犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

間違い電話

2009-07-14 01:28:48 | 言語・論理・構造
誰だ: 「もしもし、○○株式会社さんですか?」

社員: 「いえ、違いますけど」

誰だ: 「違うってどういうことですか?」

社員: 「どういうことって・・・」

誰だ: 「違います、って言ったのはあなたでしょう。どういう意味ですか? 私にわかるように説明してくださいよ」

社員: 「違うものは違うので、説明とおっしゃられても・・・」

誰だ: 「ですから、何が違うのか説明してくださいって言ってるんですよ。私の話、聞いてるんですか?」

社員: 「あの、何をおっしゃりたいのか、正直わからないもので・・・」

誰だ: 「わからないって、何がわからないんですか?」

社員: 「そうおっしゃられても・・・」

誰だ: 「わからないって、先におっしゃったのはあなたでしょう。自分の発言に責任を持って下さいよ」

社員: 「・・・・・」

誰だ: 「人が話してるのに、返事もしないんですか? あなた、ずいぶん失礼な方ですねえ」

社員: 「いや・・・ まあ・・・ すみません」

誰だ: 「何が申し訳ないんですか?」

社員: 「いや、どう返事をしていいものか・・・」

誰だ: 「何が申し訳ないかわからないで謝ってるんですか? あなた、本当に非常識な方ですねえ」

社員: 「そうおっしゃられても・・・」

誰だ: 「何がどう悪いのか、理由を示すのが筋じゃないですか? そうでしょう? 非常に不愉快です」

社員: 「あの、もう切らせて頂いてよろしいでしょうか?」

誰だ: 「私はまだ何も話していないのに、あなたは切るか切らないかについてどういう判断をしてるんですか?」

社員: 「それはまあ、こちらで適切に判断するということで・・・」

誰だ: 「あなた、そもそも間違い電話に適切なんてあり得ないでしょう。適切でないから間違い電話なんじゃないですか?」

社員: 「それはまあ、そうですけど・・・」

誰だ: 「もう切りますよ。二度と電話しませんから」

社員: 「・・・・・」


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筋の通らない屁理屈ほど、その場で瞬時に反論することが難しい。

岡本薫著 『世間さまが許さない!』

2009-07-12 00:29:58 | 読書感想文
p.156~

自由と民主主義はもともと「みんなバラバラ」ということを前提としているので、宗教が異なろうと、歴史的な経緯がどうであろうと、基本的なモラル感覚の差異がどうであろうと、「多数決でルールを決める」「決まったルールには全員が従う」「多数決で決まったルールに反しない限り自由」ということでいいはずだ。ところが、そうした理論やシステムだけで宗教的対立や民族主義や歴史的怨念を乗り越えられるほど、人間の心は論理的にできていない。

人間というものはそれほどロジカルには思考・行動できず、感情に支配される面が少なくない、ということだろう。自分のモラル感覚に反するものには(ルールがどうであれ)反感や嫌悪感を持ってしまうので、「多数決で決まったからには進んで守れ」とか「人はそれぞれ自由」などと言われても、素直には従えないのである。つまり、「自由と民主主義」というものは、「人々の心はバラバラであっていい」という、生身の人間が持つ現実の感情を無視した人工的なシステムであるため、その「バラバラ度合い」を「一定の範囲」に止めておく「宗教」=「神さまのモラル基準」が必要になるのだ。

では、日本において、これまで人々のバラバラ化を防ぎ「日常生活や人生の基本に関して、国民・民族の大部分に共通するモラルの基準」を与えてきたのが「神さま」でないとしたら、いったい何だろうか。それは「世間さま」である。「宗教」に代わって「日本的モラリズム」が、社会のバラバラ化を防いできたのだ。当然のことながら、この「世間さま」によるモラル基準が機能してきた背景には、「世間さまを構成する人々は、同じモラル感覚を共有しているはずだ」という「同質性の信仰」があった。


