犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

殺人罪の時効廃止へ 法務省が報告書 その1

2009-07-17 23:34:25 | 国家・政治・刑罰
ある方のブログ記事より(一部編集)


雑踏の中で、たくさんの人を見ながら思った、生きること自体が一番大事なことなのかってこと。たとえば、生きられなかった命を思えば・・・という理由は本当だろうか? その理由だけで、無条件に、生きることが一番だということになるだろうか? 

我が子の命には何よりの願いであることは間違いない。ただただその生命が脈打ってさえくれれば・・と思う。でもそれですら、生きられなかった命の上に、感謝や有り難味を感じたり、意味を見出していいのだろうか? それは少々傲慢に思えて仕方ない。

命は誰の「分」も生きることができないはずではないか。喪った命が、見知らぬ命ではなく、自分にとってかけがえの無い命であればあるほど、代わりや分を生きることができないことを身をもって知る。自分の命を超えた存在を感じたとき、初めて「自分」が生きること自体を「一番」と言うことに疑問がわいてくる。その場に及んでまで、とにかく生きる事が一番なのだと言われれば、逆に虚しくて生きてはいられない。

私は今でも我が子と変わってあげたいばかりで、この思いを死ぬまで手放すわけにはいかない。もしも願いが叶うなら、ほんとうに今すぐ差し出せる命を願い叶わぬまま生きるとは、どういうことか・・・。それを考えないで、ただ生きることを一番にすれば私の命は無駄に生きたも同然になる。答えは見つからない。・・・正確に言うなら、私には人に納得してもらえる答えが見つからない。

私は答えの出る前から既にそれを生き始めていたように思う。今から思えば我が子が居なくなった瞬間から・・・。「生きることが一番ではない。」 私は、命(人間)以上に「母」である。あろうとするのではなく、どうやっても、どうやっても、そうあってしまう。生きようが死のうが、母であることが私の一番でなくて他に何があろう。


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長い喪の道を真に歩んだ方は・・・ 世間でいう幸せとか楽しみとかの世界は超越しているんじゃないだろうか。そんなものは、いくら沢山あっても、もう自分を満足させられないんじゃないんだろうか。だから、どうして自分がこんな不幸なめに・・とか、楽しいことをしたいとか全く思わない。願いは、「あの子に生きてもらいたかった。」以外にない。

死んだ人間が生き返らないと同時に、残された人間も、もう戻れない。喪った部分が一番大切だから、喪ったままのその世界に引き寄せられる。夏が暑いように、冬が寒いように、そこが苦しいのは自然なんだ・・・。


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法務省の勉強会は17日、人の命を奪った罪のうち、殺人罪・強盗殺人罪などで公訴時効を廃止し、他の罪の時効期間も延長する方向での最終報告書をまとめました。ニュース記事としては、「『被害者家族の気持ちに時効はない』というメッセージが大きなうねりとなり、世論の後押しを受け、異例の早さで国を動かした」という表現になるのでしょう。しかし、この政治記事のような軽い言い回しには、私には耐えれられないところがあります。「大きなうねり」「世論の後押し」「異例の早さ」「国を動かす」という表現が必然的に伴うところの政治的な臭いが気になるかどうか。これは一種の生得的な体質や嗅覚の問題であり、どちらが正しいか間違っているかを論じても仕方がない話だとは思います。しかしながら、この嗅覚が鈍い人が「被害者家族の気持ちに時効はない」という言葉を聞いても、その意味するところ(意味したいところ)を掴むことは難しいとも思います。

「被害者家族の気持ちに時効はない」という言葉は、比喩的であるがゆえに、その言葉が出てくるほうを読むことができれば、その意味は非常に正確に伝わると思います。これに対して、時効撤廃の賛成論・反対論を前提として、賛成論の論拠としてこの言葉が読まれてしまえば、恐らくその意味が正確に伝わることはないでしょう。最近の議論を受けて、時効の存在意義が項目分けをされて、その根拠と合理性が分析的に語られているようです。すなわち、(1)社会や遺族の処罰感情が薄れる、(2)時間の経過で証拠が散逸し公正な裁判ができない、(3)犯人も長い逃走生活で苦労して報いを受ける、といった項目分けです。このような分析による実証的な検証は、社会科学的には正しい態度なのかも知れませんが、ひとたび実存の深淵に落ちてしまえば、何の役にも立たないだろうとも思います。

「被害者家族の気持ちに時効はない」というときの「時効」とは、学者が興味の対象として研究している時効ではなく、あるいは政治的な賛成・反対論が争点としている条文の文言ではなく、そのような意味として社会制度として存在している時効が、自分の人生にとって避けようのない必然的なものとして再構成され、それによって自分がこの世に否応なく存在させられていることが初めて確認されるような、そのような意味の「時効」だと思います。このような意味の「時効」を比喩的に語り、あるいは比喩を拒絶して語ることは、いずれにしても絶望であり、自分の身を削る作業であり、もはや苦悩から逃れる道は皆無であるとも思われます。法律は時と場所によって変わりうる相対的なものに過ぎないのであれば、法制度にとって最も不幸なことは、正義やイデオロギーを叫ぶ余裕がある人によって、自分が理解できる世界まで引きずり下ろされて理解されることではないかとも思います。

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