犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ヘーゲルと社会契約論

2007-07-29 18:55:24 | 国家・政治・刑罰
ルソーの『社会契約論』の有名な一節に、次のようなものがある。「イギリス人は、自分達が自由だと思っているが、それは大きな間違いである。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけであり、議員が選ばれるや否やイギリス人は奴隷となり、無に帰してしまう」。これはイギリスの議会制についての批判であり、人民の直接参加による直接民主制の正当性を指摘するものである。

間接民主制(代表民主制)は保守的であり、直接民主制は革新的であるという構図は、我が国の政治学でも伝統的に確立していた。ところが、我が国では憲法9条改正の国民投票の問題が絡み、革新政党が直接民主制に反対している有様である。移り変わる現象のほうから唯一の正解を導き出そうとすると、どうしても辻褄が合わなくなって苦労することになる。

マルクス主義が21世紀にも影響を及ぼしている点としては、政治的な主義主張が哲学的言説の形式を採って主張されているという事実が挙げられる。マルクスによるヘーゲル批判は強烈であり、20世紀の末にマルクス主義が終焉しても、それによってヘーゲルが見直されるという方向にはならなかった。現在の日本のアカデミズム、すなわち憲法学を中心とする法律学においても、一番人気がロックであり、革新派に人気があるのがルソーであり、保守派に人気があるのがホッブズである。そして、ヘーゲルはそもそも法律学者に知られていない。マルクス主義の影響は、それほどまでに大きかった。

現代の政治的な議論がヘーゲルを消化できない理由は、ヘーゲルが社会契約論者ではないことによる。ロックやルソーの思想に慣れている政治学・法律学の専門家にとっては、全体主義で国家主義のヘーゲルなど、使い物にならないというところであろう。しかし、それでは、ヘーゲルがドイツ観念論哲学の完成者であり、近代哲学と現代哲学の分水嶺であり、哲学の王道を歩む巨人と言われているのはなぜなのか。ヘーゲルの理論が使い物にならないのは、多くの政治学者・法律学者にそれを使う能力がないからである。

ヘーゲルの「法の哲学」は、単なる「権利の哲学」ではない。ヘーゲルのいう自由とは、あくまでも人間の内側から生じているものであり、政治的な論争では捉えきれない。ヘーゲルの国家論は、「世界は私であり、私は世界である」という弁証法を通して見なければ、単なる国家主義、権威主義にしか見えないのも当然のことである。

人間のあらゆる側面を市民社会の原理のみで把握しようとしたのがマルクス主義であり、その枠組みを捨てきれない政治学者が、18世紀のヘーゲルを通り越して、17世紀のロックにその淵源を求めている。しかし、当然のことながら、ロックはヘーゲルによって乗り越えられている。それも、中途半端な乗り越えられ方ではない。ホッブズを“A説”、ロックを“B説”、ルソーを“C説”と位置づけるならば、ヘーゲルは“D説”ではない。いわば“アルファベット”である。AとBとCとで喧嘩をしているときに、アルファベットそのものを問題とされては、意味がよくわからない人が多いのも当然である。

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