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著者の岡本薫氏が言わんとしているのは、「自由と民主主義は、そもそも日本人に向いていないのではないか?」「向いていないなら、無理してやらずに止めたらどうか?」ということです。これを本気で読めば冗談のようにしか見えませんが、逆に冗談として読むと本当のことになってしまうのが面白いところです。

民主主義を支える制度の根幹は選挙ですが、衆議院の解散総選挙が近付けば近付くほど、この国が民主主義国家だとは思えない様相を呈してくるのも妙なところです。どの政党も4年ごとに選挙に勝てるように国民に迎合し、ポピュリズムに頼り、マスコミが作った風に乗って選挙を人気投票にしているならば、すでに「世間さま」は実質的に「民主主義」を乗っ取っているようにも見えます。

ある弁護士の苦悩

2009-07-11 23:48:44 | 実存・心理・宗教
「弁護士は凶悪犯罪者の味方ばかりして、被害者の感情を逆撫でしている」。彼(司法修習生)は、そのような世間一般の批判が何とももどかしかった。彼は、犯罪被害者支援を専門に取り組む弁護士を目指していた。これは、彼が一生を賭けて取り組むことを望んだ天職であり、彼はそのために苦しい受験勉強を続けてきたのである。ところが、彼の法律事務所への就職はなかなか決まらなかった。「犯罪被害者支援を専門に取り組みたい」と述べると、所長弁護士(ボス弁)より判で押したように難色を示されたからである。彼は、やむを得ず自分の本心を隠して面接に臨み、ある事務所に採用され、弁護士として働き始めることになった。

彼が実際に仕事を始めてみると、弁護士の間で法律相談に対する人気に偏りがある現実に改めて驚かされた。市役所や区役所から法律相談員の募集があると、消費者相談や相続・遺言相談、離婚相談や労働相談などには、あっという間に弁護士が殺到する。また、被疑者国選弁護、当番弁護士(刑事・少年被疑事件)も安定した引き取り手がある。ところが、犯罪被害者支援相談は、いつまでも引き取り手がなく、強制的に弁護士に割り振られている有様であった。彼は上司である所長弁護士(ボス弁)に対し、この被害者支援相談を積極的に引き受けたいと申し出た。所長は予想通り、彼の提案に激しく難色を示したが、彼が全面的に責任を取ることを条件として、彼が1つの相談枠を引き受けることを承諾した。

最初の相談者の罪名は「恐喝」であった。彼が話を聞いてみると、アパートの家賃を滞納して、大家さんから立ち退きか支払いを迫られているらしい。どうみても恐喝罪には該当しなかったため、彼は「もっと家賃の安いところを探してください」とアドバイスするしかなかった。次の相談者の罪名は「詐欺」であったが、単に貸したお金が返ってこないというだけの話であった。これは詐欺罪でも何でもなく、本人が詐欺だと思いこんでいるだけである。彼は、裁判所のパンフレットを見ればすぐにわかる少額訴訟や支払督促の説明をして、時間を潰すしかなかった。3人目の相談者は80歳を超えた女性であり、罪名は「窃盗」であった。しかし、一見して話の辻褄が合っておらず、認知症が進んでいることが明白であった。相談内容は案の定、息子の嫁が財布を隠した、通帳を隠したというのものであり、犯罪被害者支援相談が想定している相談ではなかった。

彼が心身ともに疲れ切っているところに、4人目の相談者が入ってきた。その罪名は「傷害・強要・名誉毀損・不動産侵奪」であった。何と、隣に住んでいる人から、5年間にもわたって執拗な嫌がらせを受けているらしい。彼は、ようやく被害者支援相談にふさわしい相談が来たと思った。ところが、話を聞いているうちに、徐々に怪しくなってきた。隣の人は自分を殺そうとしている。隣との境界線が少しずつこちらに動いてくる。自分の身を守るため、玄関と庭に監視カメラをつけているが、隣人はそれに抗議してきた。自分はこのままでは精神がおかしくなってしまう。何とか隣人を告訴して、逮捕して外に出られないようにしてほしい・・・。彼は相談者の話を聞きながら、この日の成果に心底がっかりするとともに、何とかこの相談を早く切り上げるように努めた。しかし、相談者は彼にしつこく食いついて、なかなか帰ろうとはしない。彼はやむを得ず、事務所の電話番号が入った名刺を渡して、ひとまずその場を切り抜けた。

