犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その62

2013-10-21 22:04:09 | 国家・政治・刑罰

 依頼者の隣で黙っていた父親が、話の流れに乗って、それまで抑えていた本音を語り始める。その口調の強さに、やはり実際に人の命を奪った経験がある者とない者との間には、絶対的な懸隔があるのだと気付かされる。たとえ親子といえども、紛れもないこの自分の身体の動きが他人の生命を止めたという衝撃は、当人の身体からは絶対に出られないということである。

 父親は、被害者側からの手紙には嘘ばかり書いてあると言う。「謝罪に来なかったと責めているが、私達は葬儀に行って追い返されたのだ。その後は気を遣って連絡しなかったのだが、今度は逃げていると文句を言われる」。「私達は誠意がないと言われているが、見舞金の現金書留をそのまま突き返してきたのは向こうである」。父親は、矛盾点を論理的に指摘する。

 依頼者の父親は、現在の状況を「こじれている」「ボタンの掛け違い」などと表現し、加害者側としてなすべきことは全てしてきたはずだと述べる。そして、被害者の自宅に電話をしても出てもらえなかった日時を詳細に記録したメモを取り出し、これを証拠として裁判官に提出してほしいと言う。私は、この父親は恐らく頭は切れるけれども、賢い人間ではないと思った。

 父親の言い分は、社会通念に照らせばもっともである。自宅に伺えばいいのか、伺ってはいけないのか、被害者側の要求は基本的なところが明確でない。コミュニケーションによって用件を伝える能力という点からは、被害者側はそのイロハもできておらず、一般社会で通用する言葉ではない。そして私は、そのような言葉であることの意味を理解しないこの父親を内心で軽蔑した。

(フィクションです。続きます。)