犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小浜逸郎著 『言葉はなぜ通じないのか』

2009-07-26 22:48:49 | 読書感想文
p.96~

言語の特性の3番目として、言葉というのはものごとを必ず抽象化し、一般化して捉えます。これは多くの場合、意思疎通の難しさ、制約としてあらわれます。言語的にもっとも抽象化しにくい感覚は嗅覚です。たとえば、塩素の匂いを言葉で表現してみろと言われると、私たちはハタと困ってしまいます。「くさい」とか「刺激臭」とか言ってみても、経験のない人にはさっぱり実感がもてません。「プールの消毒薬の匂い」と表現してみたとしても、これも経験の共有に訴えているわけで、プールに行ったことがない人には実感としての認識が得られません。この抽象化、概念化ということは、言語の本質にかかわることですから、嗅覚に限らず、あらゆる経験の伝達にとって阻害要因となります。

この事実は、やはり意思疎通にとって制約としてあらわれることがあります。というのは、言語行為は主体の生きた活動なので、それを現実に使用する主体によって、ある語彙に込めた概念が異なることがしばしば起きるからです。ある人がある語彙を使ったために、受け取る側がそれを聞きとがめて、「それはおかしい」と感じることがあります。こうした食い違いが生じるのは、言葉の正しい使用とか誤用といった捉え方を超えていて、正しい概念に従って正しく言葉を用いれば避けられるといった解決策に収まるものではありません。また、それぞれの主体の抽象作用の違いは、その主体の生活史に依存しています。ある語彙をこれこれの概念で使ったつもりなのに相手がそう受け取らなかったという場合、そこにはそれぞれの生活史の違いが反映されているわけです。

いま民主主義社会の政党は、どの政党も「国民」という言葉を濫発して、対立政党の政治理念を「国民のためになっていない」といって批判しますが、これって聞いていてなんだかとても虚しい感じがしませんか。どの政党も「国民」という言葉が何か確かな実体であるかのように使っていますが、「国民」なんてどこにいるの? 私? あなた? と聞きたくなります。「国民」というのは、ただの集合名詞であり、抽象概念であって、しかもその外延があまりに多岐にわたりすぎます。政党は、こんな概念をやたら振りまわすべきではなく、同時に私たち一人ひとりも、「政治家はわれわれ国民のことをほんとうに考えているのか」などと、陳腐な言葉遣いをなるべくしないようにすべきですね。


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自民党の細田幹事長は24日、毎日新聞などとのインタビューで、「報道機関は麻生首相が『字が読めない』『ぶれた』と言って楽しんでいるが、たいしたことはない。そのことの方が皆、面白いんだ。日本国の程度を表している。国民の程度かもしれない」と語った。細田氏はインタビュー終了後、「誤解を招く表現だった。謝罪します」と述べ、発言を撤回した。

民主党の鳩山代表は25日、細田幹事長の発言について、大変けしからん発言だ。自民党は心の中で、自分たちが偉くて国民の程度が低いという思いで、政治を今日までやっていたのではないか。民主主義にもとる、絶対に政治家が言ってはならない言葉だ」と厳しく批判した。岡田幹事長も神戸市内で記者団に「自民党の体質を表している」と指摘した。

聞いていて、小浜氏の述べるとおり、「国民の皆さま」のうちの1人として、何だかとても虚しい感じがしました。

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