翌日より、その相談者から事務所に対する長電話がひっきりなしに続くようになった。相談者は隣人を告訴をするように要求し、彼がそれを断ると、彼は「弁護士失格だ」「人間としての資質を疑う」と罵倒され続けた。また、長電話の相手をさせられている事務員は仕事が手に付かなくなり、精神的に疲れ果て、事務所全体の業務に支障が生じるようになった。そして、事務員や先輩弁護士から彼に対する視線も日々冷たくなってきた。ある先輩弁護士は、彼に向かって言った。「ちょっと考えればわかることだろう。離婚相談には離婚したいと思っている人が来る。遺言相談には遺言を書きたいと思っている人が来る。同じように、犯罪被害者相談には、自分を犯罪被害者だと思っている人が来るんだよ。そして、本当に凶悪犯罪で打ちのめされた人は、なかなか気軽に市役所の法律相談には来られないんだ。その意味で、犯罪被害者支援相談というのは、もともと法律相談のスタイルには合わない。弁護士の間で人気がないのには、それなりの理由があるんだよ」。

彼があまりの現実に打ちのめされているところへ、所長の追い打ちが始まった。「これだけ事務所に迷惑をかけて、君はどのように全面的に責任を取るつもりなんだ」。彼が答えられないでいると、所長は呆れたように言った。「君は弁護士以前に、社会人、ビジネスマン、組織人として失格だろう。給料を下げられても文句は言えないはずだ。だいたい、犯罪被害者支援を専門に取り組む弁護士を目指すなんて、君は社会をなめ切ってるんじゃないか? そんな甘い考えでは、どこの事務所に行っても使い物にならないし、独立しても通用しないだろう・・・」。彼は所長の前で頭を下げながら、挫折という言葉では表現しきれないほどの絶望に苛まれていた。これが天職に立ちふさがる障害であり、一生を賭けて取り組む仕事のための試練であるならば、彼はこの逆境に耐える意義も見出せただろう。彼は、「弁護士は凶悪犯罪者の味方ばかりしている」という世間一般の批判があまりにも正しいという現実を、全身で受け止めざるを得なかった。

(フィクションです。)

ある法律事務所事務員の苦悩

2009-07-10 23:39:31 | 実存・心理・宗教
その事件の争点は、非常に細かい所に入り込んでいた。自動車と自転車の衝突事故であり、目撃者は誰もいなかった。自動車の運転手は、自転車が赤信号を無視して横断歩道に入ってきたと一貫して主張している。信号は赤か青か、この認定によって過失割合は正反対となり、賠償額にも格段の差が出る。一人娘を失った両親は、弁護士の前で、「私達の娘は慎重な性格です。信号を無視することなど絶対にあり得ません。娘の名誉のために、真実を究明してください」と繰り返していた。弁護士は両親の涙ながらの訴えを聞くと、いつも無言で深くうなずき、真実究明への決意を示すのであった。そして両親は、そのような弁護士の姿勢を見て、いつも沈痛な表情をわずかに崩して、深く頭を下げるのであった。

彼(法律事務所事務員)は、弁護士が無言で深くうなずいている間、本当は困って何も言いようがないことを知っていた。実際のところ、娘さんは慎重な性格であったと言われても、裁判の場においては何の証拠価値もないからである。弁護士の無言は、「早く帰ってくれ」という意思表示であった。これに対して、弁護士が逸失利益・賃金センサス・平均余命などの専門的な話をする時はいつも得意気であり、両親は必死で理解しようと大量のメモを取っていた。彼にはその両親の姿が、何をやっても娘は戻らないという現実に直面して、興味のない話にも興味を持ち、絶望によって狂気を抑え込んでいるように見えた。それだけに彼は、両親が深く頭を下げて事務所を去った後、弁護士が何事もなかったように債権回収や相続争いの事件に戻るのを見て、何ともやり切れない思いがしていた。

