犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その51

2013-10-01 22:25:43 | 国家・政治・刑罰

 私は、前の事務所に勤めていたとき、主に顧問先であった不動産会社の社長との対応を任されていた。私はそのうち、空き地さえ見ればここには何階建てのビルが建ち、何部屋できて、駅から徒歩何分で、家賃はいくらが相場で、月にいくら入ってくるというように物事が見えるようになった。これは、地球の見え方そのものの変化であった。

 仕事をして顧問料を得るということは、本心はどうあれ、顧客から求められている仕事の哲学を理解するということである。私はその頃、「遊んでいても賃料が入ってくるから生活に困らない」という怠惰な心情に対する罪悪感が生気を失い、「土地や空き部屋を遊ばせておくこと」の害悪のほうに生き生きとした切実感を覚えるようになっていた。

 そのような顧客らとの対応に勤務時間の大半を費やしていた日常において、ただ1人「無限」「全財産」と真正面から記された手紙を目にしたとき、私は虚を突かれた。「人は誰しも金銭欲を有し、お金が嫌いな人は変わり者である」という仕事上の哲学に染まりつつ、この手紙に向き合ってはならなかった。組織人としての立場と個人の倫理観とが内心で衝突した。

 他方、金銭の万能性を信じるボス弁は、この母親に対し、最後に再び激しい敵意を示していた。それは、示談が終わって和解金を得た母親から、「償いは永久に終わらない」との2通目の手紙が送られてきた時である。ボス弁は、かようなルール違反は絶対に許されないと激怒した。加害者は家屋敷も売り払い、家族は進学も断念し、全てが破壊されれば被害者は満足なのかと憤っていた。

(フィクションです。続きます。)

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