犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

世論を二分する問題

2009-07-23 22:55:13 | 国家・政治・刑罰
今月13日、臓器移植法改正案が参議院本会議で採決され、3法案のうち、脳死を一般的な人の死とする「A案」が可決・成立しました。これによって、15歳未満の子どもの臓器提供を禁じた現行法の年齢制限が撤廃され、脳死が初めて法律で「人の死」と位置づけられることになりました。私はこれまで、身内や友人が臓器の病気で苦しみ、移植でしか助かる道はない状況に直面しつつ、法の壁に阻まれて悔しい思いをしたことはありません。逆に、身内が脳死状態となり、心が整理できない中で臓器提供を求められ、最期の看取りの時間が持てずに苦しんだこともありません。その意味では、公平・中立な立場におります。そして、私自身、どちらかと言えば臓器移植には反対する気持ちが上回っています。心の中を無理に数字にしてみれば、60対40くらいで反対論のほうが勝っています。この理由は、自分でもわかりません。もちろん、自分自身や自分の周囲に臓器移植に関する問題が起きれば、このような数字はあっという間に変わるものだと思います。

世論を二分する問題というのは、多かれ少なかれ、公平・中立な立場にある者における、この心の微妙なバランスの問題であると思われます。ある者は70対30、またある者は51対49というように、自らの心の中で、賛否両論が闘っているのだと思います。しかしながら、他者に向けた政治的な議論というものは、この微妙な内心の闘いを表明するには向いていないようです。公正・中立というものが、全くの50対50であるならば、それは単なる無関心であると思います。そして、ある問題について、自分の人生に関わりがあるものとして真剣に考える限り、人は50対50の地点に立つのは困難なようです。自らの心の揺れを観察してみれば、ある時には50.001対49.999になり、またある時には49.999対50.001になっているのかも知れません。政治的な議論に火がつくのは、そもそも政治的な議論がこの繊細なところが記述できず、しかもその鈍感さが人間を苛立たせるため、さらに政治的な議論を呼ぶからだと思います。他者を説得するためには、自らの51対49の心中を吐露しては議論に負けてしまうので、100対0の価値観を表明しなくてはなりません。そして、これに対抗するには、0対100の価値観を表明しなければ潰されてしまいます。

私は臓器移植法改正案のニュースにおける双方のコメントを聞き、最初は60対40であった心が激しく揺れました。我が子の命を助けるためにずっと移植を待ち望んでいる方、移植が受けられなかったばかりに我が子を失い、この法案の成立に我が子の生命の意味を託している方のコメントを聞くと、反対論の60の数字が徐々に下がり始め、賛成論の40の数字が徐々に上がり始めました。我が子に対する張り裂けそうな思いが阻まれる悔しさ、もどかしさ、そしてこの法案に賭けている人生が震える全身から伝わってきたからです。私の心の中の数字は、51対49を通過し、50対50に限りなく近付いて行きました。他方で、我が子が脳死状態にある中でずっと看病されている方、我が子の臓器提供を承諾した後で自らの選択に苦しみ続けている方のコメントを聞いても、反対論の60の数字は上がりませんでした。そして不思議なことに、その数字は下がり、50に近付いていきました。生死に関する繊細な問題を100対0で考えざるを得ない運命に圧倒され、その運命を生きていない自分にはその数字を語る資格がないことを悟り、数字が逆に動いたのかも知れません。結局私の心は、いずれのコメントを聞いても、限りなく50対50に近付いて行きました。

しかし、私の心の中のこの数字が逆転することはありませんでした。その理由はわかりません。気が付いたときには、自分の心はそれ以外ではありませんでした。いずれにしても、人の生死、生命倫理に関する問題は、人の心の奥深くの説明できないところの勝負になるのではないかと思います。経験のない人でも、自分のこととして真面目に考えれば考えるほど、必然的にこの過程を経ることになるようです。それがある人にとっては50.001対49.999になり、またある人にとっては49.999対50.001の勝負になるのでしょう。民主主義社会においては、広く多角的な意見に触れ、対立する者との間で議論を重ねながら、自分の価値観を形成してゆくことに重きが置かれています。しかし、上記のような内心の勝負を維持したまま、重層的に他者との議論をするとなれば、普通は自分の心がもたないでしょう。私は、自分の内心に向き合うときには60対40の数字が51対49に近付きましたが、ニュースで政治的な意見を聞くときには、その数字が一瞬にして100対0になりました。なぜなら、私は政治的に分類されれば、「臓器移植反対派」であり、51が49に勝っていることを証明して足元を安定させるには、他者に対しては100の正当性を主張するしかないからです。

衆議院の解散の直前に、駆け込みで臓器移植法改正案が可決・成立したのは、人の死を法律の条文に定義するという行為において、非常に象徴的なことだと思います。