裁判所からの期日延期の連絡は、判決期日の2ヶ月前にあった。彼が電話を取ると、書記官はいきなり「期日を1ヶ月先に延期しますので期日請書をお願いします」と伝えたのである。彼が弁護士にそのことを伝えると、弁護士は苦笑いした。どこの裁判所にも、判決が遅くて有名な裁判官がいて、そのような人に当たると日常茶飯事らしい。特にこの事件は争点が非常に細かくなっており、裁判官は判決を書きたくなさそうのが一目瞭然で、和解を執拗に勧めていた。恐らく、他の事件に押されて判決を書き始めるのが遅れ、どうにも間に合わなくなったのだろう。弁護士は彼に対し、裁判所に対する期日請書と、依頼者である両親への連絡書を起案するように命じた。彼は、裁判所に抗議しようともしない弁護士にガッカリしながら、文章の作成に取りかかった。

裁判所に対しては、彼は次のように書いた。「原告はその日に向けて色々なことを段取りしていたのに、総崩れとなりました。原告はカレンダーに印をつけ、あと何日、あと何日と数えてきました。その日が少しでも早く来てほしいという気持ちと、永遠に来ないでほしいという気持ちが共存する中で闘ってきました。期日変更は仕方なく受けますが、裁判所はあまりに軽く考えすぎのように思います。原告は、精神的な崩れから立ち直ることができません・・・」。彼はまた、依頼者である両親へは次のように書いた。「私共はあくまで、当初の期日に判決言い渡しをすべきことを求めて参りますが、裁判所の期日変更は絶対であり、恐らく受け入れられることができないと思われます。私共の力不足につき、大変申し訳なく存じます・・・」。彼は、命を賭けた裁判をしている両親に対して、これらの文面は代理人を引き受けた者の精一杯の礼儀であると考えた。そして、自信を持って弁護士の決裁に出した。

しかし、弁護士は彼の書面を見て激怒した。「誰がこんなことを書けと言ったんだ! 余計なところは全部削れ!」。先輩の事務員は、彼が書いた書面を見て苦笑いし、「裁判所にケンカ売ってどうするんだよ。明日から外を歩けなくなるぞ」と言った。結局、裁判所に対する書面は、「変更された○月○日の判決期日に出頭致します」という無難なものに収まった。また、両親への連絡書は、「判決期日は○月○日に変更されましたのでご注意ください」という素っ気ないものになった。彼はこの文面を見て、上司と部下との「見解の相違」などではない、深い絶望を感じざるを得なかった。一人娘を失った両親の気持ちを考えない裁判所の組織を批判して満足することは、明らかな自己欺瞞である。他方で、裁判所を批判しようとしない事務所の組織を批判して満足することも、別の自己欺瞞である。彼は、自らが抱えている絶望が、仕事に対する不平不満であったならば、どんなにか救いようがあっただろうと思った。

連絡書を投函して2日後、彼は両親からの電話を恐れながら仕事をしていた。彼の心は、「あの連絡書を見てご両親はどんなにショックを受けたことか」という痛みよりも、「期日変更を受け入れたことへの怒りの電話が来たらどう答えようか」という不安に支配されていた。彼は、自分の心がこのような動きをしていることを情けなく感じ、このままでは自分は腐ってしまうという直感があった。しかしながら、その現実をそのまま捉えるならば、それは感傷に酔って絶望から目を背けていることに他ならず、どちらに転んでも行き止まりであった。事務所の電話は次々と鳴り、悪徳商法に500万円を騙し取られた老人との打ち合わせ、消費者金融との債務の値切り交渉、家賃を払わない賃借人を追い出すための家主との作戦会議などが続き、彼は忙しい仕事に追われて、いつの間にか期日変更のことを忘れかけていた。彼はふと、「社会の厳しさ」とは「人生の厳しさ」を覆い隠すための錯覚なのではないかと思った。

(フィクションです。)

