています」と依頼者は述べる。すると、依頼者の内心の被害者が、「反省できるということは生きている証拠です。そのことが何よりの絶望なのです」と語る。依頼者の顔には、「だったら私は反省しなければいいのですか」という質問が書いてある。しかし、喉まで出かかって、そこで止まっている。

 世の中の通念では、何百回でも謝罪の念を示すことは誠意の表明であるとされる。そこには、謝罪とは屈辱的な行為であるとの前提がある。しかし、「謝罪できることは生きていることの証明である」という桁違いの絶望の前には、謝罪はただの押し付けにすぎない。出口のない問いの目的は、答えではなく、問いの方向である。

 出口のない問いを被害者の家族の側に向ければ、その問いは反語となる。「加害者を苦しめ続ければ気が済むのか」。「加害者の不幸を願うのは行き過ぎではないか」。問いの構造がこのようになってしまえば、沈黙は能弁に変わる。そして、刑事弁護人にとっては仕事がしやすい。謝罪を尽くすことは、刑を軽くする情状だからである。

(フィクションです。続きます。)