犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

殺人罪の時効廃止へ 法務省が報告書 その2

2009-07-18 23:00:20 | 国家・政治・刑罰
ある方のブログ記事より(一部編集)


私は、自分が少しでも楽に思えると、罪悪感でいっぱいになります。だから苦しい方を選びたくなります。我が子が死んでも、自分が代わってやれず生きているという罪(罪ではないのでしょうが)に似たものを、償えないことが分かっていても、償いたいが為に・・・。美味しいものが食べたいのではなく、出来たら食べないほうを選びたいのです。楽がしたいのではなく、出来たらしんどいほうを選びたいのです。楽を感じることには、意味とか理由を付けられず、それは時に我が子を喪った痛みを忘れてのうのうと生きているようにも思えてとても苦しくなります。

その方が23年間、夜テレビをつけずには過ごせないこと・・・・ 23年・・・・ たぶんこれからもでしょう。やはり心の回復などないと思いました。(痛みの出かたは、人により違うと思いますが) 23年・・世間はその事実を化石のように・・・ または、過ぎ去った古い歴史のように思うのでしょうか。いえ、そこまでの意識すら無く、23年というだけで、産まれたのも死んだのも同列の出来事くらいか、無かったも同然のように扱われるのでしょう。そこに湧いてくる思いは、自分の心の痛みを解ってもらえない無念ではないように思います。他人には我が子を喪うなんて殆ど解らないのでしょうし、同じように子を亡くした人でも、その苦しみに似たものはあっても同じものはありません。

時が経てば経つほど、理解の諦めは深まります。何が哀しいかといえば・・・・ 我が子の存在が無いものとして扱われたことのように思います。生きている子と同じ・・いえ、比べることは出来ませんが、本当はそれ以上の特殊な存在のようにも思えます。世間に対する苦しみもまた、我が子の短い命を思えば、自分だけの中に小さく消えてゆきます。虚しいです。その代わりに「大丈夫だよ、かあさんが居るよ。」と、何度も何度も死ぬほど我が子に言ってやらねば・・・と思うのです。

死んで何年・・・とは、世間では何かを薄れさせる年月なのかもしれません。ですが、子を喪った親にとっては、我が子が、生きるはずなのに生きられない年数です。親は、休みなくその無念を味わって喪い続けているのです。長く生きるほど、喪うということをもっともっと知ってしまうように思います。


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子を亡くしたという事で、私は自分が犯罪者になった気持ちになりました。私は自分が悪くないとはどうしても思えないのです。悪いのです。だから、そんな思いを抱えて人と交わる気持ちになれないのも本当なのです。よく考えてみれば、我が子が居なくなって辛いからとか、人から安易な慰めを貰いたくないからというだけではなかったのでした。まさに、犯罪者の気持ちだったのだと今頃気が付きました。

我が子を死なせた・・・・ 他人から言えば「我が子を殺した。」 これがあまりに正しすぎて口に出す事が出来ません。色々な思いを掘り下げて、たどり着くのはいつもここです。ここから逃げるつもりもありません。どう思い方を変えてみたって、我が子が帰って来ないのですから、私の場合、犯罪者の気持ちが晴れることはありません。そして・・・・これをどれほど背負って生きたって、そんなことは、我が子が命を失ったことに比べたらまだまだ軽すぎます。だから・・ 我が子が居ないことは、どうしたって耐え切れないことであっても、私自身の苦しみなんて「耐えられない」などと言う気がしなくなります。そんなことをもしも思うなら、また別の罪が重くなるだけです。


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このような文章を読んだ後で、「時効の意義は容疑者が逮捕されずに生活していた間の状況や人間関係(家庭、職場など)を保護するためにある」といった意見を聞くと、心底ガッカリさせられます。また、「時効の意義は、逃亡中いつ逮捕されるか分からないという精神的苦痛から容疑者を解放するためにある」といった意見を聞かされると、その気楽さにウンザリするところもあります。法律などでは決められない、人の生死に漠然とした畏れを抱き、悼む気持ちが少しでもある限り、それを脇に置いて殺人者のその後の人間関係、あるいは精神的苦痛の存在を論じることには、強烈な違和感が生じるはずです。

日弁連は6月に、時効の撤廃に反対する意見書を出しています。その中では、「廃止や延長により被害者や遺族が得られる利益と、容疑者・被告人が被る不利益や捜査資源の配分問題とを比較考慮すべきだ」、「被害者遺族に関しては、むしろ公訴時効の廃止ではなく、刑事警察の捜査能力の向上、同時に経済的・精神的な支援の具体的な施策や措置がなされることが必要だ」と述べられています。最初に引用した文章、すなわち絶望の中から絞り出された文章の後で、このような「比較考慮」「経済的・精神的な支援」の文章を読むと、やはり脱力するところがあります。ここまで平面的な正義を振りかざし、イデオロギー的な情念で自らを固めることができる人は、とても幸福だと思います。

「時効が廃止されれば、犯罪者はいつ逮捕されるがわからない精神的苦痛に一生苦しめられることになる」という事実は、全くその通りです。しかしながら、我が子を失った人における、「私は犯罪者の気持ちが晴れることはありません。そして、これをどれほど背負って生きたって、そんなことは、我が子が命を失ったことに比べたらまだまだ軽すぎます」という事実に比べれば、その精神的苦痛は冗談のようなものだと思います。また、「経済的・精神的な支援の具体的な施策や措置がなされることが必要だ」と言われたところで、「死んで何年・・・とは、世間では何かを薄れさせる年月なのかもしれません。ですが、子を喪った親にとっては、我が子が、生きるはずなのに生きられない年数です」という絶望的な真実が存在する限り、そのような施策や措置に効果はありません。