ある裁判所書記官の苦悩

2009-07-09 23:55:23 | 実存・心理・宗教
その期日変更は、判決の5日前に突然決まった。マスコミを騒がせた汚職事件の法廷警備で人手が足りず、その他の小さな事件はどうしても後回しにせざるを得なくなったからである。判決言渡しの期日が延期されたのは、ある自動車運転過失致死罪の裁判であった。裁判官の頭の中ではすでに執行猶予の結論が出ており、事実関係に争いはなく、被告人も保釈中であり、特に人権上の問題もないとの判断であったらしい。彼(裁判所書記官)は裁判官から、期日延期の手続きをするように命じられた。

彼の脳裏には、前回の公判期日の時に、傍聴席で涙を流していた被害者の両親の姿が目に浮かんでいた。一人息子を事故で失った両親は、裁判が終わってもしばらく立ち上がることができなかった。彼が何とか頭を下げて、廊下に出てもらったのである。両親は彼に対して、判決の日を何度も確認し、手帳にメモをしていた。恐らく今日も、判決を息子さんに報告する日が迫っているのを、張り裂けそうな思いで待っているのだろう。書記官の仕事は、検察官と被告弁護人の意見を聞いて承諾を得ることのみである。そして、被害者参加人ではない被害者には連絡を取る必要はないし、取ってはならない。彼は、担当の検察事務官が、誠意を持って被害者の両親に説明をしてくれることを祈るしかなかった。

5日後の朝、裁判所の書記官室に、2人の中年の男女が息を切らして飛び込んできた。彼が近付いてみると、あの被害者の両親であった。2人とも顔が真っ青であり、目が血走っていた。裁判所の入口の開廷表にも判決期日の記載がなく、法廷に行っても誰もいなかったので、どうしたらいいのかわからなくて、とにかく担当部署に駆け込んだということらしい。彼は一瞬、言葉に詰まった。そして、わざとらしく開廷表を確認し、落ち着き払ったような様子を装いつつ、「平成○年第○○○号、自動車運転過失致死罪の判決期日は、○月○日の○時からに延期になっております」と述べた。実に堂々とした対応であった。彼は、自分が心底卑怯だと思った。

彼がそのように述べた瞬間、両親は呆気にとられたような表情となり、その数秒後には顔が紅潮し、唇を震わせながら、彼に向かって言った。「それは一体どういうことですか!」。お役所仕事で事務的な裁判所は、被害者遺族に冷たい。彼はそのような批判の中に、自分まで一括りにされるのは心外だった。裁判所の中にも、このような期日変更に心を痛めている人間がいることを知ってほしかった。しかし彼は、本心とは別のことを、意識的に厳しい口調で述べた。「裁判所には、当事者でない者に対して期日変更を連絡する義務がありません」。これは、数日前の当事者対応研修において、クレーマーに付け入られるのは職員の側に問題があるとのことで、何回も練習させられたものである。

彼の言葉を聞きながら、両親は憎悪と軽蔑の視線を彼に向けていた。彼は、「本当はこんなことは言いたくないんです」という言葉が喉まで出かかっていた。これが出なかったのは、紛れもない保身であった。どんなに組織人としての責任、仕事の厳しさといった美辞麗句を並べて誤魔化そうとも、その実体は小心者の保身以外の何物でもない。そして彼は、一人息子を亡くした両親の目の前で、自分は何と小さなことで心をざわつかせているのかと苛立った。そして、その先を考える余裕はなく、考えると足元が崩れてしまうように思った。しばらくの沈黙が続いた後、両親は「そうですか・・・。仕方ありません」と述べて、肩を落として出口に向かった。彼には、これは社会人としての責任、職務倫理とは全く次元の違う話のように感じられた。そして、両親の後姿に向かって、思わず言ってしまった。「申し訳ございませんでした」。

