犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その53

2013-10-04 22:44:25 | 国家・政治・刑罰

 「二度とこのような思いをする人がいないように」と社会に対して願うことは、現世的な損得勘定によれば、本人は何も得をしない。全ては他者のための願いであり、社会的な名誉や称賛の追求とも無縁である。それは、「私のような人生を送らないでほしい」という自己否定を含み、成功や幸福とは対極的な倫理を示している。

 もとより現代の情報化社会では、自己顕示欲と上昇志向の正当性が圧倒的な力を持ち、成功と幸福の価値も世間を覆い尽くしている。そして、人は他人の成功を心のどこかで嫉妬し、他人の不幸は確かに飯がうまいと感じる。このような環境の中で、純粋に献身的な希望を持つことは、それ自体が非常に生きづらく苦しいことだ。

 「交通死亡事故がゼロになるように」という思いによって防がれた事故は、それが防がれて存在しないものである以上、人の目には見えない。従って、その貢献が具体的な形として評価されることはない。実際に人の目に見えて評価されるのは、死亡事故が起きたあとで、多額の賠償金を獲得する弁護士の手腕のみである。

 現代社会の法制度は、善悪の基準で考える倫理が後退し、もはや市場競争原理という損得で考える経済システムに支配されている。このシステムの側から見れば、被害者側の利益として解釈されるものは決まっている。すなわち、厳罰感情や復讐心を満たして溜飲を下げるということであり、ここに利他性の把握は欠落する。

(フィクションです。続きます。)