犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

岡本薫著 『世間さまが許さない!』

2009-07-12 00:29:58 | 読書感想文
p.156~

自由と民主主義はもともと「みんなバラバラ」ということを前提としているので、宗教が異なろうと、歴史的な経緯がどうであろうと、基本的なモラル感覚の差異がどうであろうと、「多数決でルールを決める」「決まったルールには全員が従う」「多数決で決まったルールに反しない限り自由」ということでいいはずだ。ところが、そうした理論やシステムだけで宗教的対立や民族主義や歴史的怨念を乗り越えられるほど、人間の心は論理的にできていない。

人間というものはそれほどロジカルには思考・行動できず、感情に支配される面が少なくない、ということだろう。自分のモラル感覚に反するものには(ルールがどうであれ)反感や嫌悪感を持ってしまうので、「多数決で決まったからには進んで守れ」とか「人はそれぞれ自由」などと言われても、素直には従えないのである。つまり、「自由と民主主義」というものは、「人々の心はバラバラであっていい」という、生身の人間が持つ現実の感情を無視した人工的なシステムであるため、その「バラバラ度合い」を「一定の範囲」に止めておく「宗教」=「神さまのモラル基準」が必要になるのだ。

では、日本において、これまで人々のバラバラ化を防ぎ「日常生活や人生の基本に関して、国民・民族の大部分に共通するモラルの基準」を与えてきたのが「神さま」でないとしたら、いったい何だろうか。それは「世間さま」である。「宗教」に代わって「日本的モラリズム」が、社会のバラバラ化を防いできたのだ。当然のことながら、この「世間さま」によるモラル基準が機能してきた背景には、「世間さまを構成する人々は、同じモラル感覚を共有しているはずだ」という「同質性の信仰」があった。


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著者の岡本薫氏が言わんとしているのは、「自由と民主主義は、そもそも日本人に向いていないのではないか?」「向いていないなら、無理してやらずに止めたらどうか?」ということです。これを本気で読めば冗談のようにしか見えませんが、逆に冗談として読むと本当のことになってしまうのが面白いところです。

民主主義を支える制度の根幹は選挙ですが、衆議院の解散総選挙が近付けば近付くほど、この国が民主主義国家だとは思えない様相を呈してくるのも妙なところです。どの政党も4年ごとに選挙に勝てるように国民に迎合し、ポピュリズムに頼り、マスコミが作った風に乗って選挙を人気投票にしているならば、すでに「世間さま」は実質的に「民主主義」を乗っ取っているようにも見えます。