彼が自分の席に戻るや否や、主任書記官の怒号が飛んだ。「何だ今の対応は! 裁判官が決めた期日変更を、書記官が勝手に謝る権限はないだろう! お前は組織人としても社会人としても失格だ! 甘えるんじゃない!」。彼は頭が真っ白になった。全くその通りだった。しかし、彼の心に深く突き刺さっていたのは、仕事に失敗した自責の念ではなく、それが失敗であるとされる構造に対する絶望であり、しかもそれに抵抗することもできない我が身の卑小さだった。先輩の書記官が、すかさず彼にフォローを入れてくれた。「そうやって失敗しながら、当事者対応を覚えて行くんだよ。皆そうやってタフになって、立派な書記官として成長して行くんだから」。彼は苦笑いしつつも、何かが決定的に違うと思わざるを得なかった。

マスコミを騒がせた汚職事件に比べれば、被害者1人の交通事故は、裁判所にとって小さな事件である。そして、一人息子を亡くした両親が直面している現実を想像して絶句しているようでは、大量の事件を次から次へと効率的に処理しなければならない書記官の仕事は務まらない。しかし、目の前で紛れもない人の生死が問題になっているところで、その問題の所在すら把握する能力を失うというのでは、プロの厳しさでも何でもなく、単に人間が鈍感になっただけではないのか。死刑と殺人を扱う重い職責などと大真面目に述べつつ、それがゆえに人の死に対する感受性を失うならば、それは組織的な茶葉劇ではないのか。彼が割り切れない気持ちを抱えているところに、裁判官が法廷から戻ってきた。「今廊下で、死にそうな2人組が歩いてたぞ。誰だっけ。判決を延期した交通事故? おい、そんな事件あったか?」

(フィクションです。)

裁判員の守秘義務

2009-07-06 00:16:32 | 言語・論理・構造
元裁判員: 「私、裁判員を経験してからというもの、何だか全てがおかしくなってしまって、仕事にも戻れません」

精神科医: 「そうなんですか。あなたはその裁判でどのような経験をして、どのようなショックを受けられたのですか」

元裁判員: 「それは守秘義務があって言えないのですが、とにかく色々なことがショックで、何もかもが信じられなくなって…」

精神科医: 「色々なことというのは、例えばどのようなことですか」

元裁判員: 「それを言ってしまうと守秘義務に抵触してしまい、裁判所から罰を受けたり、事件の関係者から因縁をつけられたりするので…」

精神科医: 「困りましたね。では、言える範囲でいいですから、具体的に、どのようなことが信じられなくなったか話して頂けますか」

元裁判員: 「それも守秘義務の範囲なので詳しく言えないのですが、何だかもう怖くて、こんなことがあっていいものかと…」

精神科医: 「こんなこというのは、どんなことですか」

元裁判員: 「守秘義務があるので詳しく話せないのですが、何だかもう今まで信じてきた価値観が全部崩壊してしまったような…」

精神科医: 「もう少し具体的に言ってもらわないと、私もどうしようもないので、とにかくあなたの経験を話してくれませんか」

元裁判員: 「守秘義務に反しない程度に申し上げれば、私の人生において過去にないほどの、立ち直ることのできない衝撃を受けたということです」

精神科医: 「それであなたは、どのように立ち直れないのですか」

元裁判員: 「もう、夜も寝られないし、寝ても悪い夢ばかり見るのですが、夢の内容を話すと守秘義務に違反してしまうので言えません」

精神科医: 「なるほど。あなたの悩みは、守秘義務に縛られて、言いたいことが全然言えないということですね」

元裁判員: 「全然違います。そんな些細なことではありません。もう、裁判員に選ばれる前の人生には戻れない絶望の苦しみです。私はそれで来ているんです」

精神科医: 「ですから、あなたは裁判でどんな経験をしたんですか」

元裁判員: 「それは守秘義務があるので言えません」

精神科医: 「お手上げです」


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冗談で済まないのが怖いところである。

映画 『劔岳 点の記』

2009-07-05 17:05:11 | その他
この映画は、約100年前に陸軍の測量隊が通った道を実際に辿り、CG・空撮一切なしで、文字通り命がけで撮影したことが評判になっている。人間が英知を尽くして開発したCG、すなわち人間に感動を与えるために発明されてきた技術を使わないことが、それによって独特の感動を生み出しているという事実は、非常に逆説的である。このような感動は、人間は一体どこへ向かっているのかという不安とともに、人間はどこへも行かないという安堵感をもたらす。

