犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

水掛け論

2009-07-29 23:45:26 | 国家・政治・刑罰
朝日新聞 7/28朝刊 投書欄
「財政理由の時効存続論に疑問」  57歳 男性

「公訴時効を廃止すれば、数十年前の捜査のために直近の事件捜査が阻害され、警察負担ひいては国民負担が増し行財政改革的に不合理」という23日投稿に疑問を感じる。時効廃止は殺人など凶悪犯が時効で公訴を免れる不条理を是正するもので、数十年前の事件を直近事件と同じレベルで捜査しろということではない。

東京の女性教諭が実は同じ小学校の警備員に殺されていた事件は、犯人が時効後に自首した。区画整理で自宅敷地に隠した遺体が発見されるのを恐れての自己中心的な理由からだ。この場合、遺族をはじめ市民感情が、行財政改革を理由とする時効存続論に納得するとは思えない。

足利事件は今後、真犯人が分かっても公訴できないが、そのことを行財政改革の観点から妥当と言う人はいまい。冤罪の菅家利和さんが「(真犯人を)絶対許せない、時効になっても許さない」と語った。自分に対する冤罪が結果的に、真犯人に時効を迎えさせてしまったという悔しさが伝わってきた。時効廃止で凶悪犯が判明したら、何時でも公訴を可能にする改正に大賛成だ。

(23日の投稿は→ http://blog.goo.ne.jp/higaishablog/d/20090724)

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私は、凶悪事件の時効撤廃に賛成する意見を聞くと、我が意を得たりという気分になります。他方で、時効撤廃に反対する意見を聞くと、なぜか非常に不快な気分になります。これは、私が時効撤廃に賛成していることが原因なのではなく、逆に、このように快・不快を区別しているということが、私が時効撤廃に賛成していることを示しているのだと思います。自分と同じ意見ならば少々の論理の飛躍は補えますが、自分と違う意見の論理の飛躍はいちいち気に障ります。また、自分と同じ意見の論拠はどれも説得力がありますが、自分と違う意見の論拠はどれも説得力がありません。そして私は、これは客観的な正義・不正義の問題であって、個人的な好き・嫌いの問題ではないと、自分を納得させようとしています。

私は、時効の存続を主張する23日の投書を読んで、「何か一言言ってやらずにはいられない」という気分になりました。しかし、この28日に掲載された方ほどの行動力はないため、世界の片隅の自分のブログに目立たないように書いただけでした。それでも、怒りで顔を真っ赤にして、政治的な意見を表明したくなった点は同じです。時効撤廃論が正しく、時効存続論は間違っていると思った時には、すべて「結論先にありき」で、理由は後付けです。異なった意見に接して、お互いの価値観を尊重し合って、議論の中で自らを鍛えるという意識など全くありませんでした。現に、刑法において殺人罪に時効の定めを置くか否かは、法制度として一方のみを選ぶしかないからです。意見を主張するのはそれが正義だからであり、それを裏付ける根拠を必死になってかき集めるのは、反対論を論破して間違いを認めさせるため以外ではありません。

私は、このような自分自身の心の方向性に気が付くたびに、「いつの間にか水掛け論に入り込んでしまったな」と苦笑します。そして、自分と違う意見を聞いて不快になった時よりも、自分と同じ意見を聞いて心地よい気分になった時に、この自己欺瞞に改めて気付かされます。一般に水掛け論とは、互いに根拠のないままに自らの思い込みを主張することによって起こるものであり、客観的な証拠に基づいて説得力のある議論を展開するならば、水掛け論には陥らないとも言われているようです。しかしながら、ネットの掲示板から国会論戦に至るまで、客観的な証拠に基づく説得力のある議論の展開が、より激しい水掛け論を呼び込んでいることは疑いないようにも思われます。私は、「殺された側に時効はない」という絶望の奥底から絞り出された言葉を、自らの快・不快の感情によって、凶悪事件の時効撤廃に賛成する政治的意見の論拠とする偽善に敏感でありたいと思います。

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