犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある弁護士の苦悩

2009-07-11 23:48:44 | 実存・心理・宗教
「弁護士は凶悪犯罪者の味方ばかりして、被害者の感情を逆撫でしている」。彼(司法修習生)は、そのような世間一般の批判が何とももどかしかった。彼は、犯罪被害者支援を専門に取り組む弁護士を目指していた。これは、彼が一生を賭けて取り組むことを望んだ天職であり、彼はそのために苦しい受験勉強を続けてきたのである。ところが、彼の法律事務所への就職はなかなか決まらなかった。「犯罪被害者支援を専門に取り組みたい」と述べると、所長弁護士(ボス弁)より判で押したように難色を示されたからである。彼は、やむを得ず自分の本心を隠して面接に臨み、ある事務所に採用され、弁護士として働き始めることになった。

彼が実際に仕事を始めてみると、弁護士の間で法律相談に対する人気に偏りがある現実に改めて驚かされた。市役所や区役所から法律相談員の募集があると、消費者相談や相続・遺言相談、離婚相談や労働相談などには、あっという間に弁護士が殺到する。また、被疑者国選弁護、当番弁護士(刑事・少年被疑事件)も安定した引き取り手がある。ところが、犯罪被害者支援相談は、いつまでも引き取り手がなく、強制的に弁護士に割り振られている有様であった。彼は上司である所長弁護士(ボス弁)に対し、この被害者支援相談を積極的に引き受けたいと申し出た。所長は予想通り、彼の提案に激しく難色を示したが、彼が全面的に責任を取ることを条件として、彼が1つの相談枠を引き受けることを承諾した。

最初の相談者の罪名は「恐喝」であった。彼が話を聞いてみると、アパートの家賃を滞納して、大家さんから立ち退きか支払いを迫られているらしい。どうみても恐喝罪には該当しなかったため、彼は「もっと家賃の安いところを探してください」とアドバイスするしかなかった。次の相談者の罪名は「詐欺」であったが、単に貸したお金が返ってこないというだけの話であった。これは詐欺罪でも何でもなく、本人が詐欺だと思いこんでいるだけである。彼は、裁判所のパンフレットを見ればすぐにわかる少額訴訟や支払督促の説明をして、時間を潰すしかなかった。3人目の相談者は80歳を超えた女性であり、罪名は「窃盗」であった。しかし、一見して話の辻褄が合っておらず、認知症が進んでいることが明白であった。相談内容は案の定、息子の嫁が財布を隠した、通帳を隠したというのものであり、犯罪被害者支援相談が想定している相談ではなかった。

彼が心身ともに疲れ切っているところに、4人目の相談者が入ってきた。その罪名は「傷害・強要・名誉毀損・不動産侵奪」であった。何と、隣に住んでいる人から、5年間にもわたって執拗な嫌がらせを受けているらしい。彼は、ようやく被害者支援相談にふさわしい相談が来たと思った。ところが、話を聞いているうちに、徐々に怪しくなってきた。隣の人は自分を殺そうとしている。隣との境界線が少しずつこちらに動いてくる。自分の身を守るため、玄関と庭に監視カメラをつけているが、隣人はそれに抗議してきた。自分はこのままでは精神がおかしくなってしまう。何とか隣人を告訴して、逮捕して外に出られないようにしてほしい・・・。彼は相談者の話を聞きながら、この日の成果に心底がっかりするとともに、何とかこの相談を早く切り上げるように努めた。しかし、相談者は彼にしつこく食いついて、なかなか帰ろうとはしない。彼はやむを得ず、事務所の電話番号が入った名刺を渡して、ひとまずその場を切り抜けた。

翌日より、その相談者から事務所に対する長電話がひっきりなしに続くようになった。相談者は隣人を告訴をするように要求し、彼がそれを断ると、彼は「弁護士失格だ」「人間としての資質を疑う」と罵倒され続けた。また、長電話の相手をさせられている事務員は仕事が手に付かなくなり、精神的に疲れ果て、事務所全体の業務に支障が生じるようになった。そして、事務員や先輩弁護士から彼に対する視線も日々冷たくなってきた。ある先輩弁護士は、彼に向かって言った。「ちょっと考えればわかることだろう。離婚相談には離婚したいと思っている人が来る。遺言相談には遺言を書きたいと思っている人が来る。同じように、犯罪被害者相談には、自分を犯罪被害者だと思っている人が来るんだよ。そして、本当に凶悪犯罪で打ちのめされた人は、なかなか気軽に市役所の法律相談には来られないんだ。その意味で、犯罪被害者支援相談というのは、もともと法律相談のスタイルには合わない。弁護士の間で人気がないのには、それなりの理由があるんだよ」。

彼があまりの現実に打ちのめされているところへ、所長の追い打ちが始まった。「これだけ事務所に迷惑をかけて、君はどのように全面的に責任を取るつもりなんだ」。彼が答えられないでいると、所長は呆れたように言った。「君は弁護士以前に、社会人、ビジネスマン、組織人として失格だろう。給料を下げられても文句は言えないはずだ。だいたい、犯罪被害者支援を専門に取り組む弁護士を目指すなんて、君は社会をなめ切ってるんじゃないか? そんな甘い考えでは、どこの事務所に行っても使い物にならないし、独立しても通用しないだろう・・・」。彼は所長の前で頭を下げながら、挫折という言葉では表現しきれないほどの絶望に苛まれていた。これが天職に立ちふさがる障害であり、一生を賭けて取り組む仕事のための試練であるならば、彼はこの逆境に耐える意義も見出せただろう。彼は、「弁護士は凶悪犯罪者の味方ばかりしている」という世間一般の批判があまりにも正しいという現実を、全身で受け止めざるを得なかった。

(フィクションです。)