CGを全く使わない以上、時には氷点下40度以下にもなったり、何日間も山小屋で待ち続けたり、ワンシーンだけのために9時間も山の中を歩いたりして、この映画は3年がかりで完成されたそうである。ところが、本物の映像の迫力に圧倒されている人々に混じって、世の中には実に穿った見方をする人がいる。「少しくらいCGを使ったほうが、より美しい映像が創れたのではないか」。「作り手の苦労の裏話など感動の押し売りであり、観客の評価には関係ない」。このような「辛口の評論」によって不快な思いをするのは、誰よりもその人自身である。

新田次郎氏が描いているのは、様々な利害関係が絡み合った人間関係において、それを人間模様として、人間について考えるための人間の姿である。これは、わかりやすい視点を固定したものではなく、深みがあるゆえに後味は良くない。また、単に時代や歴史が人間を容赦なく呑み込むというだけではなく、それを複数の人間の視点から捉え、しかも感傷的に逃げることもないため、見る側においては複雑な感情がそのままに残される。このような感情は、デジタル化した社会においても、究極のアナログとして残されている。

主役の香川照之さんは、「あれは演技ではない」「僕達の体験したことがそのまま、100年前の出来事として映画になっている。不思議な気分になりました」と語っている。観客にとっては、CGを実写だと騙されてある種の感動を味わっても、逆に実写をCGだと騙されて別の種類の感動を味わっても、実はそれほどの違いはない。これに対して、CGが駆使できる時代においてCGがない時代を追体験するためのCGの拒否は、監督にとっては制作という概念を超え、俳優にとっては迫真の演技という概念を超えてしまう。人間の生き様は、100年程度で簡単に変わるものではない。

池田晶子著 『暮らしの哲学』より

2009-07-02 12:00:00 | 読書感想文
「不可能な『今年』」  p.185~187より


「今年の目標」という不思議な観念について、ふと思いました。大人になっても、そういう目標を立てる人はいます。「来年は飛躍の年にしたい」「今年こそは」と、人は言う。ちょうどこの暮れ頃からそれは始まって、年賀状でもそのように宣言し、正月3日間くらいは、自分でもそんなふうに唱えていたりする。「今年こそは飛躍の年にするぞ」

しかし、可笑しいじゃないですか。正月3日もすると、そんなの見事に忘れちゃうんですよ。松がとれて、会社が始まって、日常の暮らしが再開されると、いつものように何となく続いていっちゃうんですよ。今年の目標? そんなこと言ったっけ。三日坊主。

人が「今年の目標」を持ちこたえたためしがないのは、「目標」が立派すぎるためではなくて、「今年」というのが不可能だからだと私は考えます。「今年」というのは、いったいどこに存在しますか。今存在しているどこに今年なんてものが存在しますかね。「今年」もしくは「1年」というのは、明らかに観念だということがわかります。そんなものは、観念の中にしか存在しないものであって、存在しているのは、やっぱり今もしくはせいぜい今日だけなんですね。

それでも人は、現実が現実のままズルズルと過ぎてゆくのにも耐えられない。それで、1年のうちの最初と最後の1週間以外は完全に忘れているような「今年」「来年」という観念を、性懲りもなく持ち出してくる。そうして、暮れになれば「来年は」と盛り上がり、お正月には「今年こそ」と決意する。そしてまたすぐに忘れる。


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7月2日の正午の瞬間は、(うるう年ではない)平年の場合、1年のちょうど中間点にあたります。すなわち、新年を迎えた瞬間・新年を迎える瞬間から最も遠く、しかも両者から等距離にあたる瞬間です。

そんなことを言っている間に、その瞬間はあっという間に過ぎてしまいました。ゆえに、「今年」というのは明らかに観念であり、存在しているのは今だけ、もしくはせいぜい今日だけだという気が改めてします。

http://blog.goo.ne.jp/higaishablog/d/20090105