犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

映画 『劔岳 点の記』

2009-07-05 17:05:11 | その他
この映画は、約100年前に陸軍の測量隊が通った道を実際に辿り、CG・空撮一切なしで、文字通り命がけで撮影したことが評判になっている。人間が英知を尽くして開発したCG、すなわち人間に感動を与えるために発明されてきた技術を使わないことが、それによって独特の感動を生み出しているという事実は、非常に逆説的である。このような感動は、人間は一体どこへ向かっているのかという不安とともに、人間はどこへも行かないという安堵感をもたらす。

CGを全く使わない以上、時には氷点下40度以下にもなったり、何日間も山小屋で待ち続けたり、ワンシーンだけのために9時間も山の中を歩いたりして、この映画は3年がかりで完成されたそうである。ところが、本物の映像の迫力に圧倒されている人々に混じって、世の中には実に穿った見方をする人がいる。「少しくらいCGを使ったほうが、より美しい映像が創れたのではないか」。「作り手の苦労の裏話など感動の押し売りであり、観客の評価には関係ない」。このような「辛口の評論」によって不快な思いをするのは、誰よりもその人自身である。

新田次郎氏が描いているのは、様々な利害関係が絡み合った人間関係において、それを人間模様として、人間について考えるための人間の姿である。これは、わかりやすい視点を固定したものではなく、深みがあるゆえに後味は良くない。また、単に時代や歴史が人間を容赦なく呑み込むというだけではなく、それを複数の人間の視点から捉え、しかも感傷的に逃げることもないため、見る側においては複雑な感情がそのままに残される。このような感情は、デジタル化した社会においても、究極のアナログとして残されている。

主役の香川照之さんは、「あれは演技ではない」「僕達の体験したことがそのまま、100年前の出来事として映画になっている。不思議な気分になりました」と語っている。観客にとっては、CGを実写だと騙されてある種の感動を味わっても、逆に実写をCGだと騙されて別の種類の感動を味わっても、実はそれほどの違いはない。これに対して、CGが駆使できる時代においてCGがない時代を追体験するためのCGの拒否は、監督にとっては制作という概念を超え、俳優にとっては迫真の演技という概念を超えてしまう。人間の生き様は、100年程度で簡単に変わるものではない。